言葉の嵐に溺れる拡声者
夕暮れが、血のような朱色から、ねっとりとした濁った紫へと溶けていく。逢魔が時――生者と死者の境界が曖昧になるその時間、都立常盤木高校の新校舎三階の廊下は、まるで深い底に沈んだ沈没船のように冷え切っていた。
橘美咲(たちばなみさき)は、誰もいない廊下で、手すりにすがりつくようにして歩いていた。彼女の首元には、喉を保護するための分厚いネックウォーマーが巻かれている。だが、その内側にある彼女の声帯は、すでに限界を迎えていた。呼吸をするたびに、喉の奥が火を吹いたように熱く、そしてひび割れた粘土のように痛む。
「……は、っ……ぅ……」
かすれた吐息さえ、喉を物理的に削る刃となって彼女を苛んだ。大声で話し続けることに疲れ果て、数日前に放送部を辞めたばかりだった。他人の顔色を窺い、求められる「明るいムードメーカー」を演じるために声を張り上げ続けた結果、彼女の喉は悲鳴を上げたのだ。だが、彼女を真に追い詰めていたのは、肉体的な摩耗ではなく、手のひらの中で青白く光るスマートフォンの画面だった。
画面に映し出されているのは、学校の匿名掲示板と、いくつかのSNSのタイムライン。美咲が部活を辞めたその日から、執拗なまでの言葉の嵐が吹き荒れていた。
『橘美咲、急に部活辞めてウケる。今まで調子乗ってたから自業自得っしょ』
『あの喋り方、生理的に無理だったんだよね。偽善者っぽくて』
『声がデカくてうるさいだけの女。消えてくれてせいせいしたわ』
悪意に満ちた文字の羅列。それを主導しているのが、美咲が去った後に放送部の実権を握った早川莉奈(はやかわりな)とそのグループであることは明白だった。莉奈の「いいね」を稼ぐための、無自覚で、それゆえに容赦のない悪意の拡散。ネットの海に放たれた匿名の言葉たちは、鋭利なガラスの破片となって美咲の精神をずたずたに切り刻んでいく。
ピコン、ピコン、と通知が鳴るたび、美咲の胸に目に見えない針が突き刺さる。誰もいないはずの廊下なのに、どこからか無数の「囁き」が聞こえるような気がした。いや、それは幻聴ではなかった。
――ズズ、ヌチャ……。
廊下の隅、ロッカーの影から、どす黒いヘドロのような粘液が染み出してきた。それは、ネット上のいじめチャットや陰口のエネルギーを吸って実体化した言葉の怪異――囁きの怪「耳削ぎ(みみぞぎ)」だった。
その姿は、人間の巨大な「耳」の肉塊のようでありながら、表面には無数の小さな「口」がびっしりと生え揃い、不気味に蠢いている。口々は、スマートフォンの画面に並んでいた悪意の言葉を、湿った、粘り気のある声で一斉に囁き始めた。
『……偽善者……うるさい……消えろ……調子乗ってた……』
「……あ……っ……」
美咲は恐怖に目を見張り、後ずさりした。だが、耳削ぎから溢れ出た黒いインクのような液体(言葉の死骸)が、まるで生き物のように床を這い、彼女の足元を包囲していく。粘液から伸びた黒い糸が、美咲の影を捉え、そのまま彼女の細い首元へと這い上がってきた。
冷たい。首を絞められているわけではないのに、喉の奥が物理的に塞がれていく。空気が吸えない。美咲は必死に声を上げようとした。放送部時代に鍛えた、あの美しく響く言霊の力で、この怪異を退散させようとしたのだ。
(……消えて……私の前から、消えなさい……!)
だが、彼女の心を満たしていたのは、いじめによる深い自己嫌悪だった。『私の声は、本当にうるさいだけなのかもしれない』『消えた方がいいのかもしれない』――その心の隙間が、言霊の力を完全に奪い去っていた。喉の奥で魔力が暴走し、激しい熱となって彼女の声帯を焼き焦がす。声は掠れた悲鳴にさえならず、ただ血の味が口内に広がるだけだった。
耳削ぎの口々が、嬉しそうに歪んだ。
『……喋れない……役立たず……そのまま、声を失って死んじゃえ……』
黒いインクの糸が、美咲の首をきつく締め上げる。窒息の苦しみの中で、美咲の視界が急速に狭まっていく。スマートフォンが手から滑り落ち、液晶画面が硬い床の上で鈍い音を立てて砕け散った。
その時だった。
――ツ、ツン――……。
新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下の向こうから、冷たい風と共に、微かな、だが驚くほど純粋な「お茶の匂い」が漂ってきた。それは、都会の埃っぽさも、ネットの悪意のヘドロもすべて洗い流してしまうような、静かで温かい、地脈の残り香だった。
美咲がかすむ視線を向けると、渡り廊下の闇の奥から、旧校舎二階「作法室」の引き戸が静かに開くのが見えた。
そこに立っていたのは、黒髪を低めのツインテールに結った、華奢な少女――高橋結衣(たかはしゆい)だった。結衣はセーラー服の上に無地の白いエプロンを着用し、その右手には、ガラス化の冷気を隠すための白い薄手の手袋を嵌めている。彼女は一言も発せず、ただその大きな瞳で、廊下の惨状を見据えていた。
結衣は一歩も動かないまま、左手をすっと前に突き出した。その指先から、不可視の「銀の霊糸」が放たれる。だが、それは空中を飛んだのではない。結衣が放った糸は、作法室の畳の裏に張り巡らされていた「畳下の這い糸」を伝い、床板の隙間を滑るようにして、一瞬で美咲の足元へと到達したのだ。
――チリ、と静かな火花が散った。
結衣が指先を微かに引くと、床下から飛び出した銀の這い糸が、美咲の影に絡みついていた耳削ぎの黒いインクの糸を、音もなく一刀両断した。物理的な刃ではない。それは、因果の繋がりを直接切り裂く、調律師の無声の魔術だった。
「……ガ、っ……!」
喉の呪縛から解放された美咲が、激しく咳き込みながら床に膝を突く。耳削ぎは自身の支配糸を切り裂かれたことに怒り、無数の小さな口から「キィィィン」という不快な金属音を上げて結衣を威嚇した。だが、結衣の表情は氷のように冷徹なまま、微動だにしない。
結衣の背後から、カチ、カチ、と小さな木の関節が擦れ合う音が響いた。作法室の「無声の給仕係」である市松人形、落丁の人形・小夜(さよ)が、音を立てずに廊下へと滑り出してきたのだ。小夜は赤い着物を揺らしながら、倒れ込んだ美咲の脇に素早く回り込むと、その球体関節の腕で美咲の身体を優しく、だが力強く抱きかかえた。
結衣は美咲と小夜に向けて、手話で素早く『中へ』と指示を送った。その手の動きは滑らかで、一切の迷いがない。
小夜は美咲を支えながら、滑るような動作で作法室の敷居を越え、その内部へと退避させていく。美咲が作法室の畳の上に倒れ込んだのを確認すると、結衣は廊下に残された耳削ぎを一瞥し、静かに引き戸を閉めた。
――ガララ、カチリ。
真鍮の鍵が回り、施錠される音が響いた瞬間、外界のすべてのノイズが嘘のように消失した。耳削ぎの不快な囁きも、新校舎から漂う悪意の気配も、作法室の「絶対静寂の結界」によって完全にシャットアウトされたのだ。
美咲は、青畳の匂いとお茶の残り香に包まれながら、荒い呼吸を繰り返していた。喉の奥はまだ激しく腫れ上がり、一言も喋ることができない。だが、彼女の心臓を凍りつかせていた「言葉の嵐」は、この部屋の静けさによって、確かに和らいでいた。
結衣は、砕けたスマートフォンの代わりに、鞄から「初代のスケッチブック」を取り出し、感覚の鈍い右手の指先で色鉛筆を握った。彼女は美咲の傍らに膝を突き、紙面に丸っこい、だが力強い文字を素早く書き込んだ。
『もう大丈夫。ここは静かだから』
スケッチブックを提示された美咲は、目元から大粒の涙を零しながら、無言で何度も、何度も頷いた。言葉を失い、世界から拒絶されたと感じていた少女が、この放課後の作法室で、生まれて初めて「沈黙という救済」に触れた瞬間だった。
しかし、作法室の窓の外、夕闇が完全に校舎を支配したその暗闇の中で、早川莉奈のスマートフォンが再び不気味に明滅していた。その背後に潜む、天界の執行官「月華」の、より巨大な悲劇の脚本が、美咲を狙って本格的に起動し始めていることを、彼女たちはまだ知る由もなかった。
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