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指先のガラス化と音叉の共振

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放課後の旧校舎二階、作法室。廊下を吹き抜ける秋風が、建付けの悪い引き戸を微かにカタカタと揺らしている。だが、一歩室内に足を踏み入れれば、そこには現実世界の喧騒から切り離された、濃密な「無音」が満ちていた。


 夕暮れのオレンジ色の光が、障子を通じて畳の上に長い格子の影を描き出している。部屋の中央に据えられた「無声の茶釜」からは、ほんのり緑色を帯びた白い湯気が一筋の糸のように立ち上り、室内に「静寂の露」の甘く静かな香りを漂わせていた。囲炉裏の中で燃える「消音の炭火」は、パチパチという爆ぜる音を一切立てず、ただ赤い熱だけを放っている。


 部屋の隅では、先日図書室の怪異から救い出された一年生の坂上葵が、大きな眼鏡を曇らせながら、静かに茶道具を白い布で拭いていた。彼女は時折、私と蓮の方を伺うように視線を向け、それからまた健気に手を動かす。まだ言葉を失ったショックから完全には立ち直っていないようだったが、この作法室の静けさが、彼女の傷ついた心を少しずつ癒しているのが分かった。


 私は、右手に嵌めていた薄手の白い手袋をゆっくりと外した。


「……っ」


 指先を露わにした瞬間、作法室の温度がわずかに下がったような錯覚に囚われる。人差し指と中指の第一関節から先が、完全に冷たく透き通った半透明のガラスへと変色していた。皮膚の柔らかな質感は消え去り、夕日に透かすと、内部の骨の輪郭すら曖昧に光り、微かな冷気の霧をたなびかせている。


 指先のガラス化・初期段階――。


 図書室で葵を救うため、基本型「運命の切断(スレッド・カット)」と「サイレント・コマンド」を立て続けに使用した代償だった。喉に封印された邪神「無明」の冷気が、私の肉体を蝕み始めている。それは、他者の運命を書き換えるたびに支払わねばならない、残酷な等価交換の傷跡だった。


 お茶を点てて、みんなの疲れを癒そう。


 そう思い、私は左手で白磁の茶碗「無垢」を支え、右手で竹製の茶筅を握ろうとした。だが、ガラス化した指先には温覚も触覚も存在しない。冷え切った硝子の棒で物を掴もうとするかのように、指が滑る。


 ――カタ、リ。


 茶筅が私の凍りついた指先から滑り落ち、畳の上へと転がった。音を消す結界の中であっても、その小さな乾いた音は、私の不器用さを嘲笑うかのように大きく響いた。


「あっ……」


 葵が驚いたように身を乗り出し、茶筅を拾おうと手を伸ばしかけた。だが、それを制したのは、私の斜め前に座っていた羽瀬蓮だった。


 蓮はアッシュグレーの髪を揺らし、自身の耳に装着された骨伝導補聴器の青い光を明滅させながら、静かに首を振った。彼は私の右手に視線を落とし、そのガラス化した指先をじっと見つめていた。その端正な顔立ちに、言葉にできない焦燥感と、胸を締め付けられるような優しさが混ざり合っていく。


 蓮は、私の指先の冷気がただの冷え性ではないことを、そしてそれが彼を救うために重ねてきた戦闘の代償であることを、静かに見抜いていた。


 彼は私の前に膝行して近づくと、自身の首にかけていたペンダント――かつての調律師の遺品である「真鍮の音叉」を手に取った。蓮は目を閉じ、私の指先から漏れ出る「冷気の音」を聴き取ろうとした。


 蓮は骨伝導補聴器のボリュームを、霊的な領域まで強引に引き上げた。邪神の冷気が放つ不協和音を、自身の耳で特定しようとしたのだ。


「……っ、うあ、あ……!」


 次の瞬間、蓮は顔を紙のように白く染め、両耳を激しく押さえて畳の上に突っ伏した。彼の喉から、押し殺したような苦痛の喘ぎが漏れる。邪神「無明」の冷気が放つ不協和音は、あまりにも強大で、かつ底知れない深淵のノイズだった。それは蓮の過剰な霊的聴覚に直接、鋭利なガラスの破片となって突き刺さり、彼の脳を内側から破壊せんばかりに暴れ回ったのだ。こめかみの血管が青く浮き上がり、激しい頭痛が彼を襲う。


 私は慌てて彼に手を伸ばそうとしたが、蓮は首を横に振り、震える手で真鍮の音叉を固く握りしめた。彼は諦めなかった。ノイズに圧倒されるのではなく、その周波数を「調律」するための波長を、自身の脳内で必死に計算し、整理していく。


 蓮は深く息を吐き、音叉の真鍮の肌を、自身の器用な指先で鋭く弾いた。


 ――チィィィン――……。


 作法室の静寂の中に、極めて澄んだ、波紋のような振動が広がっていった。それは、都会の喧騒を打ち消すための、純粋な「静寂の波動」。


 蓮は、その細かく震える真鍮の音叉を、私のガラス化した右手の人差し指へとゆっくりと近づけた。音叉の金属面が、私の凍りついた皮膚に触れるか触れないかの距離に達した、その時。


 ――ジ、ジジ……と、氷が溶けるような微細な霊的摩擦音が発生した。


 音叉から放たれる消音波動が、私の指先に宿る邪神の冷気の霊的振動を、物理的に相殺していく。冷たい硝子のようだった私の指先に、じんわりとした、信じられないほどの温もりが戻り始めた。凍りついていた関節が、滑らかに動きを取り戻していく。


「……!」


 私は目を見張った。温かい。失われていたはずの血の通う感覚が、蓮の音叉を通じて、私の右手に流れ込んできたのだ。私は驚きと喜びを蓮に伝えようと、彼の顔を見上げた。


 だが、その瞬間に私の心臓は凍りついた。


 蓮の端正な顔が、苦痛に歪んでいた。彼の骨伝導補聴器は、赤く不気味な光を激しく明滅させている。そして、彼の左耳の奥から、一筋の鮮やかな赤―― crimson の血が、ゆっくりと流れ落ち、彼の白い首筋へと伝わっていったのだ。


 温もりの移動は、無償の奇跡ではなかった。蓮は自身の「感覚過敏」の防壁を無理やりこじ開け、私の指先を蝕んでいた邪神の冷気の「痛み」と「呪い」を、音叉の共振を媒介にして、自身の精神へと直接引き受けていたのだ。痛みの逆流。それは、二人の因果が深く結びつき、互いの肉体と精神が同調し始めた、恐ろしい悲劇の始まりだった。


 私は激しい衝撃と罪悪感に襲われ、弾かれたように蓮の手から自分の右手を引き剥がした。


 急いで鞄から「初代のスケッチブック」を取り出し、色鉛筆を握る。感覚の戻った右手は滑らかに動き、紙面に激しい筆跡で文字を刻み込んだ。


『ダメ、危ない。二度としないで』


 スケッチブックを蓮の目の前に突き出す。私の目は、怒りと、それ以上の悲哀で濡れていた。


 蓮は耳から流れる血を制服の袖で無造作に拭い、ひどく青ざめた顔のまま、それでも私を見つめて、静かに、優しく手話を紡ぎ出した。


『大丈夫。僕が君の「耳」になると決めたんだ。君の痛みを半分引き受けるのも、僕の役割だ』


 蓮の細い指先が、空中に「絆」の形を描く。その動きには、一切の迷いも、後悔もなかった。言葉を失った私たちだからこそ、その無言の意思表示は、現実世界のどんな甘い言葉よりも深く、重く、私の胸の奥へと突き刺さった。


 私はスケッチブックを抱きしめ、ただうつむくことしかできなかった。温もりを取り戻した右指先が、じんわりと痛む。この温かさは、彼の血で贖われたものだ。


 葵は、拭きかけの茶碗を抱えたまま、私たちの様子をただ静かに見つめていた。彼女の大きな瞳には、私たちが背負う「沈黙の代償」の重さと、言葉を超えた強い連帯に対する、畏怖と憧れが入り混じった光が宿っていた。


 作法室の外では、夕暮れが完全に終わりを告げ、宵闇が世界を包み込もうとしていた。窓の外、新校舎の喧騒はすでに遠い。だが、外界のノイズは消え去ったわけではなかった。学校の廊下の隅で、生徒たちの噂話が、再び小さな、不穏な波紋を広げ始めている。


 ――放送部を辞めた、あの先輩の噂。橘美咲。彼女の周囲に、天界の執行官が紡ぎ出す「悲劇の脚本」の、黒い不協和音が静かに這い寄り始めていた。そのことに、私たちはまだ気づいていなかった。

HẾT CHƯƠNG

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