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図書館の囁きと銀の霊糸

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あの放課後、作法室の障子の外まで這い寄ってきた怪異『耳削ぎ』を、蓮の機転と私たちの無言の連携によって調伏してから、一週間が過ぎていた。


 羽瀬蓮は、今では放課後になると当然のように旧校舎の作法室へと足を運ぶようになっていた。「無声の茶釜」が静かに沸かす「静寂の露」の温かい湯気の中で、彼は時折、小さく、だが確かな安らぎの笑みを浮かべる。都会の騒音に痛めつけられていた彼の骨伝導補聴器は、この八畳間の和室の中だけは、穏やかな青い光を静かに明滅させていた。


 私は、右手の人差し指と中指に巻かれた「絆創膏の霊呪」をそっと撫でる。祖母から送られてきたその朱色の呪文は、私の指先が完全に冷たいガラスと化してしまった事実を、クラスメイトや教師の目から隠し続けてくれていた。触覚を失い、ただ微かな冷気だけを放つ指。お茶を点てる茶筅の重みすら、感覚の消えた指先では正確に測れない。その不器用さを隠すために、私は常に左手で右手を補うようにして所作を行う。それでも、この静寂の空間だけは、私たちの唯一の避難所だった。


 言葉は刃であり、沈黙こそが最大の救済である――。


 その信念を胸に秘め、私は今日も音のないお茶を点てていた。だが、学校という巨大な「言葉の檻」は、常に新たな不協和音を再生産し続けている。


 その日の放課後、蓮が作法室の引き戸を静かに、しかし急な動きで開けた。彼の顔は緊張に青ざめ、首にかけた「真鍮の音叉」を固く握りしめていた。彼は私に向かって、素早く、焦燥に満ちた手話を紡ぎ出した。


『図書室。酷い不協和音。誰かが、言葉に押し潰されそうになっている』


 蓮の「不協和音の認知」が、新校舎の三階にある図書室から発せられる霊的な歪みを感知したのだ。私は点てかけた茶筅を置き、鞄から「初代のスケッチブック」を掴み取ると、蓮の後に続いて作法室を飛び出した。


 常盤木高校の新校舎三階にある図書室は、普段から「静寂」を推奨される場所だ。しかし、その静けさは作法室の温かいそれとは決定的に異なっていた。そこは、吐き出されなかった悪意、机の裏に刻まれた呪詛、そして沈黙を強要された者たちの「言葉の重み」が泥のように沈殿する、もう一つの澱みだった。本棚の隙間を吹き抜ける風が、まるで誰かの陰口のように不快に囁いている。


 書架の最奥、古い郷土資料や分厚い事典が並ぶ薄暗い影の中で、その事件は起きていた。


 図書委員の一年生、坂上葵。彼女は大きな眼鏡を曇らせ、胸元に一冊の古い革表紙の日記帳をきつく抱きしめたまま、本棚の隅にへたり込んでいた。彼女を取り囲んでいたのは、派手な制服を着崩した数名の上級生たちだった。


「ねえ、聞いてるの? 何で返事しないわけ?」

「喋れないなら図書室に引きこもってないで、どっか消えればいいのに」


 彼女たちが放つ嘲笑と悪口は、物理的な質量を持った「言葉の暴力」として、葵の頭上に降り注いでいた。葵の喉は恐怖と自己嫌悪で完全に塞がれ、声を出そうとしても、ただかすれた息が漏れるだけだった。彼女の「声」が、いじめの重圧によって物理的に奪われかけているのだ。


 その時、葵が抱きしめていた古い革表紙の日記帳――呪い本「破られた頁」が、彼女の絶望を栄養分として目覚めた。


 ズズ、と本棚の影が不自然に歪み、日記帳のページの隙間から、ドロドロとした黒いインクが溢れ出した。それは、ネット上のいじめチャットや陰口が実体化した「言葉の死骸」だった。


「あ、あれ……何、これ……!」


 上級生たちは、突如として足元に広がった黒い粘液と、本棚の奥から這い出てきた無数の「引きちぎられたページの死骸」に悲鳴を上げ、我先にと図書室から逃げ出していった。取り残された葵の身体に、黒いインクが触手のように絡みつき、彼女を日記帳の「文字の監獄」へと引きずり込もうとする。引きちぎられた紙片が鋭利な刃と化し、彼女の周囲で嵐のように吹き荒れた。


 私と蓮が図書室に踏み込んだ時、空間はすでに現実の物理法則を失いかけていた。黒いインクの臭気が、鼻を突く。


 私はすかさず右手を伸ばし、指先から不可視の銀糸を放とうとした。だが、指先のガラス化のせいで糸の強度が安定しない。放たれた銀糸は、日記帳から噴き出す「言葉の死骸(黒いインク)」に触れた瞬間、その悪意の毒に汚染され、ジュッと音を立てて霧散してしまった。直接の操糸は、あのインクに阻まれる。


 私は冷静に判断し、左手で「初代のスケッチブック」を開いた。色鉛筆を握り、紙面に素早く文字を刻み込む。


『拒絶』


 描き終えた瞬間、スケッチブックから淡い光を放つ文字が飛び出し、葵の周囲に展開された。それは言葉の代わりに概念を具現化する「サイレント・コマンド(無言の筆談)」。目に見えない強固な空気の壁が形成され、葵を切り刻もうとしていた紙の刃の嵐を「ギギギ」と火花を散らしながら弾き返した。


 しかし、呪い本「破られた頁」はさらに狂乱した。ページの隙間から、生徒たちのいじめの言葉――「消えろ」「目障りだ」「死ね」といった悪意の言霊が、鋭利な金属質の散弾となって私の空気の壁を物理的に削り取り始めた。防壁にひびが入り、私の右指先から、邪神の冷気がじわりと漏れ出す。絆創膏の霊呪が、内側からの霊圧に耐えかねて微かに剥がれかけていた。


(……これ以上、防壁は持たない……!)


「結衣……!」


 蓮が私の横に立ち、首にかけた真鍮の音叉を強く握りしめた。彼の骨伝導補聴器が激しくノイズを上げ、耳元で微かな光の粒子が弾けている。彼はその痛みに耐えながら、目を閉じて「不協和音の認知」の感覚を研ぎ澄ました。図書室の空間全体が歪み、呪い本が次の大規模な「言葉の散弾」を放とうと、周囲の空気を吸い込んでいく。


 その瞬間、蓮が目を開け、私に向かって素早く手話を放った。


『右、三歩奥。そこが、ノイズの結び目だ!』


 蓮の耳は、怪異が言葉を紡ぎ出す直前に発生する、空間の「音の歪み(周波数)」を正確に捉えていた。私は彼の言葉を100%信頼した。右へ素早く三歩移動する。その直後、私が先ほどまで立っていた場所に、黒いインクの奔流が突き刺さり、床のコンクリートをドロドロに溶かした。


 間一髪で回避した私は、スケッチブックに次の文字を力強く描き殴った。


『切断』


 そして、ガラス化した右手の指先から、渾身の銀糸を放出した。放たれた銀糸は、蓮が指示した「右、三歩奥」の空間――呪い本「破られた頁」の背表紙に繋がれた、不可視の「因果の黒い糸」を正確に捉えた。私は指先を鋭く引き絞り、基本型「運命の切断(スレッド・カット)」を無音で発動した。


 ――パツン、と。


 世界の雑音がすべて消え去るような、一瞬の絶対的な沈黙。


 銀糸が黒い糸を両断した瞬間、図書室を埋め尽くしていた紙の刃の嵐が、まるで力を失った落ち葉のようにハラハラと床に落ち、黒いインクはただの無害な水となって蒸発していった。


「はぁ、っ……」


 葵の身体から黒い霧が抜け、彼女は力なく床に倒れ込んだ。一命は取り留めたようだった。私は息を整えながら、床に落ちた古い日記帳――呪い本の残骸へと歩み寄った。その本はすでに霊力を失い、ただの古びた紙束に戻りかけていた。だが、私がそれを拾い上げようとした、その時。


 パサリ、と。日記帳の最後のページが、意思を持っているかのように、ひとりでにめくれた。


 そこには、いじめの言葉など書かれていなかった。ページの中心に、赤い麻糸で網のように緻密に編み込まれた、見たこともない不気味な「紋章」が浮かび上がっていた。それは、蜘蛛の巣のように複雑に絡み合う糸と、中央に配された歪な目の形。


 ――このいじめも、怪異の発生も、すべては仕組まれた「悲劇の台本」だったのだ。


 私は、指先のガラス化がさらに爪の根元まで進行していく微かな冷気を感じながら、その不気味な紋章をただ静かに見つめ続けた。

HẾT CHƯƠNG

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