不協和音の転校生
朝の光は、鋭い針のように私の部屋の窓から差し込んでいた。カーテンの隙間から滑り落ちた光の筋が、畳の上に冷たい境界線を描いている。
私は自室の古い姿鏡の前で、右手の指先を静かに見つめていた。人差し指と中指の第一関節。そこは昨日の放課後、旧校舎の作法室で「無声の茶釜」を起動し、地脈から噴き出した明治期の古い未練を調律した代償として、冷たく透き通った「ガラス」へと変貌してしまっていた。骨も血管も、半透明の硬質な輝きの中に溶け去り、朝の光をプリズムのように美しく、そして残酷に反射している。触れてみても、そこには何の温もりも、触覚すらも存在しない。ただ、凍てつくような冷気だけが、かすかに指先から漏れ出していた。
私は引き出しから、京都の祖母・綾乃から送られてきた「絆創膏の霊呪」を取り出した。お札の呪文が微細な朱色の文字で裏面にびっしりと書かれた特殊な絆創膏だ。それを、ガラス化した二本の指先に一枚ずつ、丁寧に巻き付けていく。粘着面が肌に密着すると同時に、指先から漏れ出ていた不自然な冷気と、霊力の残滓が完全に遮断された。これで、周囲の電子機器が私の接近によってノイズを起こすことも、普通の高校生にこの異常を見咎められることもない。ただの、少し不器用で指に怪我の多い女子高生。私はその仮面を、自らの皮膚のように貼り直した。
セーラー服の襟を整える際、首元に触れた指先が、昨日の千影の霊糸による赤い擦り傷に触れた。昨晩、作法室で点てた「静寂の露」の温かい湯気を吸い込んだおかげで、裂けるような激痛は引き、かすかな痒みを伴う薄赤い線へと落ち着いている。だが、喉の奥に居座るザラつき――邪神「無明」の微かな息吹は、依然として気管の壁をやすりで削るように、呼吸のたびに小さな不協和音を私の体内で奏でていた。
有声音を出してはならない。ため息一つ、苦痛の喘ぎ一つであれ、私の喉から「声」が漏れ出せば、封印は破裂し、東京は虚無の深淵へと沈む。私は喉の奥の氷をそっと飲み込むようにして、声なき覚悟と共に、重い通学鞄を左手で抱え上げた。
――ガラス化した指先の冷たさを抱え、私は今日、あの騒がしい教室へと戻らなければならない。
都立常盤木高校の校舎は、朝から言葉の暴力と騒音の坩堝だった。登校する生徒たちの足音、廊下に響く笑い声、教室内で飛び交うSNSの通知音。それらすべての「音」が、私にとっては鼓膜を泥で塗りつぶされるような不快なノイズとして迫ってくる。言葉は、他者を傷つける刃だ。誰もがその刃を無自覚に振り回し、教室の空気をずたずたに切り刻んでいる。
私は教室の隅、窓際の自分の席に座り、ただうつむいていた。周囲のクラスメイトたちは、場面緘黙症の私を「喋らない不気味な底辺」として遠巻きに扱っている。学級委員長の沢田翔太が、大声で笑いながら男子生徒たちと机を叩いて騒いでいる。その騒音の波が押し寄せるたび、私の喉の奥の邪神が、そのエネルギーを喰らおうと微かに脈動した。私は胸元をきつく握りしめ、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ石のように身を硬くした。
一限目のチャイムが鳴り、担任の教師が教壇に立った。だが、今日の教室の空気はいつもと違っていた。担任の後ろに、一人の少年が静かに立っていたからだ。
「――転校生を紹介する。羽瀬蓮だ。耳が少し不自由だから、みんなサポートしてやるように」
担任の事務的な声に、教室が微かにざわめいた。
羽瀬蓮。彼は少し癖のあるアッシュグレーの髪を揺らし、端正だがどこか影のある顔立ちをしていた。華奢な体躯。そして何より目を引いたのは、彼の両耳に装着された、金属質の奇妙な骨伝導補聴器だった。彼は、教室内を埋め尽くす「言葉のノイズ」に対して、まるで物理的な痛みに耐えるかのように、細い眉を不自然にひそめていた。
沢田翔太が、教卓の近くで聞こえよがしに囁いた。
「おいおい、補聴器かよ。喋れんのか? 高橋の次は難聴かよ。このクラス、障害者の集会所か何かか?」
男子生徒たちがクスクスと下卑た笑いを漏らす。その言葉の刃は、蓮の耳に届いているはずだった。だが、蓮は彼らを見ることもせず、ただ視線を床に落とし、自身の器用そうな指先を小さく握りしめていた。
彼の席は、偶然にも私の斜め前、廊下側の列に決まった。彼が私の横を通り過ぎる瞬間、私は微かな「風の揺らぎ」を感じた。それは、都会の汚れた喧騒とは異なる、張り詰めた、冷たい静寂の波長だった。
休み時間が訪れると、教室の騒音は限界値に達した。沢田たちが蓮の席の周囲に集まり、面白半分に大声で話しかけ始めたのだ。
「なー、羽瀬! それ、補聴器? これくらいの声なら聞こえんの?」
沢田が、わざと蓮の耳元で手を叩き、大声を張り上げる。周囲の生徒たちも、面白そうにその様子を囃し立てた。言葉の暴力が、教室内で渦を巻いていく。
その瞬間、蓮の骨伝導補聴器が「キィィン――」と、脳を突き刺すような強烈なハウリング音を立てた。現実世界の騒音エネルギーが、彼の過剰な霊的聴覚と補聴器の回路を通じて暴走したのだ。
「うっ、あ……!」
蓮は顔を紙のように白く染め、両耳を激しく押さえてその場にうずくまった。彼の喉から、押し殺したような苦痛の喘ぎが漏れる。彼の脳内では、都会のすべての雑音、クラスメイトたちの歪んだ話し声が、鋭利なガラスの破片となって耳の奥を直接切り刻んでいた。
「おいおい、なんだよ大袈裟だな!」「空気読めよ、ちょっと声かけただけだろ?」
沢田たちは、蓮の苦しむ姿を見て冷笑を浮かべ、さらに大声を浴びせかける。ノイズが、蓮の精神を完全に崩壊させようと膨れ上がっていく。
私は席から立ち上がろうとした。鞄の中の「初代のスケッチブック」に『静かにして』と描き、彼らに提示しようか。だが、私の脳裏に冷たい計算が走る。喋れない私が筆談で介入すれば、沢田たちはさらに興奮し、ノイズは倍増する。言葉による対話は、この状況では無力だ。物理的な音響エネルギーに対抗するには、感覚そのものを調律しなければならない。
私は迷わず、蓮の席へと歩み寄った。
そして、沢田たちの無遠慮な視線と、うずくまる蓮の間に、自らの華奢な身体を滑り込ませた。彼らの視線の刃を、私の背中で完全に遮断する。
「なんだよ高橋、邪魔すんなよ」
沢田の騒がしい声が背中に突き刺さるが、私は完全に無視した。私は蓮の前に屈み込み、耳を押さえて震える彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。そして、私の両手を彼の視界の正面に掲げ、迷いのない、優しく滑らかな動きで手話を紡ぎ出した。
『大丈夫。息を吸って』
蓮は驚いたように、涙で滲む瞳を上げ、私の手話を見つめた。私の手の動きは、言葉の騒音を切り裂く、音なき道標だった。だが、彼の骨伝導補聴器からは、依然として不快な高周波ノイズが漏れ続けている。このままでは、彼の精神がノイズの濁流に呑まれてしまう。
私は制服のポケットに左手を滑り込ませ、一枚の白いハンカチを取り出した。それは昨日の放課後、作法室で「静寂の露」を点てた際、その甘く静かな残り香(雑音の濾過)を意図的に染み込ませておいたものだった。
私はそのハンカチを、蓮の震える手にそっと握らせた。そして、自分の鼻孔を指差し、深く息を吸う所作を無言で示した。
蓮は戸惑いながらも、私の意図を察し、ハンカチを自身の鼻元に強く押し当てた。そして、深く、息を吸い込んだ。
その瞬間、ハンカチから漂う「静寂の露」の、深山のみずみずしい霧のような香りが、彼の鼻腔から脳髄へと直接浸透していった。お茶に溶け込んでいた絶対静寂の魔力が、彼の脳内の因果の乱れを急速に洗い流していく。補聴器のハウリング音が、まるで魔法のように、すっと遠ざかり、消滅していった。
「はぁ、っ……ふぅ……」
蓮の肩から力が抜け、荒かった呼吸が静かに落ち着きを取り戻していく。彼の瞳から恐怖の色が消え、深い安らぎの光が宿った。彼はハンカチを握りしめたまま、信じられないものを見るような目で、私の顔を見つめていた。
「おい、何だよそれ。手話? 怪しい宗教かよ」
沢田が不快そうに舌打ちをし、周囲の生徒たちも「不気味な緘黙症の女と、耳の聞こえない転校生、お似合いじゃん」と、冷たい嘲笑を浮かべて遠巻きに囁き始めた。教室内での社会的孤立が、さらに深く、暗く、私たちの周囲に固定されていく。だが、私はその冷笑を、淹れたてのお茶の湯気のように静かに受け流した。蓮の呼吸が守られたなら、それでいい。
放課後のチャイムが鳴り響き、夕暮れのオレンジ色の光が、旧校舎の廊下を赤く染め上げていた。現実世界の喧騒から逃れるように、私は一人、旧校舎二階の「作法室」へと戻っていた。
引き戸を閉め、真鍮の鍵を回すと、作法室の中は一瞬にして完全な無音の世界へと切り替わった。畳の青臭い匂いと、お茶の残り香が、張り詰めた結界の空気を満たしている。
私は囲炉裏の前に座り、消音の炭火の上で「無声の茶釜」を温めていた。お湯は音もなく沸騰し、白い湯気が一筋の糸のように静かに立ち上っている。私はガラス化した右手の感覚のない指先をかばいながら、不器用な左手で茶筅を握り、お茶を点てる準備をしていた。
その時、作法室の古い引き戸が、静かに、躊躇がちに開いた。
敷居をまたいで入ってきたのは、羽瀬蓮だった。
彼は学校の鞄を肩にかけ、静寂を求めて彷徨う迷い子のように、部屋の入り口に立ち尽くしていた。彼の耳の骨伝導補聴器は、外界のノイズを拾って微かに不快な静電気音を立てている。だが、彼が作法室の空気を一歩踏み込んだ瞬間、そのノイズの波形が、部屋の静寂の障壁に触れて急速に減衰していくのを、私は彼の表情の変化で察した。
彼は、囲炉裏の前に座る私を見つめ、驚いたように目を見開いた。そして、畳の上に座る私の所作を、息をのんで見守った。
私は何も言わず、ただ静かに微笑み、彼に向けて畳の上を軽く叩いた。「座って」という、無言の勧誘だ。蓮は、音を立てないようにゆっくりと歩み寄り、私の正面に正座した。
私は白磁の茶碗「無垢」の中に、点てたばかりの「静寂の露」を注ぎ、彼の前に静かに差し出した。お茶からは、温かく、甘い残り香の霧が、静かに立ち上っている。
蓮は、私のガラス化した右手の指先(絆創膏で痛々しく覆われている)を一瞬だけ見つめたが、何も尋ねず、両手で茶碗を恭しく持ち上げた。
そして、その緑色の液体を、一口、静かに飲み干した。
その瞬間、彼の全身が微かに震えた。
お茶が彼の喉を通り抜けた刹那、彼の骨伝導補聴器から響いていた不快な「キィィン」という金属音、都会のすべての雑音の残響が、完全に、一瞬にして消失したのだ。彼の脳裏を支配していた不協和音の嵐が、完璧な、温かい「絶対の静寂」へと塗りつぶされていく。
「……あ……」
蓮の口から、声にならない吐息が漏れた。彼の表情は、この世のすべての苦痛から解放されたかのような、穏やかな凪に満たされていた。彼の骨伝導補聴器のインジケーターが、音のない世界の調和を示すように、静かに青く明滅した。
言葉はなかった。だが、その静寂の暗闇の中で、私と彼の魂が、確かに一つの周波数で響き合っているのを私は感じた。彼が生まれつき抱える「感覚過敏」は、単なる障害ではない。それは、天界の不協和音を監視するために作られた「調律師の一族の遺伝(才能)」なのだ。その過剰な聴覚が、私の淹れた「静寂の霊茶」と共鳴し、完璧な調律を完了したのだ。
私たちは、お茶の残り香の中で、無言のまま見つめ合っていた。言葉を超えた、静かな契りが、この八畳間の和室で結ばれようとしていた。
だが、その美しい静寂の余韻を暴力的に切り裂くように、作法室の障子のすぐ外の廊下から、不気味な音が響き始めた。
――ズル、ズル、ヌチャ……と。
濡れた肉塊が畳を這いずるような、粘り気のある不快な微振動。学校の影に潜み、生徒たちの陰口を喰らって肥大化した言葉の怪異「耳削ぎ」が、蓮の「過剰な聴覚」から放たれる甘い霊的波長を嗅ぎつけ、作法室の結界のすぐ外まで、音もなく迫っていた。
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