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作法室の鍵と畳の影

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「――放課後の逢魔が時、迷い込んだ羊にしては、少し荷物が重そうだね」


 白衣を羽織った保健医、氷室紗季の声は、ひどく気だるげで、それでいて鼓膜の奥をちりちりと刺激するような鋭さを含んでいた。彼女は手にした缶コーヒーをポケットに押し込むと、廊下にへたり込む私――高橋結衣の前にかがみ込んだ。冷たい金属の鍵束が、彼女の細い指先でじゃらりと不穏な音を立てる。


 私の喉の奥は、未だに凍てつくような冷気で満たされていた。囁きの怪「耳削ぎ」を退散させたのは、氷室の肉体から放たれた圧倒的な霊圧だ。彼女がただの養護教諭ではないことは、言葉を交わさずとも理解できた。いや、言葉を交わすことなど、私には許されていないのだが。


 喉の奥のザラつき――まるで乾いた木の葉がこすれ合うような微かな違和感が、気管を塞ぐように居座っている。邪神「無明」の封印が微かに弛んだ代償だ。私は必死に浅い呼吸を繰り返し、暴走しかけた冷気を喉の奥の檻へと押し戻そうとした。


「そんなに警戒しなくてもいいさ。私は怪異の味方でもなければ、お前を今すぐどうこうしようという陰陽庁の回し者でもない」


 氷室は私の右手に視線を落とした。絆創膏が痛々しく貼られた指先。その下で、冷気によって皮膚が微かに硬化し、半透明のガラスのように変色し始めていることに、彼女は気づいているはずだ。だが、氷室はそれを咎める代わりに、鍵束から一本の古びた鍵を器用に外して見せた。


 それは、鈍い黄金色の光を放つ真鍮製の鍵だった。細かな幾何学模様が刻まれたその鍵は、ずっしりとした歴史の重みを感じさせる。


「旧校舎の二階、その最奥に『作法室』がある。普段は誰も近づかない、ただの物置として処理されているがね。……そこへ行きなさい」


 氷室は私の手のひらを無理やり開き、その真鍮の鍵を握らせた。冷え切った私の肌に、真鍮の硬質な冷たさが突き刺さる。不思議なことに、その鍵に触れた瞬間、喉の奥で暴れていた邪神の脈動が、すっと凪いでいくのを感じた。


「あの部屋には、初代の調律師が遺した強力な防音の結界が張られている。この学校のいかなる『騒音』も、あそこまでは届かない。お前がその喉の怪物を飼い慣らし、静寂を保つには、あそこ以外の選択肢はないよ」


 氷室は立ち上がり、白衣を翻して保健室の方へと歩き出した。去り際、彼女は振り返ることもなく片手を振った。


「鍵を回したら、絶対に声を出すんじゃないよ。あそこは、沈黙だけが許された部屋だからね」


 手の中に残された真鍮の鍵の重み。私はそれを強く握りしめ、痛む身体を起こした。廊下にはもう、耳削ぎの気配はない。だが、いつまたあの悪意の囁きが闇から這い出してくるか分からない。私はただ一人の避難所を求め、旧校舎の階段を上り始めた。


 旧校舎の二階は、新校舎の喧騒から完全に切り離されていた。ワックスと埃の匂いが混ざり合った静寂の中を、私は一歩ずつ進む。廊下の最奥、突き当たりに、古びた引き戸があった。プレートには微かに「作法室」の文字が残っている。


 真鍮の鍵を鍵穴に差し込む。鍵は吸い込まれるように滑らかに入り、右へ回すと、カチリと深く重い音が響いた。その瞬間、世界の境界が揺らぐような、奇妙な浮遊感が全身を包む。引き戸を開けると、そこは八畳間の和室だった。


 畳の青臭い匂いが、何十年もの時間を経て凝縮されたような、濃密な空気が漂っている。西日が障子を赤く染め、室内に長い影の格子を描き出していた。埃が光の粒のように美しく舞うその部屋は、確かに外世界のあらゆる雑音を遮断する、絶対的な静寂の檻だった。


 部屋の隅には、古い茶道具や、色褪せた調度品が静かに並んでいる。私は息を整えながら、部屋の床の間へと歩み寄った。そこには、一本の掛け軸が掛けられていた。薄汚れた山水画。千影の掛け軸だ。祖母から「困ったときはこれを飾りなさい」と渡され、鞄に忍ばせていたものだった。


 私がその掛け軸を床の間に掛け、そっと手を離した、その時だった。


 ――キィン、と。


 耳鳴りのような、だが極めて澄んだ冷たい音が室内に響き渡った。掛け軸の墨絵が不自然に揺らめき、そこから青白い霧が染み出すように立ち上る。霧は急速に実体化し、私の目の前で、一人の美しい青年の姿を結んだ。


 江戸時代の藍色の着物を纏った、冷徹な貌の青年。その瞳は凍てつく氷のようで、足元は霧のように霞んでいる。彼こそが、掛け軸に魂を繋ぎ止めた伝説の操糸師、千影だった。


「……ふん。随分と頼りない娘が、この鍵を開けたものだな」


 千影の声には、物理的な響きがなかった。脳内に直接、冷たい刃を突き刺されるような無声の言霊。彼は私の姿を一瞥すると、その切れ切れの視線を私の喉元へと向けた。彼の瞳の奥に、鋭い殺気が宿る。


「その喉、内に宿すは『無明』の邪神か。よもや、これほど悍ましい破滅の種を抱えた器が、私の眠りを妨げるとはな」


 千影が右手を軽く振るった瞬間、彼の指先から放たれた極細の「青い霊糸」が、光の速度で私の首元へと巻き付いた。冷たい。氷の縄で首を絞められているような激痛が走り、私は息が詰まった。喉の奥の邪神が、その外部からの刺激に反応し、狂暴に暴れ出そうとする。


(……声を、声を上げろ! その男を呪い殺してやる!)


 脳裏に響く邪神の咆哮。だが、一言でも声を漏らせば、封印は破裂し、この学校も、東京も、すべてが虚無に消える。私は唇を割らんばかりに噛み締め、有声音を徹底的に抑え込んだ。喉が内側から凍りつくような激痛に耐えながら、私は両手を胸の前に掲げた。


 私は声を出す代わりに、手話で「拒絶」の意志を示した。両手を力強く交差させ、空間の霊的干渉を遮断する所作。それと同時に、絆創膏が貼られた右の指先から、微弱な「銀の霊糸」を放出した。私の紡いだ銀糸が、千影の青い糸に絡みつき、その冷気の伝達をわずかに妨害する。


「ほう……?」


 千影の眉が微かに動いた。私の銀糸は、彼の圧倒的な霊糸の強度の前に、触れた瞬間に霧散してしまった。しかし、私の示した「手話による拒絶の所作」は、空間の霊的流れを一瞬だけ歪め、彼の糸の緊縛を確実に緩めさせたのだ。


「言葉を捨て、手の所作を魔術の文字(ルーン)に変えたか。ただの臆病な緘黙症かと思ったが、調律師としての最低限の抗い方は知っているようだな」


 千影はふっと冷笑を浮かべ、青い糸を消し去った。首元の圧迫感が消え、私は激しくむせ込みそうになるのを、喉を押さえて必死に耐えた。首元には、赤い糸の形をした痛々しい擦り傷が残り、喉の奥のザラつきがさらに深まった感覚がある。


「だが、その程度の稚拙な糸使いでは、天界の執行官が放つ『悲劇の脚本』に触れた瞬間、魂ごと切り刻まれて自滅するのが関の山だ。生き残りたくば、私の『無声操糸術』をその身に刻め」


 千影は床の間に背を向け、作法室の畳を見下ろした。西日が彼の半透明の体を透過し、畳の上に不自然に歪んだ長い影を落とす。彼は冷酷な、だが確かな導き手としての眼光を私に向けた。


「まずは、その足元を見ろ。この古びた八畳間の畳の下には、お前の祖父や初代の調律師が隠した、ある重要な法宝が封印されている」

HẾT CHƯƠNG

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