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不協和音の包囲網、旧校舎の攻防

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静寂が、暴力的に引き剥がされていく。


 旧校舎の軋む廊下を這う、無数の足音。上履きが擦れる乾いた音、そして金属バットや竹刀が木床を削る、背筋の凍るような摩擦音。それらが合わさり、地鳴りのような不協和音となって、私たちが逃げ込んだ作法室の扉へと迫っていた。


 作法室の引き戸のすぐ向こう側で、ピタリと足音が止まる。障子紙に投影された影は、どれも歪に引き伸ばされ、人間のものではない影絵のように見えた。全校生徒の目を覆う黒いモヤが、障子の隙間から黒い霧となって室内に侵入しようとしている。月華の呪い――校内スピーカーから垂れ流される「耳に聞こえない超音波」が、彼らの頭上にある銀の細糸をどす黒く汚染し、自我を奪った操り人形へと変えていた。


「……結衣ちゃん、みんな私のせいで……」


 美咲がかすれた声で囁き、畳の上で小さく震えた。彼女の喉は、先ほどの言霊のバックラッシュによって再び激しく傷つき、まともな発声すら困難な状態にある。美咲の瞳には、かつての級友たちが自分を殺しにやってくるという圧倒的な恐怖と、深い罪悪感が揺られていた。蓮は、月華の高周波ノイズによる激しい耳鳴りに耐えながら、自身の骨伝導補聴器を両手で強く押さえ、必死にパニックを抑え込もうと呼吸を整えている。


 私は二人の前に静かに立ち、初代のスケッチブックを左手で固く握りしめた。右手の指先には、操糸術を使いすぎた代償として、冷たく透き通ったガラス化の感覚が戻り始めている。指先の温覚はすでに失われ、絆創膏の霊呪で隠された皮膚の下で、氷のような冷気が脈動していた。それでも、私は彼らを守らなければならない。誰も傷つけずに、この暴力を防ぎ切る。それが、この作法室の調律師としての、私の無言の誓いだ。


 ドォン!


 凄まじい衝撃音が作法室の扉を震わせた。引き戸が激しくガタつき、障子紙に亀裂が入る。生徒たちの物理的な襲撃が始まったのだ。扉を叩く「ドンドンドン」という大音量の振動が、作法室を包んでいた温かいお茶の残り香を、暴力的に掻き消していく。畳下の這い糸が、外部からの衝撃波を感知してビリビリと私の指先に警告を伝えてきた。


 私は無言で、部屋の隅に待機していた落丁の人形・小夜へと視線を送った。おかっぱ頭の市松人形が、カチリと球体関節の首を回し、着物の袖を揺らしながら扉の前へと進み出る。小夜の瞳に銀色の光が宿り、結衣の放った不可視の銀糸が彼女の首後ろの関節へと接続された。


 バキィン!


 ついに扉の木枠がへし折れ、割れた障子の向こうから、黒い霧を目に湛えた剣道部主将・滝川猛の姿が現れた。その手には、いつも部活で握っている竹刀ではなく、ずっしりとした金属バットが握られている。滝川の全身からは、月華の「怒りの言霊」がどす黒いオーラとなって噴き出していた。


「橘美咲を……屋上へ……連れていく……!」


 滝川が呪詛のような声を漏らし、金属バットを大上段に振りかぶる。その標的は、私の背後で震える美咲だった。


 バットが振り下ろされる刹那、小夜が動いた。彼女は作法室の畳の一角に細い木の指先を突き立てると、信じられない力で八畳間の畳を一枚、物理的に引き剥がした――「畳返しの消音防壁」。


 ズドォン!


 滝川の金属バットが、小夜の掲げた畳の盾に激突した。本来なら旧校舎全体を揺らすはずの金属音が、畳に染み込んだ「無声の茶釜」の霊力によって、泥の中に吸い込まれるように完全消音される。しかし、バットに宿る月華の「怒りの言霊」の黒い衝撃波は完全に相殺しきれず、畳の繊維を黒く汚染しながら、畳下の這い糸を次々と引きちぎっていった。


「キィィィン!」


 スピーカーからの高周波ノイズがさらに増幅し、旧校舎の窓ガラスがビリビリと共鳴を始める。滝川の背後に控える無数の生徒たちが、獣のような咆哮を上げて作法室へと押し寄せようとした。その不協和音の嵐は、私の喉の奥に眠る邪神「無明」を激しく刺激する。喉が内側から凍りつくような、息の詰まる激痛。声帯が震え、悲鳴が漏れそうになるのを、私は唇を噛み締めて耐えた。


 その時、蓮が痛みを堪えながら前へと踏み出した。彼は首にかけた真鍮の音叉を強く弾く。


 ――チィィィン――……。


 澄み切った静寂の波動が音叉から放たれ、結衣を包む「ノイズキャンセリング」の球体結界が展開された。滝川たちの咆哮とスピーカーのノイズが、結衣の周囲だけ物理的に遮断され、真空の静寂が戻る。喉の邪神の脈動が、一時的に凪へと引き戻された。


(ありがとう、蓮くん。……今なら、描ける)


 私は震える左手でスケッチブックを開き、ガラス化しつつある右指先で色鉛筆を握りしめた。紙面に素早く、だが一画一画に魂を込めて、二文字を書き殴る。


『重力』


 スケッチブックを、押し寄せる生徒たちの足元に向けて力強く提示した。サイレント・コマンド――文字に込められた概念が、物理的な力となって空間に具現化する。


 ズゥゥゥン!


 作法室の入り口付近の重力が突如として十倍に跳ね上がり、突入しようとしていた生徒たちの膝が、床板に叩きつけられた。金属バットや竹刀が手から滑り落ち、彼らは見えない鎖に縛られたように、床にへばりついて身動きが取れなくなる。誰も傷つけない、絶対的な身体拘束。


 しかし、月華の呪いは、私たちの想定を超えて執念深かった。


「う、お、おおおおお!」


 滝川猛の肉体が、ミシミシと不気味な音を立てた。重力結界の圧力に逆らい、彼の筋肉が引き裂かれ、皮膚から微血が滲み出る。それでも、月華の「悲劇の脚本」に支配された彼の肉体は、痛みを完全に無視して立ち上がろうとしていた。彼の頭上から伸びる黒い糸が、操り人形の糸のように彼の四肢を強引に引き上げる。


 バキバキと音を立てて、滝川が金属バットを再び握り直した。その瞳は完全に漆黒の闇に染まり、理性を失った狂戦士そのものと化していた。


「美咲を……屋上へ……!」


 滝川が、重力結界を強引に引き裂きながら、弾かれたように突進してきた。その凄まじい肉体の突進力は、小夜が掲げていた畳の防壁を物理的に粉砕した。乾いた藁とイグサの破片が室内に舞い散る。小夜の木体の右腕が、衝撃で鈍い音を立てて弾け飛んだ。


 防壁を突破した滝川のバットが、私の目の前へと迫る。私は「静寂の四方陣」を展開しようと両手を動かしたが、滝川が放つ圧倒的な「怒りの言霊」の咆哮が空間の霊的整合性を乱し、光の文字が構築される前に霧散してしまった。間に合わない――。


 その瞬間、滝川の振り下ろしたバットの風圧が、私の首元を鋭く掠めた。


 パキィン、と。ガラスが非常に美しく、そして残酷に砕け散るような高い音が、作法室の中に響き渡った。


 私の首元に下げられていた、祖母・綾乃から施された沈黙の護符「一葉」――邪神の波動を抑え込んでいた緑色の木札が、滝川の一撃の衝撃波によって、物理的に粉々に砕け散り、畳の上に緑色の細かな塵となって零れ落ちたのだ。


 一瞬、すべての音が消えた。


 次の瞬間、私の喉の奥から、言葉にならない、光なき深淵の冷気が――邪神「無明」の黒い息吹が、ドロドロとした黒い霧となって一気に溢れ出し始めた。作法室の温度が急激に氷点下へと急降下し、畳の表面が白く凍りつき始める。喉が内側から完全に凍結していくような激痛に、私は息を吸うことすらできず、その場に膝を突き、喉を両手で掻きむしった。封印が、崩壊していく――。

HẾT CHƯƠNG

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