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声なき少女と夕暮れの怪異

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東京都立常盤木高校の放課後は、いつも過剰なほどの音に満ちている。部活動の掛け声、机を引きずる音、そして何よりも、無責任に放たれる無数の言葉の群れ。それらは夕暮れの教室に充満し、空気の粒子を騒がしく震わせていた。


「おい、高橋。お前、また日直の仕事サボる気か?」


 鋭く、そしてよく響く声が、教室の隅にうつむいていた高橋結衣の鼓膜を叩いた。声をかけたのは学級委員長の沢田翔太だ。彼は制服の第一ボタンを外し、カーストの上位に君臨する者特有の傲慢な笑みを浮かべている。


「おいって。聞こえてんのかよ。本当に不気味な奴だな。喋れないなら、せめて頷くくらいしろよ」


 周囲の生徒たちが、くすくすと忍び笑いを漏らす。結衣はただ、黒髪を低めのツインテールに結った頭をさらに深く下げ、机の上に置いた両手を握りしめることしかできなかった。彼女の指先には、不器用さを隠すように何枚もの白い絆創膏が貼られている。


 言いたいことがないわけではない。沢田の誤解を解く言葉も、謝罪の言葉も、結衣の脳内にははっきりと存在している。だが、それは決して唇を割って外に出ることはない。


(――言ってはダメ。一言でも、声を漏らしてはダメ)


 結衣の喉の奥。そこには、世界を終焉へと導く邪神「無明」が封印されている。幼い頃、実家の古い蔵で執り行われたあの忌まわしい儀式。祖父が結衣の喉を「邪神の檻」として差し出したあの日から、彼女は「有声音」を発する自由を永久に奪われた。ため息一つ、かすれた悲鳴一つであっても、そこに声帯の振動が伴えば、封印は破裂し、東京は虚無の底へと沈むことになる。


 結衣の「場面緘黙症」は、臆病さの現れではない。世界を滅ぼさないための、命がけの沈黙だった。


 沢田たちが飽きて教室から去っていくと、結衣はようやく浅い呼吸を吐き出した。冷え切った身体を動かし、鞄を抱えて教室を出る。彼女が向かったのは、新校舎の裏手にひっそりと佇む、明治期に建てられた木造の旧校舎だった。


 旧校舎の廊下は、すでに宵闇に沈みかけていた。窓から差し込む夕日はどす黒いオレンジ色に染まり、長い影が格子のようになって床に這っている。ここは人がほとんど立ち入らない。結衣にとって、唯一息を潜められる避難所だった。


 ギィ、と床板が軋む。その音に混じって、奇妙な音が結衣の耳に届いた。


 ――ズズ、ヌチャ、と。濡れた肉塊が這いずるような、粘り気のある不快な音。


 結衣は足を止めた。廊下の奥、古びたロッカーの影から、それは音もなく染み出すように現れた。全体の形は、人間の巨大な「耳」の塊だった。その歪な肉の表面には、無数の小さな「口」がびっしりと生え揃い、それぞれが不快な微振動を繰り返している。


 常盤木高校の廊下に澱む、生徒たちの陰口や悪口のエネルギーが実体化した怪異――囁きの怪「耳削ぎ」だった。


『……ねえ、あいつ何考えてるか分かんなくて不気味……』

『喋りもしないでさ、生きてる意味あんのかな……』

『死んじゃえばいいのに……』


 耳削ぎの口々から零れ落ちる言葉は、先ほど沢田が放った言葉であり、ネットの海に漂う匿名の悪意だった。それは物理的な音波となって廊下の空気を震わせ、結衣に襲いかかる。


 結衣は思わず両耳を塞いだ。だが、その囁きは鼓膜をバイパスし、脳内に直接響き渡る。悪意の言霊が彼女の精神を内側から削り取っていく。


 激しい精神的苦痛に伴い、結衣の喉の奥がカチリと鳴った。凍てつくような冷気が食道を逆流し、心臓を鷲掴みにする。喉に封印された邪神「無明」が、結衣の心の動揺を感知し、檻を破ろうと脈動を始めたのだ。


(……声を……声を出しなさい。叫べば、この苦痛から解放してやる……)


 脳裏に響く、光なき深淵からの誘惑。喉の奥が焼け付くように熱くなり、同時に氷のように冷え切っていく。声帯が震えそうになるのを、結衣は自らの唇を血がにじむほど噛み締めることで必死に抑え込んだ。声を漏らせば、すべてが終わる。


 結衣は震える手を伸ばし、絆創膏が貼られた右の指先から極細の「銀の霊糸」を放出した。操糸術の基本。彼女は言葉の代わりに、この不可視の糸を用いて世界の因果を調律する。


 指先から伸びた銀糸が、結衣の周囲の空気を紡ぎ、耳元に極薄の物理的遮音壁を形成しようとする。だが、耳削ぎが発する囁き――言葉の悪意は想像以上に強固だった。黒いヘドロのような悪意のエネルギーが銀糸を侵食し、せっかく紡いだ消音の障壁が、ジリジリと音を立てて腐食し、千切れていく。


 防音壁を突破した囁きが、再び結衣の脳を揺さぶる。喉の冷気はさらに強まり、気管支が凍りつくような錯覚に結衣は激しく咳き込みそうになった。咳をすれば、その破裂音が邪神の呼び水になる。


(……だめ……静かに、静かに……!)


 結衣は必死に呼吸をコントロールし、乱れる霊力を整えようとする。彼女は銀糸をさらに伸ばし、耳削ぎの本体、その中心にある「悪意の核」へと直接糸を繋ぎ止めようとした。核を捉え、因果を引きちぎれば、この怪異を消滅させられる。


 極細の銀糸が耳削ぎの肉塊に突き刺さり、その核へと到達する。だが、接続した瞬間に、耳削ぎが発する「不協和音」の激しい振動が糸を伝わって結衣の指先に逆流した。キィィンという強烈な金属音が脳を直接突き刺し、結衣の霊的接続は強制的に解除され、銀糸は虚空で霧散した。


 調伏の失敗。その代償として、結衣の喉の封印が微かに弛み、一時的な呼吸困難が彼女を襲う。肺から空気が失われ、膝が木造の床に崩れ落ちた。


 耳削ぎは勝利を確信したように、その巨大な耳の塊をさらに膨張させた。無数の小さな口が、同時に歓喜の叫びを上げようと大きく開かれる。それは結衣を丸ごと飲み込み、その喉の邪神ごと東京を混沌に陥れようとする、巨大な闇の口だった。


 視界が暗転しかける中、結衣の喉から、ついに音にならない苦悶の吐息が漏れ出そうとした――。


 その時。


 ――コツン、コツン、コツン。


 宵闇の廊下に、静かだが極めて硬質で、冷徹な足音が響き渡った。それは木造の床板を正確なリズムで叩く、ヒールの音だった。


「――これこれ、放課後の旧校舎で随分と騒がしいね。私の管轄で悪さをされるのは、あまり寝覚めが良くないな」


 気だるげだが、不思議と芯の通った大人の女性の声。廊下の向こうから現れたのは、白衣を羽織り、缶コーヒーを手にした養護教諭の氷室紗季だった。


 彼女が静かに一歩を踏み出した瞬間、廊下に澱んでいた黒い霧が、まるで目に見えない障壁に押し流されるように一気に霧散した。耳削ぎは、氷室が纏う圧倒的な退魔の気配に怯えるように、無数の口から不快な悲鳴を上げながら、ロッカーの隙間の影へと縮むようにして消え去った。


 怪異の気配が完全に消え、廊下に静寂が戻る。結衣は胸を押さえ、激しく喘ぎながら床にへたり込んでいた。喉の冷気は、氷室の登場によってようやく凪に向かい始めていたが、喉の奥のザラつきは消えない。


 氷室は缶コーヒーをポケットに突っ込み、結衣の前にゆっくりと歩み寄ると、その鋭い瞳で少女を見下ろした。その手には、旧校舎の鍵束が真鍮の音を立てて握られている。

HẾT CHƯƠNG

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