亡き父の遺産
酸性雨が廃地下鉄の錆びついた外壁を叩く音が、ドラムの乱打のように室内に響いていた。オイルの焦げた臭いと、安価な消毒液の鼻を突く匂い。クロムの地下診療所は、いつものように薄暗く、じめじめとしていた。
薄いカーテンの向こうでは、最愛の妹である暦が浅い呼吸を繰り返している。その寝顔は青白く、まるでガラス細工のように儚い。零(レイ)はボロコートのポケットに、感覚の消え去った右腕を突っ込んだまま、静かにそのカーテンを見つめていた。ミーナのナノ毒針を防ぐために発動した『事象の地平線』の代償は重い。彼の右半身は、温覚も痛覚も完全に失われ、肘の上まで黒い結晶のような侵食が進んでいた。
「無茶をしやがって。ガントレットが完全に砕け散っているぞ」
診療所の主であるサイボーグ医師・クロムが、むき出しの機械フレームを軋ませながら近づいてきた。彼の人工心臓は微弱な赤色に明滅しており、先ほど零の暴走を止めるために身を挺した代償が、その金属の身体に色濃く残っている。
診療所の隅、木箱の上に腰掛けたゲンが、大破して沈黙した右腕「アイアンフィスト」を忌々しそうに見つめていた。過給機が焼き切れ、むき出しになった油圧シリンダーからは、今も時折パチパチと虚しい火花が散っている。
「気にするな、クロム。それより、レイの心臓はどうなんだ?」
ゲンの問いに、クロムは答えず、代わりに診療所の旧式スーパーコンピュータに一本の武骨なデータチップを差し込んだ。ホログラムの青い光が立ち上がり、空中に一人の男の姿を投影する。
白衣をまとい、過酷な労働によって若くして白髪の混じった男――天城惣一郎。零と暦の、亡き父親の姿だった。
『もし、この記録を我が息子・零が見ているなら……。それは、お前の心臓に移植された「アポカリプス」が臨界を迎えつつあることを意味している』
惣一郎のホログラムは、ひどく疲弊した、しかし狂信的な愛情を宿した瞳で語りかけていた。
『アポカリプス・コアは、エネルギーを生み出す炉心ではない。それは、お前の内に眠る無限の「虚無」が外に漏れ出さないようにするための「檻」であり「蓋」だ。アエギス社はそれを兵器として利用しようとしたが、私には分かっていた。お前は人間として生きるべきだ。だが、蓋が壊れれば、お前の肉体は虚無に呑まれて自壊する……』
零は無言でその映像を見つめていた。脳内の精神世界の玉座に座る「もう一人の自分」が、ふっと冷笑を浮かべた気がした。人間として生きるなど、この絶対神にとっては何の価値もない。だが、胸の不適合炉心が軋むたび、暦の笑顔が脳裏をよぎる。失われゆく人間性が、彼をかろうじて「天城零」という少年に繋ぎ止めていた。
『コアの暴走を根本から抑え、お前の生存時間を引き延ばすには、アエギス社が開発した初期のプロトタイプが必要だ。タワーの最深部、第一世代炉心の保管庫に遺された「第一世代炉心冷却チップ」を移植しろ。それだけが、お前の肉体を繋ぎ止める唯一の鍵だ……』
映像がノイズと共に消え去る。クロムが静かに言った。
「惣一郎はアエギス社からこのデータを盗み出し、お前を救おうとした。だが、奴らが極秘実験を行っていた『アポカリプス・タワー』は、数十年前の事故で大破し、今は強烈な電磁嵐が渦巻く禁足地となっている。生身の人間が近づけば、一瞬でエーテル汚染によりハスク化する地獄だ」
「そこへ行くしかない」
零の冷徹な声に、部屋の影から進み出た赤髪の少女が、電子ゴーグルを指で押し上げながらため息をついた。反逆組織「灰の旅団」の優秀なハッカー、クレア・バレットだった。
「無謀よ、レイ。あなた、自分の残り時間が分かっているの?」
クレアが自身の電脳端末を零の胸部へと向け、スキャンを実行する。その画面に表示された数字を見て、彼女は密かに息をのんだ。
【残り生存時間:412,800秒(4日と19時間)】
先ほどの戦闘とガントレットの喪失により、寿命の減少ペースはさらに加速していた。一刻の猶予もない。
「俺も行くぜ」
ゲンが立ち上がった。大破した右腕を左手で抱えながらも、その不敵な笑みは消えていない。「義手は動かねえが、俺の頑強な肉体ならまだ盾くらいにはなる。相棒を一人で行かせるわけにゃいかねえからな」
旅団の案内役であるジンは、診療所の留守を預かり、暦の周囲を警戒することになった。零、ゲン、そしてクレアの三人は、酸性雨が降りしきるスラムの闇へと静かに身を投じた。
スラムの外縁部にそびえ立つ、巨大な黒い影。それが、かつてアエギス社が栄華を誇った実験廃墟「アポカリプス・タワー」だった。落雷のような激しい電磁火花がビルの周囲をのたうち回り、大気は青いオゾン臭に満ちている。物理的な通信は完全に遮断され、周囲には廃棄された防衛ロボットの残骸が、まるで墓標のように転がっていた。
「ここが、悲劇の始まりの地か……」
クレアが呟く。タワーの入り口は、分厚く錆びついた金属製の隔壁によって完全に閉ざされていた。
「任せな!」
ゲンが前に進み出た。彼は大破した右腕をかばいながら、傍らに落ちていた太い鉄パイプを左手一本で拾い上げると、隔壁の僅かな隙間にねじ込んだ。巨体にエーテルを循環させ、筋肉を極限まで膨張させる。C級の身体強化。ググ、と金属が軋む凄絶な音が響き、ゲンの咆哮と共に、錆びついたゲートが火花を散らして力ずくでこじ開けられた。
「ふぅ……、見たかよ、これくらい朝飯前だ」
ゲンは強がって見せたが、その額からは脂汗が流れ、左腕の筋肉が微かに震えていた。零は無言で先頭に立ち、暗黒のタワー内部へと足を踏み入れた。
一歩内部に入ると、そこは異様な静寂に包まれていた。旧時代の精密なオフィスや研究室の残骸が、電磁嵐の青い光に照らされて不気味に浮かび上がっている。壁の配管からは、有害な青いエーテルガスが微かに漏れ出ていた。
「待って。ここからは私が先導するわ」
クレアが『多機能電脳ゴーグル』を起動し、ホログラムのキーボードを空中に展開した。彼女の赤髪が、電子の光に照らされて妖しく輝く。タワー内の至る所に配置された電磁センサーや赤外線レーザーの網が、彼女の視界に赤く浮かび上がっていた。
「アエギス社の旧式セキュリティね。暗号化プロトコルはかなり複雑だけど……私の電脳ハッキングなら通せる」
クレアの指先が、目にも留まらぬ速さで空中に文字を刻んでいく。彼女のハッキングにより、目の前の通路を遮っていた不可視の赤外線レーザーが、一本、また一本と消えていく。零たちはその隙間を縫うようにして、静かに前進を続けた。
しかし、タワーの第2層へと続く中央広場に差し掛かったその瞬間、天井の防犯ハッチが不気味な駆動音を立てて開いた。内部から降下してきたのは、アエギス社の自律型防衛ドローン「ハウンド・ワン」の群れだった。赤い光学センサーを明滅させ、その銃口が容赦なく零たちへと向けられる。
「チッ、強制検知!? ハッキングを逆探知されたわ!」
クレアが叫ぶと同時に、ドローンから高出力の熱線レーザーが一斉に照射された。青白い熱線が空間を切り裂き、周囲のコンクリート壁が爆音と共に融解していく。
「レイ、俺の後ろに!」
ゲンが身を挺して前に出ようとした。だが、零はそれを手で制し、静かに一歩前へと進み出た。
「下がっていろ。余計な火力を消費するな」
零は深く息を吸い込み、右半身の感覚を完全に遮断した状態のまま、脳内の重力ベクトルを微細に変調させた。
『電磁ノイズ欺瞞(ゴースト・ベール)』――発動。
零の周囲の空間が、陽炎のように不気味にゆらゆらと歪み始めた。重力歪曲によって、ドローンが放つ電磁探知波や光の屈折率を、自身の身体を迂回するように強制的に曲げたのだ。
ドローンたちの赤いセンサーが激しく点滅し、混乱を起こし始めた。彼らのシステム上、零たちの存在が「そこには存在しないゴースト」として認識されたのだ。ドローンたちのレーザー照射がピタリと止まり、あらぬ方向の壁を無差別に焼き払い始める。
「今よ!」
クレアがその隙を見逃さず、電脳ゴーグルを最大出力で駆動させた。彼女の脳内に埋め込まれた軍用のナノマシンが、過剰な演算負荷によって悲鳴を上げる。彼女の視界の中で、ドローンたちの制御システム(暗号コード)が剥き出しになっていく。
「システム・セーフティ、強制書き換え――シャットダウン!」
クレアが空中に最後の一打を叩き込んだ瞬間、十数機のドローンが一斉に火花を散らし、機能を停止して床へと落下した。ガシャン、ガシャンと金属音が響き渡り、再び静寂が戻る。
「やったわ……」
クレアは安堵の息を漏らしたが、その直後、彼女は激しくよろめき、膝を突いた。鼻からツッと一筋の赤い血が流れ落ちる。ハッキングの過負荷により、彼女の脳内ナノマシンが許容量を大幅に超え、凄絶な偏頭痛が彼女を襲っていたのだ。
「クレア、大丈夫か!」
ゲンが駆け寄る。クレアは頭を抱えながら、苦しげに首を振った。「……大丈夫、少し脳がオーバーヒートしただけ。先を、急ぎましょう」
零は彼女の頭上に浮かぶ生存時間を見つめた。彼女の寿命もまた、演算の代償として微かに削られていた。この世界は、強者であっても力を振るうたびに命を削り取られる。その不条理なルールを、零は冷徹に再確認していた。
彼らはさらに奥へと進み、地下の保管庫へと続く巨大なエレベーターシャフトの前に到達した。奈落のように深い縦穴の底からは、強烈な電磁嵐のうなり声が響いている。
「この下ね。第一世代炉心の保管庫は、地下3階にあるわ」
クレアが痛む頭を抑えながら、制御盤にハッキング端末を接続した。扉が重々しく開き、暗黒の縦穴が口を開ける。彼らは錆びついたケーブルを伝い、慎重に地下へと降下を開始した。
地下3階。そこは、タワーの地上階とは比較にならないほどの高濃度エーテル汚染地域だった。空気は青白く発光し、呼吸をするだけで肺が焼けるような錯覚に陥る。零は『炉心同調呼吸法・零式』を維持し、炉心の急激な熱上昇を抑えながら、暗黒の通路を進んだ。
そして、ついに彼らは「第一世代炉心」の保管庫の、厚さ1メートルを超える巨大な電磁隔壁の前に到達した。この隔壁の向こうに、零の命を繋ぐ冷却チップが眠っている。
「待って、この隔壁のロックを解除するわ。あと少しで――」
クレアが端末を操作しようとした、その瞬間だった。
ゾクリ、と。零の脳内の神格の核が、これまでにない最大級の警告を鳴らした。冷酷な静寂が空間を支配し、周囲の電磁嵐のうなりが一瞬にして掻き消える。
背後から、ガシャァン――という、巨大な金属が噛み合う音が響き渡った。
「な、何事だ!?」
ゲンが振り返る。彼らが通ってきたばかりの地下通路の入り口、そしてエレベーターシャフトの連絡通路の重厚な電磁隔壁が、凄まじい速度で次々と閉鎖されていくのが見えた。
「自動プロトコルが起動したわ! 侵入者を感知して、このエリア全体を完全閉鎖(ロックダウン)する気よ!」
クレアの叫び声と同時に、彼らの周囲の隔壁がすべて完全に閉鎖された。分厚い重合金属の壁が、彼らの退路を完全に断ち切る。彼らは地下3階の、極めて狭い閉鎖空間へと完全に閉じ込められてしまったのだ。
電磁シールドが展開され、外部との通信も、物理的な脱出経路も、すべてが遮断された。
「クソ、閉じ込められちまったか……!」
ゲンが壁を殴りつけるが、厚い隔壁はビクともしない。クレアの端末も、強烈なジャミング信号によって完全に機能停止に陥っていた。
完全な孤立無援。そして、零の胸の不適合炉心は、刻一刻と自壊へのカウントダウンを刻み続けている。
その時。閉ざされた暗黒の通路の奥、保管庫の扉のさらに先から、不気味な音が響いてきた。
ズズ……、ズズ……。
それは、金属を引きずるような、そして、狂気と激痛に満ちとうめき声を伴う、不気味な「足音」だった。機械の駆動音ではない。かつてアポカリプス計画の実験事故によって暴走し、そのままこの闇に廃棄された「もう一人の実験体」の足音が、静かに、しかし確実に零たちの元へと近づいていた。
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