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事象の地平線

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巨大スラム都市「灰燼街」の夜を支配する酸性雨は、鉄屑の山を穿ち、饐えた錆の匂いを周囲に充満させていた。うず高く積まれたスクラップの隙間、辛うじて雨を凌げる暗がりに、二人の影が潜んでいた。


「はぁ……はぁ……、クソ、あの暗殺者のネズミめ、どこまで嗅ぎ回ってきやがる……」


鉄腕のゲンの荒い呼吸が、冷たい金属壁に反響する。彼の右腕――かつて数多の修羅場をくぐり抜けてきたスラム製戦闘用機械義手「アイアンフィスト」は、先ほどの過負荷戦闘によって完全に焼き切れ、ただの重い鉄塊と化してぶら下がっていた。ゲン自身も、首筋を掠めた微細な毒針の麻痺によって、その巨体を壁に預けるのが精一杯だった。


そのゲンの足元で、天城零(レイ)は泥水の中に膝を突き、凄絶な内臓の灼熱感に耐えていた。


(……熱い。いや、これは、すべてが消滅していく冷気か?)


首筋の皮膚を貫いた、暗殺ギルド「黒い蠍」のエース・ミーナのナノ毒針。そこから侵入した特殊なナノ毒素は、生体電流を強制遮断し、脳のエーテル回路を麻痺させるアエギス社製の極悪なケミカルだった。零の体内で、重力を制御するための幾何学数式が、ノイズにまみれて砂の城のようにバラバラに崩壊していく。


重力制御が解けた瞬間、胸の不適合炉心「アポカリプス・コア」が「キィィィン」と鼓膜を裂くような高周波の悲鳴を上げ、過熱を開始した。ガントレットが未固定の右腕から、漆黒の霧――物理法則外の「虚無の粒子」が制御を失って噴き出し、周囲のコンクリートを無音で侵食していく。


腕の決済端末が示す『生存時間(クロノ・クレジット)』の数字が、凄まじい速度で減少を続けていた。


【残り生存時間:691,200秒(8日)】

【残り生存時間:604,800秒(7日)】


一秒ごとに、天城零という器の寿命が削り取られていく。このまま右腕の虚無化が肩まで達すれば、彼は存在そのものを失い、世界から消滅する。


「レイ、動くんじゃねえ。俺の体で隠してやる」


ゲンは麻痺に震える左腕を伸ばし、零をジャンクの物陰へと押し込んだ。自らの背中で敵の射線を塞ぐゲンの姿に、零の冷徹な胸の奥で、肉体の前所有者の残留思念が激しく波打った。妹の暦を救うため、自らの命を売った少年の、あまりにも泥臭く、温かい未練。


(……羽虫が、私の領域でこれ以上囀るな)


絶対神としての超然たるプライドが、その人間的な未練を冷酷にねじ伏せようとする。しかし、激痛と麻痺の前に、生身の脳はこれ以上の重力演算を拒絶していた。


その時、零の意識は、脳内の精神世界の深淵へと引きずり込まれた。そこは光すら届かない、静寂と白い灰だけが広がる暗黒の玉座。その上に佇む「もう一人の自分」――絶対神としての本来の冷酷な知性が、漆黒の外套を揺らしながら冷笑を浮かべていた。


(人間に惑わされ、その脆弱な器ごと灰になるか。それとも、すべての感情を捨てて神へ還るか。お前がその娘を愛すれば愛するほど、神格は共鳴し、あの娘の細胞は崩壊するのだぞ)


「黙れ……」


零は精神世界の中で、その囁きを強硬に拒絶した。脳内の神格の核が自動起動し、精神汚染防壁『カオス・シールド』を展開。毒による精神汚染と死への恐怖を強制的にシャットアウトする。だが、それだけでは物理的な麻痺は解けない。ミーナの足音は、すぐそこまで迫っていた。


(生身の神経が邪魔をするなら――その接続をすべて消去するまでだ)


零は『虚無化の感覚遮断訓練』を脳内で起動した。自身の右半身から脳へと繋がる、痛覚、温覚、すべての神経信号の存在を、自らの意思で「否定」する。


「――ッ!」


脳を二つに割るような激痛の感覚すら、次の瞬間には完全に消失した。零の右半身は、絶対的な無感覚の闇へと沈んだ。右腕が黒い霧となって崩壊していく灼熱の苦痛も、今や他人事のように冷徹に観測できる。計算を必要としない、純粋な「無」の概念が、彼の精神を凪へと導いた。


ザ、と錆びた鉄屑を踏みしめる音がした。


ゲンのぶちまけた鉄粉によって、光学迷彩の表面を赤茶色に汚された細身のシルエット――ミーナが、暗闇の中から音もなく姿を現した。顔の半分をマスクで覆った彼女の冷たい瞳が、完全に動けなくなった零とゲンを捉える。


「スラムの死神も、毒の前にはただの獲物ね。……終わりよ」


ミーナが手首の『特製暗殺リストシューター』を零の心臓へと向けた。指先がトリガーにかかり、トドメの超高濃度毒針『デッドリー・ニードル』が無数に射出される。視認不可能な死の雨が、零の視界を埋め尽くした。


「ゲン、退がれ」


零の声が響いた。それは、人間の声ではなかった。一切の響きを持たない、宇宙の始まりの虚無から直接届くような、絶対的な平坦さを持った「無」の宣告。


零が左手を前に突き出し、掌を開いた。


『事象の地平線(イベント・ホライゾン)』――展開。


その瞬間、ジャンクヤードからすべての「音」が消失した。


ザーザーと降り注いでいた酸性雨の音も、ゲンの荒い息遣いも、ミーナの放った毒針の風切り音すらも、一瞬にして世界から掻き消え、完全な静寂が訪れた。


零を中心とした半径二メートルの空間に、光を一切反射しない、完全な球体状の「漆黒の闇の膜」が展開されていた。それはこの宇宙の物理法則が通用しない、穿たれた完全な「空白」だった。


殺到した無数の毒針が、その漆黒の膜に接触した。


接触の瞬間、火花を散らすことも、音を立てることもなかった。針は、膜に触れた瞬間にその「存在定義」を宇宙から消去され、無音のまま、ただそこから完全に消滅した。


「な……っ!?」


ミーナの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。彼女の光学迷彩が、恐怖の動揺によるエーテルの乱れで一瞬完全に解除され、その細身の身体が露わになる。


彼女が放った毒針だけではない。上空から降り注ぐ雨粒も、周囲を漂う鉄粉も、漆黒の膜に触れた瞬間に、まるで最初からこの宇宙に存在しなかったかのように消え去っていく。それは物理的な破壊や防御ではない。物質の存在そのものを否定する『等価否定』の概念が作り出す、絶対不可侵の地平。


「化け、物……」


ミーナの喉から、震える悲鳴が漏れた。彼女は暗殺者として、数多の強力な異能者を見てきた。しかし、目の前で起きている現象は、既存の「超能力」という枠組みを遥かに超越していた。それは物理法則そのものの消去。対抗する手段など、この宇宙のどこにも存在しない。


漆黒の球体の中心で、零の瞳は光を完全に吸い込んだ漆黒の穴へと変質していた。その瞳に見つめられた瞬間、ミーナは直感した。これ以上ここに留まれば、自分の魂も肉体も、歴史の痕跡ごと消滅させられると。


「いや……っ!」


ミーナはトドメを刺すことも諦め、本能的な死の恐怖に従って光学迷彩を再起動すると、這うようにしてジャンクの闇の中へと逃走、撤退していった。


静寂が解け、ザーザーという酸性雨の雑音が世界に戻ってきた。


「はぁ……っ、はぁ……!」


零は胸を強く押さえ、激しく黒い血を吐き出した。事象の地平線を展開した代償は大きく、彼の生存時間はさらに削り取られていた。


【残り生存時間:432,000秒(5日)】


さらに、右腕に装着されていた『試作型虚無抑制ガントレット』が、耐熱合金の限界を超えてピキピキと音を立て、完全に砕け散って床に落ちた。剥き出しになった右腕から、黒い粒子が再び不気味に揺らめき始める。


「……おい、レイ。大丈夫か」


ゲンが、傷だらけの巨体を引きずりながら歩み寄ってきた。彼の瞳には、一瞬だけ、本能的な「畏怖」がよぎっていた。すべてを無に帰すあの漆黒の領域。そして、今の零の瞳にある、人間らしさを失った冷酷な光。だが、ゲンは深く息を吐き出すと、大柄な左手で零の肩を強く掴んだ。


「お前が何者だろうが関係ねえ。お前は俺の命を救い、俺の相棒だ。最後まで付き合ってやるよ」


そのゲンの言葉に、零の冷え切った胸の奥で、天城零としての感情が微かに熱を帯びた。


「ゲン……」


「ジョーのガントレットが壊れた以上、その腕の崩壊を止めるには別の手段が必要だ。クロムの言ってた『冷却チップ』とやらを探すしかねえな」


零は砕け散ったガントレットの破片を見つめ、漆黒の瞳に冷徹な決意を宿した。右腕の虚無化を根本から抑え込み、自らの生存時間を引き延ばすためには、かつて事故で崩壊したアエギス社の実験廃墟「アポカリプス・タワー」の最深部に遺された『第一世代炉心冷却チップ』を手に入れるしかない。


「アポカリプス・タワー……。そこが、次の戦場だ」

HẾT CHƯƠNG

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