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黒き包囲網

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巨大スラム都市「灰燼街」の夜は、上層都市「ネオ・エデン」から降り注ぐ酸性雨と、不揃いなホログラムネオンの毒々しい光に濡れていた。空気を満たすのは、酸の匂いと腐食した金属の饐えた臭気。先の「青色暴走(ブルー・フォール)」の傷跡は、零の胸部に無惨な炭化熱傷として残り、肺腑を焦がすような慢性的な呼吸不全が彼を苛んでいた。


「無茶をしやがって、相棒。その腕、もう実体を保つことすら危ういじゃねえか」


 隣を歩く巨漢、鉄腕のゲンが、錆びついたボロコートの隙間から覗く零の右腕を見て、低く唸った。零の右前腕から指先にかけては、光を吸い込むような漆黒の結晶に侵食され、すでに温覚を永久に失っている。先の暴走の際、クロムの施した『廃熱強制バイパス経路』によって炉心の超高熱を右腕へ逃がした代償だった。かつての絶対神としての超然たる意思をもってしても、この脆弱な人間の肉体の崩壊を止めることはできない。


「問題ない。ただの器の摩耗だ」


 零は冷徹に言い放ったが、その声はかすれていた。腕の決済端末が示す生存時間は【864,000秒(10日)】。ゴズを捕食したことで辛うじて延命したものの、このまま右腕の結晶化が進めば、肉体そのものが虚無へと崩壊する。ジンはクロムの診療所で、強奪した物資による緊急処置を受け、残り三時間の死線から辛うじて生還したが、今は動けない。零自身も、この崩壊しかけた右腕を修復せねばならなかった。


 二人が足を踏み入れたのは、中層都市から投棄された巨大な機械の残骸が山をなす「鉄屑の墓場」ジャンクヤードだった。その最奥にある薄暗いガレージ。オイルと鉄錆の匂いが立ち込めるその場所で、白髪の老人、オールド・ジョーが溶接マスクを跳ね上げた。


「おいおい、ゲン。えらく訳ありのガキを連れてきたな」


 ジョーは咥えタバコの煙を吐き出しながら、零の右腕を凝視した。その目が、驚愕と不気味な確信に細められる。


「……この腕はどうなってやがる。生体組織が結晶化し、存在そのものが『無』に喰われかけている。アエギス社の狂信者どもめ、かつて犯したあの『禁忌の実験(アポカリプス計画)』の残骸を、まさかこんなスラムのガキの心臓に植え付けやがったのか」


 ジョーの独り言に、零の漆黒の瞳が微かに細められた。この老人は、炉心の真実について何かを知っている。だが、今は問い詰める時間すらなかった。ジョーはすぐに作業台から、黒い武骨な金属製の手甲――『試作型虚無抑制ガントレット』を取り出し、零の右腕へとあてがった。


「いいか、これはアエギス社の耐熱・耐電磁合金のジャンクを組み合わせた試作品だ。ガントレットの電磁ロックを肉体に直接食い込ませ、虚無のエネルギー漏洩を物理的に抑え込む。……だが、完全に固定するまで、下手に異能を解放するんじゃねえぞ。炉心が過熱すれば、この合金ごと腕が焼き切れる」


 ジョーがスパナを手に、ガントレットの調整を開始したその瞬間だった。


 ゾクリ、と。零の脳内の「神格の核」が、冷酷な警告を鳴らした。周囲の空気から一切の雑音が消え去り、異様な静寂がガレージを支配する。右半身の温覚を失っている零には、その方向から迫る「冷気」を察知することができなかった。だが、ゲンの野生的な直感が、一瞬早く反応した。


「――伏せろ、レイッ!」


 シュッ、という微かな風切り音。ジャンクヤードの暗闇から、無音で極小の「ナノ毒針」が無数に放たれた。それは暗殺ギルド「黒い蠍」の若きエース、ミーナが放った『デッドリー・ニードル』。視認不可能なほどに極小化された針の雨が、零の全身を狙う。


「おおおッ!」


 ゲンが身を挺して零の前に立ち塞がった。彼の右腕に装着されたスラム製戦闘用サイボーグアーム「アイアンフィスト」の過給機が「ギィィン」と咆哮を上げる。ゲンは義手から高熱の爆風を前方へと放射し、迫り来る毒針の軌道を強引に曲げた。しかし、数本の針がゲンの分厚い肉体を貫き、その衝撃でアイアンフィストの過給機が過熱によりパチパチと不穏な火花を散らした。


「チッ……どこから狙ってやがる!」


 ゲンの焦燥の声が響く。周囲のジャンクの影から、光学的迷彩を起動したミーナが、空間に溶け込みながら音もなく移動していた。彼女の気配は完全に消え去っている。C級能力者であるミーナの暗殺術は、この障害物の多いジャンクヤードにおいて絶対的な優位を誇っていた。


「羽虫が、チョロチョロと……」


 零は冷徹に『生存時間の視覚化(クロノ・アイ)』を起動しようとした。しかし、その瞬間、彼の首筋にチクリとした微かな痛みが走った。ゲンの防壁をすり抜けた一本のナノ毒針が、零の首筋の皮膚を貫いていたのだ。


「がっ……、は……!?」


 凄絶な麻痺毒が、一瞬にして零の神経系へと侵入した。アエギス社製の特殊なナノ毒素は、生体電流を強制的に遮断し、脳のエーテル回路を麻痺させる性質を持っていた。零の脳内で、重力制御を行うための複雑な幾何学数式が、ノイズにまみれてバラバラに崩壊していく。


(計算が……展開できん……!)


 零は強引に『重力崩壊(グラビティ・バースト)』を展開しようとしたが、脳を突き刺すような凄絶な頭痛に襲われ、その場に膝を突いた。口から黒い血が滴り落ちる。不適合炉心冷却チップが過負荷で「キィィィン」と悲鳴を上げ、ガントレットが未完成の右腕から、黒い粒子(虚無の霧)が制御を失って噴き出し始めた。


「おい、しっかりしろレイ!」


 ゲンが叫ぶが、彼の身体もまた、毒針の麻痺によって動きが鈍くなっていた。暗闇の中から、光学的迷彩に包まれたミーナの冷たい輪郭が、零の死角へと音もなく肉薄する。彼女の手首に仕込まれたリストシューターが、トドメの超高濃度毒針を零の心臓へと照準していた。


「逃がさねえよ、暗殺者のネズミめ!」


 ゲンは歯を食いしばり、最後の力を振り絞って「アイアンフィスト」の爆熱ジェネレーターを限界まで過給した。彼は地面の鉄屑を周囲に力任せにぶちまける。飛散した錆びた鉄粉が、空間に溶け込んでいたミーナの光学迷彩の表面に付着し、その細身のシルエットを赤茶色に炙り出した。


「そこだぁぁッ!」


 ゲンは「爆熱鉄拳」を地面へと叩きつけた。ドゴォォンという大爆発と共に、高熱の爆風がジャンクヤードを吹き荒れ、ミーナの身体を一時的に後退させる。だが、その代償として、ゲンの機械義手は過負荷により「ボフッ」と黒い煙を上げて完全停止した。


「はぁ、はぁ……レイ、奥へ走れ! ここは俺が食い止める!」


 ゲンは動かなくなった右腕をぶら下げながら、左腕一本で零を抱え上げ、ジャンクの山のさらに奥深く、複雑な迷宮の隘路へと退避した。背後からは、光学迷彩を再起動し、再び音もなく闇に溶け込んだミーナの、冷酷な死の気配が執拗に追いかけてくる。


 ゲンの肩に担がれた零は、自身の右腕を見つめた。ガントレットが未完成のまま、右腕は肘の上まで完全に実体を失い、漆黒の霧となって崩壊を始めている。毒の浸食により、肉体と虚無の境界線が完全に崩れかけていた。零に残された生存時間は、一秒ごとに牙を剥くように減少していく。このまま右腕が消滅すれば、彼は「天城零」という器を失い、完全に消滅する――。

HẾT CHƯƠNG

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