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重力と鉄塊

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「灰の雪」が降るスラムの地下は、地上よりもさらに濃厚な泥と機械油の匂いに満ちていた。


 天城零は、ジンの小柄な背中を追って、暗い地下水路の配管を音もなく進んでいた。右腕はボロコートのポケットに突っ込まれたままだ。他者の生命力を喰らった代償として、肘から先が黒い結晶へと変質し、温覚を永久に失ったその右腕は、凍てつくように冷たい。だが、胸元のアポカリプス・コアは『通常燃焼モード』を維持しており、深海のような静かな青い明滅を繰り返していた。


「アニキ、この先の錆びたハッチを抜ければ、ゴズ・カルテルの本拠地……旧時代の貯水槽跡だ。警備は厳重だけど、俺が見つけたダクトのルートなら死角を突ける」


 ジンは懐から、特製の『高周波ワイヤーナイフ』をちらつかせ、不敵な笑みを浮かべた。零の漆黒の瞳――『生存時間の視覚化(クロノ・アイ)』が、そのナイフが放つ微細なエーテル振動を捉えていた。いかなる障壁をも切り裂くその武器は、このずる賢いコソ泥がただの羽虫ではない証拠だった。


「余計な動きはするな。私は冷却液と薬の原料を手に入れる。邪魔をする者は排除するだけだ」


 零の凍てつくような声に、ジンは首をすくめながらも、素早くダクトの格子を取り外した。二人は闇に紛れ、巨大な地下貯水槽の内部へと滑り込んだ。


 貯水槽の内部は、異様な光景だった。巨大なコンクリートの空間に、無数の生体カプセルや違法な炉心の残骸が並び、不気味な青緑色の廃液が床を満たしている。空気はオゾンと血の臭いで濁っていた。


「ヒハッ! ネズミが紛れ込んだと思えば、死に損ないの『アポカリプスのバグ』じゃねえか」


 空間の奥から、地響きのような声が響いた。コンクリートの柱の影から姿を現したのは、身長二メートルを遥かに超える巨漢――ゴズ・カルテルのボス、「ゴズ」だった。


 ゴズの右半身は、軍用の重機から引き剥がしたような漆黒の機械義肢に置き換わっており、油圧シリンダーがギチギチと不気味な金属音を立てていた。その太い首元には、アエギス社製の違法な生体ブースターが埋め込まれ、赤黒い脈動を繰り返している。彼の頭上には、膨大な生存時間が表示されていた。


【残り生存時間:12,456,000秒(約144日)】


「先遣隊の信号が消えた時は驚いたが、あの死にかけの実験体が生きているとはな。クロムの奴、面白い玩具を仕込みやがった。その心臓、俺が中層都市に売り飛ばして、永住市民権の足しにしてやるよ!」


 ゴズが巨大な機械義腕を掲げた。シリンダーが爆音を上げ、超質量の鉄拳が零に向けて振り下ろされる。空気が圧縮され、凄絶な風圧が零の顔を打った。


「アニキ、危ねえ!」


 ジンが叫び、横へ跳ぶ。零は一歩も動かず、ただ左足を半歩後ろに引いた。脳内で空間質量のベクトルを瞬時に書き換える。


『局所重力反転(リバース・フォース)』――発動。


 零の身体の質量が一時的にゼロへと書き換わった。落下する鉄拳の風圧そのものを浮力に変え、零の肉体は紙のように軽々と真上へと舞い上がった。ゴズの鉄拳が、零がいた地面を直撃する。


「ドゴォォォン――ッ!!」


 凄まじい衝撃波が貯水槽内に吹き荒れ、コンクリートの床がクレーター状に陥没した。浮遊した零は、宙で質量を元に戻し、陥没の中心に立つゴズの背後へと静かに着地した。


「ちょこまかと……! だが、俺の皮膚はアエギス社製の強化剤で鋼鉄よりも硬いんだよ!」


 ゴズが吠えると、彼の全身の皮膚が鈍い金属光沢を放ち始めた。C級能力「肉体硬化」。銃弾すら弾き返すその強固な防壁に対し、ジンが背後から『高周波ワイヤーナイフ』を突き立てようとした。しかし、キィィンと高い金属音が響き、ナイフの刃は火花を散らして弾かれた。


「無駄だ、ネズミめ!」


 ゴズが腕を振り回し、ジンを吹き飛ばそうとする。ジンは間一髪で避けたが、その表情は絶望に染まっていた。外部からの物理的な切断は、この硬化皮膚には一切通用しない。


(外側の装甲を壊すのは非効率だ。なら――)


 零の脳裏に、かつて軍用サイボーグから学んだ近接戦闘の極意がフラッシュバックした。衝撃を外側で拡散させるのではなく、内部の最も脆弱な部分へ直接透過させる。さらに、絶対神としての本来の権能――物質の存在定義を消去する『等価否定』の概念を、微かに右拳に乗せる。


 零はボロコートから、結晶化した漆黒の右腕を抜いた。結晶の隙間から、不気味な青白い重力波が渦を巻き始める。胸のアポカリプス・コアが「過負荷燃焼(オーバードライブ)」へと移行し、寿命が数週間分、急速に削り取られていく激痛が走った。だが、零の表情は冷酷なまでに静寂を保っていた。


「神の領域に、その程度の鉄屑で立ち塞がるな」


 零はゴズの懐へと踏み込んだ。ゴズは機械義手で防ごうとしたが、零はその腕を紙一重でかわし、ゴズの胸元へ右拳を突き出した。


『重力拳(グラビティ・ナックル)』。


 ドン、と鈍い音が響いた。肉体硬化を維持していたゴズは、最初は嘲笑を浮かべようとした。しかし、次の瞬間、彼の瞳が驚愕と恐怖に大きく見開かれた。


 零の拳が触れた瞬間、ゴズの強固な皮膚の分子結合そのものが『等価否定』によって一時的に「無」へと還元され、防御の概念が消滅した。そして、極大化した超重力の衝撃波が、外傷を一切与えることなくゴズの体内へと直接透過したのだ。


「ガ、ハッ……!?」


 ゴズの口から、どす黒い機械油と血が噴き出した。彼の体内で、肉体硬化のエネルギー源となっていた生体ブースターと、右半身を制御していた電子心臓が、透過した重力圧力によって跡形もなく粉砕されたのだ。


「お、前……その、心臓……。あの、実験の……バグ、のはずが……なぜ……」


 ゴズは膝を突き、信じられないものを見るかのように零の胸元を見つめた。しかし、その言葉が途切れる前に、彼の巨体は泥水の中へと崩れ落ちた。


 零は冷酷に死体を見下ろし、ゴズの胸元に黒い結晶の右手を突き刺した。肉体を突き抜け、まだ微かに明滅している機械化コアを力ずくで引き抜く。ゴズの体内に残されていた『肉体硬化』のエネルギーと、膨大な寿命クレジットが、漆黒の霧となって零の右腕へと吸い込まれていく。


『虚無の捕食作法(ヴォイド・イート)』――完了。


 零の脳内に、封印の第1ロックが解除された感覚が響き渡った。炉心同調度10%――第一段階『覚醒前兆(シンクロ10%)』への到達。生存時間の数字が、一気に数十日分、劇的に回復していく。


 だが、勝利の余韻に浸る暇はなかった。捕食した機械化エネルギーの拒絶反応が、零の不適合炉心と激しく衝突したのだ。


「がっ、あ……ッ!?」


 零は胸を押さえ、その場に激しく膝を突いた。アポカリプス・コアが限界温度を超え、鼓膜を裂くような高周波の異音を立てて激しく脈打ち始める。胸部の皮膚が過熱で青白く発光し、不穏な青い熱線が周囲の空気を歪めながら放出し始めた。最悪の自壊現象『青色暴走(ブルー・フォール)』の兆候が、零の意志を無視してスラムの闇を照らし出そうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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