スラムの生存原則
「灰の雪」が降っている。
巨大スラム都市『灰燼街』第3区。上層都市『エーテル・ドーム』から排出される廃棄物と、寿命が尽きて塵となった人間の残骸が混ざり合い、錆びついたトタン屋根の隙間を絶え間なく汚していく。有害な青い蒸気が地表を這うこの場所では、ネオンライトの毒々しい光だけが唯一の灯りだった。
天城零は、ボロボロの防寒コートの襟を立て、ネオン市場の喧騒の中に身を潜めていた。右腕はコートのポケットに深く突っ込まれている。先の『捕食』の代償として黒い結晶へと変質し、温覚を永久に失ったその腕は、凍てつくように冷たい。だが、胸元のアポカリプス・コアは『通常燃焼モード』を維持しており、深海のような静かな青い明滅を繰り返していた。
『生存時間の視覚化(クロノ・アイ)』――起動。
零の瞳が一時的に光を失った漆黒のブラックホールへと変質する。視界に入るスラム民たちの頭上に、青白く輝くデジタル数字が浮かび上がった。
【残り生存時間:2,400秒】
【残り生存時間:18,500秒】
誰もが、一秒一秒を切り売りしてその日を生き延びている。そして、零自身の腕に表示された数字は――。
【残り生存時間:860,200秒(約9日と22時間)】
先遣隊の生命力を貪り喰ったことで、自壊のタイムリミットは一時的に引き延ばされた。だが、これはただの応急処置に過ぎない。不適合炉心の過熱を根本的に抑え、病床の妹・暦の命を繋ぐためには、アエギス社製の高純度冷却液『ブルージェル』と、彼女の遺伝子崩壊を抑えるための薬を手に入れなければならなかった。
「おい、待ちやがれ! そのガキを逃がすな!」
突如として、市場のジャンクパーツを並べた路地の奥から、金属が擦れ合う耳障りな音と怒号が響いた。
零が視線を向けると、人混みを縫うようにして、一人の小柄な少年が猛スピードでこちらへ走ってくるのが見えた。ボロボロのフードを深く被り、獣のように鋭い眼光を放つその少年――ジンは、背後に迫る追跡者から必死に逃れていた。
ジンの背後を追うのは、右半身を重機パーツで補強した粗暴な男たち。『ゴズ人身売買カルテル』のマークが刻まれた防弾ベストを着用した、D級のハント能力者たちだった。
「チョロチョロと逃げ回りやがって……『電磁ネット』を展開しろ!」
追跡者の一人が腕のランチャーから、青い電磁火花を放つ金属ネットを射出した。ネットは空気の分子を焦がしながら、ジンの頭上へと迫る。ジンは空中を蹴るようにして身体を捻り、驚異的な反射速度で網を避けたが、着地の衝撃で体勢を崩し、路地裏の泥の中に転がり込んだ。
その転がり込んだ先こそが、零が佇んでいた影のど真ん中だった。
(厄介な羽虫が近づいてきたな)
零は冷徹に判断し、その場から立ち去ろうとした。スラムの生存原則『搾取と隠蔽』。無用な争いに巻き込まれず、自身の強大な『虚無』の気配を徹底的に隠すことこそが、黒金会の広域センサーから逃れる唯一の手段だった。零は息を止め、自身の存在感を完全に周囲の闇へと溶け込ませた。
その瞬間、零の存在は、ただの錆びついた鉄パイプや瓦礫と同等になった。追跡者のセンサーには、そこに生命体が存在することすら検知できないはずだった。
しかし、泥まみれになりながら起き上がろうとしたジンが、藁をも掴む思いで、零のボロコートの裾を強く引っ張ってしまった。
「た、助けてくれ……!」
ジンの小さな手がコートを引いた瞬間、ほんの数ミリだけ、零の重力制御にブレが生じた。足元に転がっていた鉄屑が、チリ、と小さな金属音を立てて転がる。
その微かな音を、D級ハンターの電磁サーチセンサーが見逃さなかった。
「おい、そこに誰かいるぞ! 隠れても無駄だ、バグごと焼き払え!」
三人のハンターが、電磁ライフルと銃口を零の潜む影へと向け、路地を完全に包囲した。ジンの顔が絶望に染まり、歯をガチガチと鳴らす。零の漆黒の瞳が、冷酷にハンターたちを見つめた。
「スラムの生存原則を教えてやろう」
零は静かに、しかし空間そのものを震わせるような声で呟いた。コートのポケットから、黒い結晶に覆われた右腕が姿を現す。その指先が、天に向けて鋭く跳ね上げられた。
『局所重力反転(リバース・フォース)』――発動。
瞬間、ハンターたちの足元の空間質量が完全に「反転」した。下向きに働いていた地球の引力が、突如として上向きのベクトルへと書き換えられる。
「な、んだと――!?」
ハンターたちの足元から砂利や泥水が、まるで雨が逆流するように上空へと激しく舞い上がった。それと同時に、三人の巨体が重力を失い、宙へと浮かび上がる。彼らは空中で手足をバタつかせ、トリガーを引こうとしたが、足場が存在しない無重力空間では、ライフルの反動を制御することすらできなかった。
「浮いて……る? 嘘だろ……」
ジンが泥の中にへたり込んだまま、信じられないものを見るかのように目を丸くした。周囲のゴミや鉄屑が静かに宙を漂う中、零だけがその漆黒の外套を揺らし、地面に確固たる足取りで立っていた。
零はワープすることすらなく、ただ静かに、宙に浮くハンターたちへと歩み寄った。その一挙手一投足には、かつて宇宙の理を支配していた絶対神としての冷徹な美しさが宿っている。
バタつくハンターの一人の襟首を、零の生身の左手が掴んだ。そして、重力制御によって質量を一時的にゼロにしたその肉体に、一瞬で超重力を叩き込む。
「がっ、あ――」
悲鳴を上げる隙すら与えず、零は生身の格闘術で男の首を無慈悲にへし折った。グシャリ、と嫌な音が路地に響く。残る二人が恐怖に顔を歪めた瞬間、零は『局所重力反転』を解除した。
上空3メートルに浮いていた男たちが、元の重力に従って地面へと叩きつけられる。その落下の瞬間に、零は足元に『重力崩壊』の極小の衝撃波を叩き込み、彼らの肺腑と喉を完全に圧殺した。
戦闘は、わずか数秒で終了した。路地裏に静寂が戻り、降る灰の雪だけが、横たわる三体の骸を静かに覆っていく。
零は息を整え、胸のコアの温度を確認した。最小限の重力制御に留めたため、寿命の消費はわずか数日分。通常燃焼モードは維持されている。零は冷たい瞳で、未だ地面に這いつくばっているジンを見下ろした。
「命が惜しければ、私の視界から消えろ」
その言葉は、凍てつく右腕よりも冷たかった。だが、ジンは逃げ出すどころか、その瞳に異常な熱狂を宿して零を見上げていた。スラムの底辺で、圧倒的な強者のみが生き残るルールを誰よりも知る少年は、目の前の「死神」が本物の超越者であることを直感していた。
「す、すげえ……! あんた、本物のバケモノだ! 頼む、アニキ! 俺を弟子にしてくれ! 俺はジン、この街のダクトならどこでも潜り込める! あんたの役に絶対に立つ!」
ジンは必死に零のボロコートにすがりついた。零は無言でその手を振り払おうとしたが、ジンの口から出た次の言葉に、その動きを完全に止めた。
「ゴ、ゴズ・カルテルの本拠地に潜り込む方法を知ってるんだ! あそこの地下倉庫には、中層都市から横流しされた『大量のエーテル冷却液』と、難病を抑える『暦の薬の原料』が眠ってる! あんた、そのためにここに来たんだろ!?」
零の漆黒の瞳の奥で、冷徹な計算が始まった。暦の生存時間は残りわずか。このずる賢いコソ泥の少年は、その目的を果たすための「有能な猟犬」になるかもしれない。
「……案内しろ」
零の静かな命令に、ジンは顔を輝かせ、深く頷いた。二人の奇妙な師弟同盟が、灰にまみれたネオン市場の片隅で結ばれた瞬間だった。
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