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星堕ちの窪み

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耳を刺すような高周波の耳鳴りが、暗黒の底に響き渡っていた。


 奈落谷の最深部、数百年前の星堕ちの伝承が眠る「星堕ちの窪み」。その空間に足を踏み入れた瞬間、霧生十兵衛の背中に異変が起きた。麻縄で幾重にも縛り付けられた「血盟の錆び刀」が、まるで意思を持つ獣のように狂ったように振動し始めたのだ。カタカタと不気味な金属音を立て、柄頭に巻かれた亡き妹・小夜の髪帯が、目に見えない力に引っ張られるようにピンと張り詰める。


「ぐっ……!」


 凄まじい引力が十兵衛の身体を襲った。背中の錆び刀が、青黒い光を放つ窪みの壁面――剥き出しになった「極硬隕鉄」の巨大な鉱脈に向けて、強引に引き寄せられているのだ。十兵衛の身体ごと壁へと叩きつけようとする、人知を超えた磁場の暴力。右脇腹の短刀傷から熱い血が噴き出し、道着を濡らす。


「十兵衛さん! 背中の獲物を手放せ! この窪みの磁場は、すべての鉄を喰らう吸い出しの地獄だ!」


 老炭鉱夫の源治が叫んだ。彼の腰に下がっていた古びた鶴嘴も、凄まじい速度で手元から引き剥がされ、天井の青黒い岩肌へと吸い込まれるように張り付いた。金属同士が激突する、甲高い音が暗闇に反響する。


 十兵衛は壁に押し付けられたまま、麻痺して動かない右腕を庇い、左手だけで背中の麻縄を解こうとした。だが、磁気の吸着力は想像を絶していた。錆び刀を引き剥がそうと左手の指先を柄にねじ込んだ瞬間、爪が剥がれ、鮮血が飛び散る。激痛が走るが、十兵衛の表情は氷のように冷徹なままだった。彼は躊躇うことなく、左指の力を抜いて身体を捻り、麻縄を力ずくで引きちぎった。


 ――ガツゥゥン!


 十兵衛の背から離れた錆び刀は、青黒い鉱脈の中心へと吸い寄せられ、壁面に完全に張り付いた。これで十兵衛は、唯一の武器であり盾でもあった「鞘」すらも失い、完全に素手となった。


 呼吸するたびに、肺を焦がすような硫黄の臭いと、酸欠による微かな眩暈が十兵衛の脳を苛む。この閉鎖空間の酸素は、長くは保たない。


「ふははは……! やはりここへ逃げ込んだか、霧生の生き残りめ!」


 不気味な高笑いが、青黒い光の奥から響いた。瓦礫の影からゆっくりと姿を現したのは、先ほどの崩落で死んだはずの男――黒鉄衆の鉱山守備隊長、百足の源蔵だった。


 源蔵の右肩は、十兵衛の「兜割り」によって骨ごと粉砕され、不自然にねじ曲がっている。しかし、その目には正気はなく、狂信的な殺意だけがぎらぎらと輝いていた。驚くべきことに、彼の胸元と両脚には、急ごしらえの分厚い鉄板が何枚も巻き付けられていた。


「この磁場の中では、お前の不抜の刀など、ただの重い足枷に過ぎん。だが、俺はこの鉱山で何年も生きてきたのだ。この『星堕ちの窪み』の歩き方を熟知している!」


 源蔵が左手を振るうと、袖口から白い牙のようなものが滑り出た。それは金属ではない。獣の骨を削り出して作られた、不気味な「骨製暗器」だった。磁気の影響を一切受けない、この空間における絶対の凶器。


 シュッ!


 暗闇を切り裂き、骨製の毒針が十兵衛の喉元に向けて放たれた。右腕が使えず、避ける足場も限られた極限の状況。十兵衛は肉眼を閉じ、全神経を「心音感知」へと移行させた。風の揺らぎ、磁場の歪み、そして源蔵の乱れた心拍音が、脳裏に鮮明な波紋となって浮かび上がる。


 十兵衛は「雪隠れの歩法」の脱力を応用し、紙一重で頭部を傾けた。耳元を、冷たい風を伴って骨針が通過し、背後の岩肌に当たって砕け散る。


「避けたか! ならば、これで押し潰してやる!」


 源蔵は狂ったように突進してきた。彼の身体に巻き付けられた鉄板が、壁面の隕鉄鉱脈が放つ強烈な磁場に引き寄せられ、彼の突撃に異常な加速を与えている。磁力に乗った、人間離れした速度の体当たり。狭い石橋の上で、その質量が十兵衛を岩壁へと押し潰そうと迫る。


 だが、十兵衛の耳は、源蔵の突進に伴う微かな「違和感」を捉えていた。


(鉄板が磁場に引っ張られている……。左側の鉱脈に近いせいで、奴の左半身の動きが、右側よりも僅かに遅れている)


 金属の分子が引き合う、目に見えない力の流れ。十兵衛の脳裏に、かつて父・宗厳が語った「鉄の呼吸」の言葉が、万物同調の兆しとして微かに目覚め始めていた。鉄板の継ぎ目、ボルトの噛み合わせが放つ、極小の振動音が聞こえる。


 十兵衛は突進を正面から受け止めず、左足の親指一本に全体重を乗せて身体を鋭く翻した。源蔵の巨躯が十兵衛の胸元をかすめて通過する瞬間、十兵衛の左手が、吸い込まれるように源蔵の左肘の関節へと伸びた。


 素手による「刀絡め」の応用。


 相手の突進の凄まじい推進力をそのまま利用し、十兵衛は左指の力を源蔵の関節の隙間にねじり込んだ。骨と肉が擦れ合う、鈍い音が暗闇に響く。十兵衛は自身の身体を独楽のように回転させ、遠心力をすべて源蔵の肘へと集中させた。


 ――バキィィン!


「ぎゃああああああっ!」


 源蔵の悲鳴が、窪みの天井を揺らした。彼の左肘は不自然な方向へとねじ曲がり、骨製の暗器が手からこぼれ落ちて泥の中に沈む。磁力に振り回されていた鉄板の重さが、そのまま源蔵自身の関節を破壊する自滅の力へと変換されたのだ。「借力打力」の極致が、武器を持たぬ十兵衛の左手によって体現されていた。


 源蔵は崩れ落ち、激しくのたうち回った。勝負は決した。十兵衛は左手で、壁面に張り付いた錆び刀の柄を掴み、磁力に抗いながら強引に引き剥がした。指先から再び血が流れるが、その重みだけは決して手放さない。


 だが、源蔵の狂気はまだ潰えていなかった。


「霧生……お前だけは、道連れにしてやる……! 剛田首領の計画を、邪魔させるわけにはいかん!」


 源蔵はねじ曲がった身体を引きずり、壁面から露出していた、最も青黒く輝く「極硬隕鉄」の巨大な原石に縋り付いた。彼は残された右腕の力を振り絞り、自身の身体の重さを利用して、原石ごと窪みの底へと身を投げ出したのだ。


 その先には、底なしの暗黒が広がる地下水路「冥府の川」が激しくうねっていた。ゴボゴボと、凍てつく水流の音が、奈落の底から十兵衛たちを呼ぶように響き渡る。


「源蔵っ!」


 源治の絶叫が響く中、極硬隕鉄の原石と、百足の源蔵の身体は、暗黒の激流の中へと真っ逆さまに吸い込まれ、白い水飛沫と共に消え去った。


 窪みに残されたのは、急速に薄れゆく酸素と、完全に塞がれた瓦礫の山。そして、唯一の脱出ルートである、極寒の地下水路の不気味な吸い込み口だけだった。十兵衛は錆び刀を左手で強く握り直し、凍てつく水の匂いが漂う奈落の底を見つめた。

HẾT CHƯƠNG

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