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奈落の底の老炭鉱夫

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音のない世界だった。


 いや、正確には、鼓膜を圧迫する不気味な「沈黙」が、液体のように耳の奥へ流れ込んでくる世界だった。暗黒。光という概念が最初から存在しなかったかのような、完璧な虚無が視界を支配している。


「……が、はっ……!」


 肺腑を突き上げるような激しい咳と共に、霧生十兵衛は意識を覚醒させた。口内に広がるのは、生臭い鉄の味と、鼻を刺す硫黄の嫌な臭いだ。煤煙。第一採掘場の底で百足の源蔵が引き起こした大爆発の余波が、この奈落の底にまで澱みとなって溜まっているのだ。


 十兵衛は泥の中にうつ伏せに倒れていた。肺を苛む毒煙のせいで呼吸が浅い。右脇腹には、源蔵の短刀に切り裂かれた傷が熱を持って疼いており、どろりとした血液が道着を濡らし続けている。だが、それ以上の絶望が、彼の右半身を支配していた。


「……く、あ……」


 動かない。右腕が、指先から肩口に至るまで、冷たい石の彫刻のように硬直していた。爆発の凄まじい熱風によって、闇医者・甚八が塗布した「特製泥薬」は完全に溶け去り、十兵衛の右腕に眠る錆び刀の呪毒――「黒化・経絡の侵食」が、再びその牙を剥いたのだ。黒ずんだ血管が皮膚の下で蠢き、心臓を直接万力で締め付けるような激痛が、断続的に脳髄を揺さぶる。右腕の完全な麻痺が、ここにきて最悪の形で固定化されていた。


 十兵衛は泥に左手を突き、強引に上半身を起こした。右腕はだらりと力なく垂れ下がったままだ。重心が極端に左へ偏るのを、強靭な背筋と左足の踏み込みだけでねじ伏せ、どうにか立ち上がる。全身を襲う凄まじい打撲の痛みと虚脱感。頭上を見上げても、そこにはただ、地の底の冷たい岩盤が広がっているだけだった。


 百足の源蔵が仕掛けた爆破装置により、採掘場の底が崩落し、十兵衛はこの旧坑道「奈落谷」の底へと叩き落とされた。有毒ガスが満ち、酸欠が迫る暗黒迷宮。ここから生還せねば、一族の無念を晴らすことも、お春たちを救うことも叶わない。


 十兵衛は肉眼を完全に閉じた。見えぬ眼に頼ることは、この暗闇では死を意味する。彼は「心音感知」の領域へと精神を沈めた。炎の轟音や崩落の残響が遠ざかった今、静寂の奥に潜む「世界の呼吸」を聞き取るのだ。


 ――ドクン……ドクン……。


 十兵衛の耳が、微かな、しかし規則的な振動を捉えた。水滴が岩を穿つ音ではない。瓦礫の軋みでもない。それは、何重にも積み重なった崩落の土砂の奥から聞こえる、極めて弱々しい「人間の鼓動」だった。


 呼吸は浅く、心拍数は極限まで低下している。このまま放置すれば、有毒ガスを吸い込んで数分の内に事切れるだろう。十兵衛は「雪隠れの歩法」の要領で、足元を這うように滑らせ、音もなく瓦礫の山へと近づいた。右腕が使えないため、瓦礫を退ける作業はすべて左手一本で行わねばならない。


 十兵衛は膝をつき、左腕の筋肉を「剛力呼吸法「地鳴り」」の予備動作によって硬化させた。指先を岩の隙間にねじ込み、全身の遠心力を利用して、大人が抱えるほどの巨大な岩を一つずつ、音を立てずに脇へと退けていく。泥と汗が煤黒の油と混ざり合い、彼の顔を伝って落ちた。


 どれほどの時間が経ったか。十兵衛の指先が、瓦礫の隙間に埋もれた、人間の乾いた皮膚に触れた。衣服は石炭の粉で真っ黒に染まり、背中が丸く曲がった小柄な老人――老炭鉱夫の「源治」だった。


 十兵衛は源治の襟元を左手で掴み、強引に瓦礫の隙間から引きずり出した。源治の喉元に、自身の左指を当てて経絡を刺激する。微かな気力を注入し、肺に溜まった毒煙を吐き出させるための、源庵直伝の応急措置だ。


「がはっ……! ごほ、ごほっ……!」


 老人は激しく咳き込み、濁った眼を苦しげに開いた。暗闇の中で、彼は自身の目の前に立つ影を見つめ、その背中に結わえられた巨大な刀のシルエットに気づいた瞬間、乾いた声を震わせた。


「お前、さん……その背中の、刀は……。柄に巻かれた、その赤い帯は……霧生(きりゅう)の一族か……?」


 十兵衛は沈黙したまま、源治を見下ろした。源治の心拍数が、驚愕と微かな希望によって急激に跳ね上がるのを、彼の「心音感知」は正確に捉えていた。


「なぜ、霧生の名を知っている」


 十兵衛の冷徹な問いに、源治は涙を流しながら、崩れかけた岩に背を預けた。


「知っているとも……。三十年前、まだ俺が若かった頃、お前さんの父親である『霧生宗厳(そうげん)』様が、この辺境を訪れた。宗厳様は、この奈落谷の底に眠るある『鉄』を探しておられた。俺はその時、地道の案内役を務めたんだ……」


 宗厳。亡き父の名。十兵衛の脳裏に、かつて鍛冶場で黙々と鉄を叩いていた厳格な父の背中が蘇る。父は、この流刑地の底に何があるかを知っていたのだ。


「宗厳様は、俺たち奴隷を人間として扱ってくれた唯一の武士だった。お前さんのその佇まい、そして背中の錆び刀……間違いない。宗厳様の血を引く者だ。神はまだ、俺たちを見捨ててはいなかった……!」


 源治は泥だらけの手で、自身の腰に下げた古びた鶴嘴(つるはし)を握りしめた。その手は細く、皮膚は長年の労働で岩のように硬化している。


「剛田の奴らが、奴隷を虫ケラのように使い潰して掘り出そうとしているのは、ただの鉄じゃねえ。数百年前、空から堕ちた星の破片……この世で最も硬い青黒き鉱石『極硬隕鉄(ごくこういんてつ)』だ。奴らはそれを幕府に献上し、魔剣を蘇らせようとしている。だが、お前さん……」


 源治は濁った眼で、十兵衛の背中の錆び刀を凝視した。


「その錆び刀の強烈な打撃に耐え、お前さんの『抜かぬ剣術』を完成させるには、並の鉄の鞘じゃ保たねえ。あの『極硬隕鉄』を以て造る『重鉄鞘(じゅうてつざや)』……それしか、お前さんの右腕を焼き尽くす呪毒に抗う術はねえんだ」


 重鉄鞘。隕鉄。父がかつて求めた素材が、この暗黒の底に眠っているという事実が、十兵衛の胸に冷たい火を灯した。錆び刀の毒の侵食を抑え、復讐を遂げるための物理的な牙。それが、この奈落の最深部「星堕ちの窪み」にある。


「案内しろ、源治」


「わかった。お前さんが宗厳様の息子なら、俺は命を賭けて案内する。だが、気をつけろ。この先は、黒鉄衆が仕掛けた『奈落谷の落盤トラップ』の領域だ。支柱の強度が極端に落とされており、僅かな振動でも坑道全体が崩落するように細工されている……」


 源治は立ち上がり、壁に耳を当てた。彼の「地脈の聞き耳」が、岩盤の奥の微かな軋み音を捉える。十兵衛は源治の背後に従い、左手だけで重い木鞘を構えながら、一歩一歩、暗黒の奥へと歩みを進めた。右腕は完全に死んだように垂れ下がり、右脇腹の傷が歩くたびに熱い血を滴らせるが、十兵衛の足取りは「雪隠れの歩法」によって無音を保っていた。


 進むにつれ、周囲の空気が不自然に張り詰めていくのを感じた。湿気が消え、微かな磁気の乱れが、十兵衛の背中の錆び刀を微かに震わせる。極硬隕鉄が放つ、特異な波動が近づいているのだ。


 突如、頭上の天井から「ミシ、ミシ……」と、木材が裂ける不気味な重低音が響いた。古い支柱が、大地の質量に耐えかねて悲鳴を上げている。


「……しま、った! 地脈の音が……消えた!」


 源治が恐怖に顔を歪めて叫んだ。地中を見つめる老炭鉱夫の知恵――岩石が崩れ落ちる直前、地脈の不気味な軋み音は一時的に「完全な静寂」へと至る。それは、大崩落が始まる絶対の予兆だった。


 十兵衛は「地鳴り」の呼吸を最大に高め、全身の感覚を極限まで研ぎ澄ました。彼の耳が、頭上の岩盤の内部で、数千の微細な亀裂が同時に走る「ピシピシ」という死の音を捉える。


 ――来るッ!


 天井が裂け、巨大な岩石が雨のように降り注ぎ始めた。十兵衛は背中の錆び刀を楔として壁に突き刺し、落盤を一時的に支えようと、無意識に右手を柄へ伸ばしかけた。しかし、錆び刀に宿る小夜の怨念が、十兵衛の不抜の制約を冷酷に拒絶した。刀は鞘から一ミリも抜けず、強烈な呪気の拒絶反応が十兵衛の胸を直撃し、彼は激しく吐血した。


「お前さんは下がれ!」


 十兵衛は突き飛ばされるような衝撃に耐えながら、瞬発的な左腕の力だけで源治の細い身体を抱きかかえた。足元が激しく揺れ、背後の坑道が凄まじい轟音と共に、巨大な岩石によって次々と埋まっていく。


「前だ! 前方の空洞へ滑り込め!」


 源治の絶叫が響く。十兵衛は左足一本で泥濘を蹴り、崩れ落ちる岩石の隙間を縫うようにして、前方の不気味な青黒い光が漏れ出る空洞へと身体を滑り込ませた。


 ――ズドォォォン!!!


 背後で、奈落谷の坑道全体が完全に崩落した。凄まじい爆風と土砂が十兵衛の背中を襲い、彼と源治の身体は激しく地面を転がった。


 やがて、轟音が遠ざかり、再び不気味な静寂が辺りを包み込む。十兵衛が這い上がり、背後を振り返ると、そこには天井までぎっしりと積み重なった巨大な瓦礫の山がそびえ立っていた。退路は、完全に塞がれたのだ。


 二人が閉じ込められたのは、四方を不気味な青黒い鉱石に囲まれた、息苦しい閉鎖空間――極硬隕鉄が眠る「星堕ちの窪み」の入り口だった。酸素が急速に薄れゆく暗闇の中で、十兵衛の背中の錆び刀が、周囲の隕鉄が放つ強烈な磁場に反応し、不気味にガタガタと震え始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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