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闇を穿つ心音

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霙(みぞれ)混じりの冷たい雨は、燃え盛る紅蓮の炎によって瞬時に蒸発し、第一採掘場の底は白く濁った水蒸気と、視界を完全に遮断する漆黒の煙で満たされていた。石炭が燃える不気味な臭いと、立ち込める硫黄の毒煙が、霧生十兵衛(きりゅうじゅうべえ)の肺を内側から焼き焦がすように苛む。


「ハハハ! 息が苦しいか、不抜の浪人め! この煙の中では、貴様の自慢の目も耳も、ただの飾りよ!」


 煙の奥から、百足の源蔵(むかでのげんぞう)の歪んだ嘲笑が反響する。源蔵は小柄な体躯をさらに低く沈め、気配を完全に消して泥濘の上を滑るように移動していた。彼の衣服に仕込まれた無数の暗器が、かすかに擦れ合う音が周囲の爆音にかき消されていく。


 十兵衛の右腕は、周囲を囲む炎の熱気によって「特製泥薬」が完全に溶け落ち、凍結していた呪毒が再び激しく暴走を始めていた。黒ずんだ血管が不気味に脈動し、骨をきしませる激痛が心臓を直接突き刺す。左肩の傷も開き、左腕の筋力は全盛期の半分以下。立っていることすら奇跡に近い満身創痍の状態だった。


 ――ヒュッ!


 風の揺らぎさえ生じさせない、無音の踏み込み。源蔵の気配が完全に消失したと思った刹那、十兵衛の右頸動脈に向けて、猛毒を塗った双短刀の刃が闇を裂いて迫る。


 十兵衛は肉眼を完全に閉じた。炎の爆裂音、逃げ惑う奴隷たちの悲鳴、吹き荒れる上昇気流。そのすべての喧騒を脳内で削ぎ落とし、ただ一つの「音」に全神経を集中させる。


(耳を、澄ませ。万物には呼吸があり、命ある者には必ず『鼓動』がある……)


 隻腕の師・源庵(げんあん)の教えが、脳裏に静かに響いた。十兵衛の閉ざされた両眼の奥、漆黒の闇に包まれたキャンバスに、かすかな振動が伝わる。


 ――ドクン……ドクン……。


 聞こえた。それは、燃え盛る炎の壁の向こう、十兵衛の右斜め後方から迫る、源蔵の規則正しい心臓の鼓動だった。その鼓動が、静かな波紋となって十兵衛の脳裏に鮮明に視覚化される。


 ――ドクン、ドクン!


 攻撃を放つ直前、源蔵の心拍数が一瞬だけ跳ね上がった。その生理的な変化を、十兵衛の「心音感知(聴覚覚醒)」は完璧に捉えていた。踏み込みの瞬間が、完全に予知できる。


 十兵衛は紙一重で首を傾けた。冷たい刃先が彼の頬をかすめ、煤黒の油を削ぎ落とす。刃が空を切った一瞬の隙を逃さず、十兵衛は左手一本で壊れかけた木鞘を鋭く突き出した。


 ――ゴッ!


 鈍い破壊音が響き渡る。木鞘の側面が、源蔵の右手首の関節を正確に強打した。手首の骨が砕ける湿った音が響き、源蔵が握っていた双短刀の一振りが、泥濘の中に突き刺さって静かに転がった。


「なっ……何だと!? この暗闇で、私の刃をかわして手首を打っただと!?」


 源蔵の顔が驚愕に染まる。しかし、彼は長年暗闇の炭鉱で生き抜いてきた一流の刺客だった。即座に距離を取り、左手に残る双短刀を構え直すと、懐から無数の毒針「百足千手暗器(むかせんじゅあんき)」を扇状に放った。


 シュシュシュシュン!


 闇を切り裂く、細い金属の雨。十兵衛は心音の移動速度から針の軌道を瞬時に先読みし、左手だけで木鞘を猛烈に回転させた。源庵流鞘打術――『波紋流し』。鞘の高速回転が生み出す急激な空気の渦が、目に見えない防壁となって毒針の弾幕を包み込み、ことごとく叩き落としていく。


 しかし、その直後、近くに積まれていた炭鉱の油樽が炎に包まれ、大爆発を起こした。


 ――ズドォォォン!


 凄まじい衝撃波と爆音。その暴力的な喧騒が、十兵衛が捉えていた源蔵の心音を一瞬だけ完全に掻き消した。音の波紋が乱れ、闇が再び十兵衛を支配する。


 ――チッ!


 源蔵の残る一振りが、十兵衛の右脇腹を浅く切り裂いた。鮮血が噴き出し、煤黒の油と混ざり合って道着を赤黒く染めていく。激しい痛みが走るが、十兵衛は眉一つ動かさない。彼は再び目を閉じ、爆音の余韻の奥に眠る、微かな鼓動の糸を掴み取ろうとした。


 ――ドクン……ドクン……。


 再び、赤い波紋が脳裏に浮かび上がる。源蔵の心拍数は、十兵衛の超人的な反撃への恐怖から、先ほどよりも激しく乱れていた。


「そこだ」


 十兵衛は「雪隠れの歩法」で泥濘の上を滑るように踏み込み、全身の遠心力を左腕に乗せて木鞘を振り下ろした。源庵流鞘打術――『兜割り』。


 ――バキィィン!


 重厚な打撃音が響き、十兵衛の放った一撃が源蔵の右肩を正確に粉砕した。鎖骨が砕け、源蔵の身体が泥濘の中に激しく転がった。


「が、あぁぁッ……!」


 源蔵は右肩を押さえ、激痛にのたうち回りながらも、その瞳に狂気の光を灯したまま十兵衛を見上げた。


「ハ、ハハハ……さすがは霧生の一族……。だが、これで勝ったと思うなよ……!」


 源蔵は左手で、泥にまみれた地面の一角にある錆びついた鉄のレバーを強引に引き下げた。それは、クレーターの最深部へと繋がる廃棄された旧坑道「奈落谷(ならくだに)」の爆破装置の起動スイッチだった。


 ――ゴゴゴゴゴゴ……!


 地底深くから、不気味な地鳴りが響き渡る。次の瞬間、採掘場の底の岩盤が激しく裂け、底なしの暗黒の亀裂が十兵衛の足元に広がった。


「一緒に地獄へ落ちるのだ、十兵衛ぇぇッ!」


 源蔵の狂気的な絶叫が響くなか、崩落する瓦礫と共に、十兵衛の身体は底なしの暗黒へと落下していった。

HẾT CHƯƠNG

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