採掘場の死線
霙(みぞれ)の混じる重い雨が、日暮宿(ひぐらししゅく)の泥濘を叩き続けている。
深夜、夜明け前の数時間。闇医者・甚八(じんぱち)の診療所の地下深く、湿った生薬の匂いと泥の腐臭が混ざり合う暗がりのなかで、霧生十兵衛(きりゅうじゅうべえ)は静かに立ち上がった。
甚八の施した「経絡針治療」と「特製泥薬(とくせいでいやく)」の冷気によって、彼の右腕は肩口から指先まで完全に感覚を失い、だらりと垂れ下がっている。左肩の蛇毒は一時的に抑えられているものの、左腕の力も全盛期の半分に満たない。満身創痍。しかし、十兵衛の瞳の奥に宿る復讐の灯火は、いささかも衰えてはいなかった。
「行くのか、十兵衛さん」
寝台の脇で、新太(しんた)が不安げな声を上げた。その小さな手には、自作のブナの木刀が固く握られている。新太は甚八の口から、十兵衛の右腕の黒化が命を削る「呪毒」であり、その余命が残り少ないという残酷な真実を聞かされたばかりだった。その瞳には、師を失うことへの恐怖と、同行を志願する強い執念が揺れている。
十兵衛は新太を見ず、ただ静かに首を振った。
「新太、お前はここに残れ。お春(おはる)と共に、動けない弥助(やすけ)を守るのだ」
「でも……!」
「復讐の道に、お前を連れて行くわけにはいかない。……これは俺の戦いだ」
その冷徹な声音に、新太はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。十兵衛は左手だけで、懐から取り出した小さな竹筒を傾けた。中に入っているのは、炭鉱の廃油と炭粉を練り合わせた「煤黒の油(すすくろのあぶら)」だ。光を一切反射しない漆黒の塗料。彼はそれを左指ですくい、自身の顔、首筋、そして背負った「血盟の錆び刀(けつめいのさびがな)」の木鞘全体へと、音もなく塗りつけていく。
だらりと垂れ下がった右腕は、道着の帯できつく胴体に縛り付けた。戦闘中にこの死に腕が揺れ、余計な音を立てるのを防ぐためだ。これこそが、不抜の浪人としての、悲痛な戦闘準備であった。
新太が眠りに落ちるのを見届ける間もなく、十兵衛は甚八が指し示した排水溝のハッチを開け、泥濘の地下通路へと滑り込んだ。冷たい泥水が道着を濡らすが、十兵衛の心音感知(しんおんかんち)は、すでに遠くの地上で蠢く敵の鼓動を捉え始めていた。
地上へ這い出た十兵衛は、霙の降る暗闇に紛れ、日暮宿の外れに広がる「第一採掘場(だいいちさいくつじょう)」へと向かった。そこは、大地に穿たれた巨大な奈落のクレーターだった。
直径数十丈に及ぶ漆黒の縦穴。その底からは、湿った石炭の臭いと、極限の労働に喘ぐ奴隷たちの絶望が混ざり合った冷たい風が吹き上げてくる。明朝――夜明けと共に、黒鉄衆(くろがねしゅう)による奴隷たちの無差別処刑が始まる。十兵衛をおびき出すための、残虐な罠だ。
見張りの黒鉄衆が篝火(かがりび)を焚き、目を光らせている。だが、煤黒の油を全身に纏った十兵衛の姿を、彼らの凡庸な眼光が捉えることはできない。
十兵衛は「雪隠れの歩法(ゆきがれのほほう)」を開始した。右腕が完全に動かないため、身体の重心は極端に左側へと偏っている。しかし、十兵衛は左膝を深く曲げ、腰の回転だけでその不均衡を完璧に相殺した。雪や泥を踏んでも、音は一切立たない。影が斜面を滑り落ちるように、彼はクレーターの底へと降下していった。
底には、明朝の処刑を待つ数十人の奴隷たちが、鉄の太い鎖で繋がれ、寒さに震えていた。弥助の仲間たちだ。
巡回する二人の看守。十兵衛は音もなくその背後に忍び寄る。
――ゴン。
左手一本で操る木鞘の先端が、看守の頸椎を正確に穿った。乾いた打撃音と共に、看守は声も上げずに泥の中へと崩れ落ちる。もう一人も、振り向きざまに喉元を鞘の角で突かれ、白目を剥いて倒れた。
「……霧生、十兵衛か」
繋がれていた奴隷の一人が目を見開いた。絶望に沈んでいた瞳に、微かな希望の光が宿る。
「静かにしろ。今、鎖を解く」
十兵衛は木鞘の角を鉄鎖の結合部に楔のように差し込み、左腕に全神経を集中させた。身体を鋭くねじり、遠心力を乗せる。
――ギチ、ギチ、パキィン!
骨が軋むような衝撃と共に、太い鉄鎖が音を立てて弾け飛んだ。次々と鎖を破壊し、奴隷たちの自由を奪い返していく。左手一本とは思えぬ、凄まじい剛力。奴隷たちは驚愕しながらも、静かに立ち上がった。
「西の廃坑道から脱出しろ。そこなら、鴉衆(からすぐみ)の連絡網が生きている」
しかし、奴隷の半数が斜面を登り始めたその瞬間、クレーターの縁から無数の松明が一斉に投げ下ろされた。
「ハハハ! やはり現れたな、不抜の浪人め!」
不気味な高笑いが、奈落の底に響き渡る。
松明の赤い光に照らし出されたのは、小柄で不気味な佇まいの男――黒鉄衆鉱山守備隊長、百足の源蔵(むかでのげんぞう)だった。彼の衣服のあちこちに無数の小さなポケットがあり、そこから不気味な暗器の柄が覗いている。完全に予期されていた待ち伏せだ。
源蔵が不敵に手を振り下ろすと、クレーターの周囲に配された黒鉄衆の伏兵から、一斉に火矢が放たれた。
ヒュヒュヒュヒュン!
火矢は採掘場に積まれていた乾燥した木材や、炭鉱の油樽に次々と突き刺さる。
――ゴォォォ!
凄まじい爆発音と共に、紅蓮の炎が壁となって十兵衛たちの退路を塞いだ。熱風が吹き荒れ、逃げ惑う奴隷たちの悲鳴が響く。数人の奴隷が火矢の犠牲となり、血を流して泥濘に倒れていく。十兵衛の胸に、かつて焼き尽くされた霧生の里の光景が重なり、悲痛な怒りが渦巻いた。
「この火の海がお前の墓場だ!」
源蔵が両腕を振るう。彼の袖口から、無数の極細の毒針「百足千手暗器(むかせんじゅあんき)」が放たれた。暗闇を切り裂く、細い金属の雨。
十兵衛は瞬時に周囲を観察し、近くにあった燃え盛る木箱を左手一本で掴み上げ、盾とした。
チチチチチッ!
毒針が木箱の表面に突き刺さる。しかし、炎の熱風が木箱の乾燥した木肌を急激に劣化させ、次の瞬間、爆発的な上昇気流によって木箱は木っ端微塵に破壊された。盾を失った十兵衛の前に、さらなる毒針の雨が迫る。
十兵衛は正面突破を試みようと地を踏みしめた。しかし、周囲を囲む圧倒的な熱気が、彼の右腕に塗られた「特製泥薬」の効果を急激に奪い始めた。熱によって黒泥が溶け出し、凍結していた呪毒が右腕の経絡を再び激しく侵食し始める。
「……ぐ、あ……ッ!」
心臓を鷲掴みにされるような激痛。その苦痛により、十兵衛の踏み込みが一瞬だけ遅れた。その隙を突くように、源蔵の放った双短刀が風を切って迫る。
視界は炎の煙で完全に遮られ、上昇気流が空気の揺らぎを狂わせている。目で見、肌で風を感じることは不可能。絶体絶命の窮地。
(……耳を、研ぎ澄ませ)
十兵衛は肉眼を完全に閉じた。炎の爆裂音、奴隷たちの悲鳴、風の咆哮。そのすべての雑音の奥から、源蔵が次なる暗器を番える微かな金属の「擦れ合う反響」を聞き取ろうとする。十兵衛の「心音感知」が、この極限の死線において、さらなる覚醒を求めて胎動し始めていた。
「逃げ場はないぞ、霧生十兵衛!」
炎の壁の向こうから、源蔵の冷酷な嘲笑と、次なる暗器の風切り音が迫る。酸素が薄れゆく紅蓮の奈落の底で、十兵衛は左手一本で壊れかけた木鞘を握り直し、闇の奥の鼓動を見据えた。
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