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闇医者と泥濘の光

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骨まで凍てつく猛吹雪の夜から、霙(みぞれ)混じりの重い雨へと変わる頃。最果ての流刑地、日暮宿(ひぐらししゅく)の最下層に位置するスラム――「泥濘街(でいねいがい)」は、黒い泥と排泄物の臭気に満ちていた。誰もが生きることを諦めたような絶望の吹き溜まり。そのぬかるんだ路地を、二つの影が這うように進んでいた。


「十兵衛さん、しっかりして……! もう少し、もう少しだから!」


 泥まみれになりながら、細い肩で十兵衛の巨躯を支えているのは、炭鉱の孤児・新太(しんた)だった。十兵衛の右腕は、肩口から指先まで炭のように黒ずみ、だらりと垂れ下がってピクリとも動かない。さらに悪いことに、無縁寺での死闘の際、黒鉄衆の処刑人・蛇骨の清十郎が放った神経毒の針が左肩を深く貫いていた。毒は経絡を伝ってじわじわと体温を奪い、十兵衛の視界を白く霞ませていく。


「……新太、気配を消せ」


 かすれる声で十兵衛が呟く。両腕がほぼ死に体となりながらも、彼の「心音感知」は周囲の闇に潜む黒鉄衆の巡回兵たちの心拍を捉えていた。一歩間違えれば、即座に包囲され、なぶり殺しにされる。新太は息を殺し、十兵衛の指示に従って影から影へと泥にまみれながら進んだ。


 やがて二人は、泥濘街の最も深い路地裏、腐った木板で覆われた地下への隠し扉に辿り着いた。新太が震える手で、約束の合図――三回、不規則に木板を叩く。


 ギィィ……と、錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉が内側から細く開いた。立ち上ってきたのは、安酒の饐(す)えた臭いと、酸っぱい酢、そして強烈な生薬の香り。そこが、日暮宿の平民たちが最後に縋る「甚八の闇診療所」だった。


「おいおい、夜這いにしては随分と泥臭い客だな。おまけに、半分死んでやがる」


 暗がりから声をかけてきたのは、ボロボロの着物を着崩し、無精髭を蓄えた冴えない中年男――闇医者の甚八(じんぱち)だった。その目はひどく酒臭く、気怠げだったが、十兵衛の身体を一目見た瞬間、その瞳の奥に宿る「医者」の光が鋭く明滅した。


「新太、そこの汚い寝台にそいつを放り込め。……おい、霧生。お前、何をしでかしたらこんな身体になるんだ?」


 甚八は毒舌を吐きながらも、手元だけは異常に正確で静かだった。素早く十兵衛の道着を切り裂き、その右腕と左肩を露わにする。


「ひでえな……」


 甚八の顔から不真面目な笑みが消えた。十兵衛の右腕は、錆び刀の呪毒――「黒化(こっか)」によって石のように灰色に変色し、黒い血管が不気味に浮き上がっていた。そして左肩には、清十郎の蛇毒による青黒い腫れが広がっている。


「おい、霧生。この右腕の黒ずみ……お前が背負っているその『錆び刀』の怨念を吸いすぎている。経絡が内側から腐りかけてやがるぞ。復讐のために己の命をドブに捨てるのが、霧生一族の家業なのかい?」


 甚八は激怒していた。命を軽んじ、復讐の道具として己の肉体を削り落としていく十兵衛の覚悟が、医者としての彼の倫理観に深く触れたのだ。しかし、十兵衛はかすむ視界の向こうで、ただ静かに甚八を見据えていた。


「……治せ、甚八。俺には……まだ、斬らねばならぬ奴がいる」


「ふん、死にたがりめ。だが、俺の目の前で勝手に死なれるのは癪に障る。麻酔なんかねえぞ、歯を食いしばりな」


 甚八は特製の薬箱から、小さなメスと銀針、そして黒くドロドロとした「甚八の特製泥薬(じんぱちのとくせいでいやく)」を取り出した。治療が始まる。


 ――チッ。


 甚八の小刀が、十兵衛の右腕の黒ずんだ皮膚を容赦なく切り裂いた。中から、どろりとした炭のような黒い血が溢れ出る。常人であれば絶叫し、狂い死ぬほどの激痛。だが、十兵衛は声を上げなかった。彼の左手は、診療所の床に落ちていた太い鉄釘を掴み、それを指の力だけでぐにゃりと握りつぶすことで、悲鳴を体内に押し殺していた。額から滝のような汗が流れ、全身の筋肉が激しく波打つ。新太はその光景を、息を呑んで見つめることしかできなかった。


「経絡の流れが完全に狂ってやがる。錆び刀の呪毒は、お前の血流が激しくなるほど進行するんだ。心臓が狂ったように脈打てば、毒は三日で心臓に達し、お前は理性のない悪鬼になって死ぬ」


 甚八はそう言いながら、十兵衛の胸元と頸部の経絡に、極細の銀針を次々と刺していった。心拍数を極限まで下げるための「経絡針治療」だ。そして、切り裂いた右腕の傷口に、有毒な黒泥と麻痺草を練り上げた「特製泥薬」を厚く塗り込んでいく。


「……ぐ、あ……」


 泥薬が皮膚に触れた瞬間、十兵衛の右腕は激しい冷気に包まれ、感覚が完全に消失した。痛みが引くと同時に、右腕の自由が一時的に「泥薬」の麻痺効果によって完全に失われる。戦闘能力の一時的な低下。これが、一時的な生存と引き換えに支払った本当の代償だった。


「これで一時的に呪毒の進行は止まる。だが、右腕はしばらく完全に動かせんぞ。大人しく寝てろ」


 甚八が手を拭い、ため息をついたその時だった。診療所の古い木扉が、激しい音を立てて外から押し開けられた。


「甚八さん! 十兵衛さん……!」


 飛び込んできたのは、宿場町の居酒屋「日暮庵」の看板娘、お春(おはる)だった。彼女のひまわり柄の着物は泥と血で汚れ、その細い腕には、全身傷だらけで意識を失った大柄な男が抱えられていた。炭鉱奴隷のリーダー、弥助(やすけ)だった。


「お春!? どうした、その大男は……」


 甚八が駆け寄る。お春は息を切らし、涙を流しながら叫んだ。


「黒鉄衆が……剛田鬼十郎の奴らが、『第一採掘場』で奴隷たちの無差別処刑を始めたの! 弥助さんは、仲間を逃がすために盾になって、命からがら逃げてきたけど……明朝、残された奴隷たち全員を、あのクレーターの底で処刑するって……! 『不抜の浪人』をおびき出すために!」


 その言葉が、診療所の生温かい空気を一瞬にして凍りつかせた。


 十兵衛は、麻痺して動かない右腕を引きずり、冷たい寝台の上で上半身を起こした。彼の「心音感知」が、弥助の弱々しく、しかし必死に脈打つ心臓の鼓動を捉える。明朝――夜明けまで、もう時間は残されていない。


 両腕の自由を失い、満身創痍となった復讐者の前に、新たなる死線が非情にも突きつけられようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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