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闇に潜む処刑刃

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凍てつく風が、崩れかけた無縁寺の隙間から容赦なく吹き込み、堂内の煤けた空気をかき乱していた。床板に広がった黒い血溜まりは、すでに極寒の空気によって凍りつき、どす黒い氷の輪となって月光を反射している。


 霧生十兵衛は、本堂の中央で微動だにせず座していた。その右腕は、肩口から指先に至るまで炭のように黒ずみ、だらりと垂れ下がっている。感覚は一切ない。まるで他人の腕を無理やり縫い付けられたかのように、石となって凍りついた肉体。経絡遮断の法――自らの指で右肩の「肩井穴」を撃ち抜き、錆び刀の呪毒を強引にせき止めた代償は、あまりにも重かった。


 左手一本。それが、今十兵衛に残された唯一の武器だった。彼の膝の上には、決して抜くことのできない「血盟の錆び刀」が、古い木鞘に収まったまま静かに横たわっている。


「……新太」


 十兵衛は声を潜め、本堂の奥へと視線を向けた。床板の隙間から、新太の怯えた、しかし強い意志を宿した瞳が微かに覗いている。十兵衛は顎で床下を示すと、それ以上は何も言わなかった。新太は息を殺し、自作のブナの木刀を抱きしめて闇の中に身を潜めた。


 ――サクッ、サクッ。


 雪を踏みしめる音が、本堂のすぐ外で止まった。次の瞬間、立て付けの悪い木扉が、不気味な軋み音を立ててゆっくりと押し開けられた。雪煙と共に堂内へ滑り込んできたのは、細身の、どこか蛇を思わせる歪んだ歩き方をする男だった。白い顔に浮かぶ、冷酷で陰湿な薄笑い。男の腰には、節々が不気味に連結された、異形の鉄鞭のような武器がぶら下がっていた。


「やはりここにいたか、霧生一族の生き残り……不抜の十兵衛」


 男の名は、蛇骨の清十郎。黒鉄衆が誇る冷血無比なる処刑人である。


「お前の噂は聞いている。鞘のまま戦う奇妙な浪人。だが、その右腕はどうした? だらりと下がって、まるで死人の腕のようだな」


 清十郎の細い目が、十兵衛の動かない右腕をねめまわした。彼は腰の武器――「蛇骨剣(じゃこつけん)」の柄に手をかけた。金属の輪が擦れ合う、シャリシャリとした不気味な音が静寂を切り裂く。


「剛田の旦那は、お前の首を求めている。だが、俺はな……標的の肉を少しずつ削ぎ落とし、のたうち回るのを見るのが好きなのだよ」


 十兵衛は答えず、左手で錆び刀の木鞘を掴み、ゆっくりと立ち上がった。右腕は完全に死んでいる。重心が右に傾くのを、左足の踏み込みだけで強引に補正する。その不自然な動きを、清十郎の見逃すはずがなかった。


「やはり、まともに動けぬか! 死ね!」


 清十郎が手首を鋭くしならせた。瞬間、蛇骨剣が生き物のように伸長した。無数の鋭い鉄の節が強靭な鋼のワイヤーで繋がれた仕込み鞭刃が、猛吹雪を引き裂き、十兵衛の死角である右肩に向けて襲いかかった。


 ――キィィン!


 激しい風切り音と共に迫る刃に対し、十兵衛は左手一本で木鞘を高速で回転させた。源庵流鞘打術――『波紋流し』。鞘の回転が生み出す急激な空気の渦が、見えない防壁となって蛇骨剣の先端を包み込む。物理的な質量を伴った風圧の壁が、鞭刃の軌道をわずかに外側へと逸らした。鋭い刃先が十兵衛の右肩の道着を掠め、背後の柱を深く切り裂いて木屑を散らす。


「ほう、左手一本で俺の刃をいなすか。だが、蛇の牙は一度では終わらん!」


 清十郎が手首をひねり、引き戻す力を利用して蛇骨剣の軌道を強引に変えた。受け流されたはずの刃の節々が、空中でおぞましく曲がり、今度は十兵衛の脚部を絡め取ろうと蛇のようにのたうつ。一度絡まれば、その鋭い節刃が肉を骨まで削ぎ落とすだろう。


 十兵衛は地を蹴った。麻痺した右腕の重さで空中での均衡が崩れかけるが、彼は強靭な体幹だけでそれをねじ伏せ、跳躍した。空中で翻る十兵衛の左手から、木鞘が清十郎の顔面めがけて弾丸のように投げつけられた。


「何っ!?」


 武器を投げ捨てるという、想定外の奇策。清十郎は驚愕し、十兵衛の脚部を狙っていた蛇骨剣を強引に引き戻し、顔面に迫る木鞘を叩き落とそうと防御に回った。


 それこそが、十兵衛の狙いだった。


 木鞘が弾かれる一瞬の隙、十兵衛はすでに清十郎の懐へと踏み込んでいた。左足が床板を激しく踏み抜き、十兵衛の身体が独楽のように回転する。遠心力の全てを乗せた左拳が、清十郎の顎を正確に捉えた。


 ――グシャッ!


 鈍い肉撃音と共に、清十郎の身体が宙に浮き、本堂の古い壁へと激突した。壁の板が派手に割れ、雪が堂内になだれ込む。清十郎は口から血を吐き散らし、顎を歪めながらも、その瞳には狂気的な憎悪が燃え盛っていた。


「おのれ……不抜の、餓鬼が……!」


 倒れ伏した清十郎の袖口から、微かな金属音が響いた。十兵衛は「心音感知」で清十郎の心拍が急激に跳ね上がったのを察知したが、右腕が動かないことによる僅かな反応の遅れが生じた。清十郎の指先から、仕込み暗器の極細の針が放たれたのだ。


 ――チッ。


 避ける間もなく、十兵衛の左肩に冷たい衝撃が走った。微小な毒針が、道着を貫いて皮膚に突き刺さっていた。刹那、左肩から首筋にかけて、焼けるような激痛と、不気味な麻痺が広がり始める。黒鉄衆の処刑人が用いる、神経を麻痺させる蛇毒だ。


「ヒハハ……効くだろう? その毒は全身の経絡を腐らせる。お前の動く左腕も、すぐに死に体となるのだ」


 清十郎は歪んだ顎を抑え、割れた壁の隙間から猛吹雪の闇夜へと逃れるように飛び退いた。追撃を仕掛けるだけの余力は、十兵衛の打撃によって奪われていたが、毒を植え付けたことで勝利を確信していたのだ。


「霧生……お前はここで、干からびて死ね……」


 清十郎の不気味な声は、吹き荒れる雪の音の中に消えていった。


 静寂が戻った本堂で、十兵衛は膝をついた。左肩から侵入した毒が、経絡を伝ってじわじわと体温を奪っていく。視界がかすかにぼやけ始め、呼吸が荒くなる。


「十兵衛さん!」


 床板を押し上げ、新太が血相を変えて飛び出してきた。十兵衛はだらりと垂れ下がった右腕と、毒に侵され始めた左肩を震わせながら、落ちていた木鞘を左手で拾い上げた。


「……ここを出るぞ、新太」


「でも、その身体じゃ……!」


「黒鉄衆にこの場所が知られた。じきに本隊が来る。……日暮宿の貧民窟に、甚八という闇医者がいる。そこへ行く」


 十兵衛は新太の肩を借り、かすむ視界の中で無縁寺の門扉を見つめた。毒が全身に回るまで、残された時間は少ない。満身創痍の復讐者は、雪の降りしきる暗闇の中へと、再び歩みを進めた。

HẾT CHƯƠNG

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