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廃寺の怨嗟

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骨まで凍てつくような霙(みぞれ)は、山を登るにつれて、容赦なく吹き荒れる大雪へと変わっていた。


 日ノ本の最果て、黒鉄の荒野を見下ろす険しい山道の奥深くに、その廃寺はひっそりと佇んでいた。名を「無縁寺(むえんじ)」という。数十年前、身寄りのない流刑者や使い潰された奴隷たちを弔うために建てられたというが、今や住職もおらず、荒れ果てた本堂の屋根は半ば崩れ落ち、無数の名もなき地蔵が雪に埋もれている。ここが、霧生十兵衛(きりゅうじゅうべえ)の唯一の潜伏先であった。


「う、うぅ……寒いよ……」


 十兵衛の灰色の道着の裾を握りしめ、新太(しんた)が小さな身体をがたがたと震わせていた。宿場町での大乱戦から十兵衛に抱えられて逃れてきた少年は、泥と雪にまみれ、疲労と寒さで今にも倒れそうだった。


「奥の隠し部屋にいろ。そこに炭と、古い毛布がある」


 十兵衛は短く告げると、本堂の煤けた引き戸を静かに開けた。冷気が堂内に流れ込み、埃っぽい沈黙が揺れる。奥の小さな煤けた部屋に新太を導き、十兵衛は手際よく古い火打ち石で炭に火を熾した。赤く小さな火種が、かろうじて新太の青ざめた顔を照らし出す。


 新太は毛布にくるまりながらも、その手に自作のブナの木刀を固く握りしめたままであった。その瞳には、父親を目の前で殺された絶望と、黒鉄衆への激しい憎悪が、消えぬ火のように燃え盛っている。


「……十兵衛さん」


 新太が、震える声で十兵衛を見上げた。


「俺を、弟子にしてください。あなたのような強い武士になりたい。あの黒鉄衆の奴らを、父ちゃんを殺したあいつらを、俺の手で全員叩きのめしてやりたいんだ!」


 少年の純粋な憎悪が、狭い部屋に響き渡った。その言葉は、かつて一族を皆殺しにされた夜、同じように復讐を誓った幼き日の十兵衛自身の叫びと、不気味なほどに重なっていた。


 十兵衛は無言のまま、背中に縛り付けられた「血盟の錆び刀(けつめいのさびがな)」に触れた。麻縄で幾重にも縛られたその柄頭には、血に染まった赤い布――亡き妹・小夜(さよ)の形見である髪帯が固く巻き付けられている。その刀は重く、冷たく、十兵衛の背中で沈黙を保っていた。新太は、この刀が「仇敵以外には絶対に抜けない呪い」を背負っていることなど、知る由もない。


「お前には教えない」


 十兵衛の声は、吹雪よりも冷徹だった。


「どうしてだよ!? あなたはあいつらを鞘一つでやっつけたじゃないか! 俺だって、毎日木刀を振ってきたんだ。どんなに厳しい修行だって耐えてみせる!」


「復讐の先には、何もない」


 十兵衛は静かに新太を見下ろした。その瞳は、深い闇の底のように濁り、感情が削ぎ落とされていた。


「あるのは底なしの虚無と、己の身を内側から喰らい尽くす闇だけだ。お前がその木刀を血に染めた瞬間、お前は二度と元の人間には戻れなくなる。……父親もお前のそんな姿は望んでいない」


「嘘だ! 父ちゃんはあいつらに殺されたんだぞ! 黙って見てろっていうのかよ!」


 新太は涙を流しながら叫んだが、十兵衛はそれ以上答えなかった。彼は背を向け、本堂の奥、冷たい床板が広がる内陣へと静かに歩みを進めた。


 一人残された十兵衛は、本堂の中央に結跏趺坐(けっかふざ)で座した。背中から麻縄を解き、血盟の錆び刀を自身の目の前に横たえる。本堂の天井の隙間から漏れ出る月光が、赤黒い錆に覆われた刀身を冷たく照らしていた。


「くっ……あ、が……!」


 その瞬間、十兵衛は激しい目眩と共に、右手のひらに焼き付くような激痛を覚えた。道着の袖をまくり上げると、彼の右手のひらは、炭のように真っ黒に変色していた。宿場町で猪口の経絡を突いた際、一時的に体内の「気」を酷使した代償だ。錆び刀の呪毒――「黒化(こっか)・経絡の侵食」が、不気味な黒い血管となって、手首を越え、前腕へと生き物のように這い登り始めていた。


 ――ドクン、ドクン。


 錆び刀の刀身が、十兵衛の右腕の脈動と同調するように、不気味に震え始めた。柄に巻かれた小夜の髪帯が、まるで血を吸い上げようとするかのように赤く輝きを帯びる。


(お兄ちゃん……痛いよ……助けて……)


 脳裏に、あの惨劇の夜の記憶が、鮮明な狂気となって蘇る。赤く染まった雪、燃え盛る霧生の里、そして剛田鬼十郎(ごうだきじゅうろう)の巨大な金砕棒の下で、悲鳴を上げて散った一族百余名の断末魔の叫び。その中心で、白い小袖を血に染めた十四歳の妹・小夜が、虚ろな瞳で十兵衛を見つめていた。


(お兄ちゃん、どうして助けてくれなかったの? あいつらを殺して。早く、あいつらの血をこの刀に吸わせて……!)


「小夜……!」


 十兵衛の額から大粒の汗が流れ落ちる。脳内を埋め尽くす怨嗟の叫びが、彼の理性を内側から削り取ろうとしていた。錆び刀から噴き出す禍々しい黒い呪気が、十兵衛の右腕を経絡に沿って急速に侵食していく。このまま呪気が心臓に達すれば、彼は復讐を果たす前に、理性のない「悪鬼」となって狂死するだろう。


 十兵衛は動揺をねじ伏せ、深く静かな呼吸法――「無想静座の法(むそうせいざのほう)」を開始した。周囲の吹雪の音、自身の心臓の鼓動、そして脳内の叫びすらも、すべてはただの「雑音」として意識の彼方へと排していく。しかし、今回の呪毒の侵食は、かつてないほどに狂暴だった。一時的な精神統一だけでは、血管を焼き尽くすような激痛を抑えきれない。


(殺せ……殺せ……!)


 幻覚の中の小夜の手が、十兵衛の首筋に伸びてくる。十兵衛の左手が、無意識のうちに錆び刀の柄へと伸びかかった。仇敵以外の前で抜刀すれば、一族の禁忌に触れ、彼の魂は一瞬にして消滅する。


「おおおおおっ!」


 十兵衛は悲痛な咆哮を上げると、伸びかかった左手を強引に引き戻し、五本の指を鋼のように硬く尖らせて、自身の右肩の経絡――「肩井穴(けんせいけつ)」に向けて鋭く叩き込んだ。これこそが、自らの経絡を突いて血流と呪気の流れを強引に遮断する自己治療術――「経絡遮断の法(けいらくしゃだんのほう)」であった。


 ――ズ、グンッ!


 鈍い肉撃音が本堂に響き渡る。肉体が内側から引き裂かれるような衝撃が十兵衛の全身を走り、彼はたまらず床板に両手をついて、激しく黒い血を吐き散らした。


「はぁっ……はぁっ……ぐ、うぅ……」


 荒い呼吸と共に、吐き出された血が冷たい床板を汚していく。しかし、その過酷な代償と引き換えに、脳内を支配していた一族の怨嗟の声は潮が引くように静まり返り、小夜の幻影も霧のように消え去った。前腕を這い登っていた黒い血管の動きはピタリと止まり、呪毒の心臓への侵食は、かろうじて右肩の手前でせき止められた。


 十兵衛は力なく右腕をだらりと垂らした。肩の経絡を完全に遮断した代償として、彼の右腕は、指先から肩口に至るまで、一切の感覚を失い、石のように冷たく麻痺していた。動かすことすらできない、完全な死に体だ。十兵衛は左手で床の血を拭い、荒い呼吸を整えながら、静かに目を閉じた。


 静寂が、再び無縁寺を支配した。煤けた本堂に、霙から雪へと変わった山風が、ヒュウヒュウと不気味な音を立てて吹き込んでいる。


 しかし、その静寂は長くは続かなかった。


 十兵衛の閉ざされた瞼の奥で、研ぎ澄まされた聴覚が、自然の風音とは異なる「異物」を捉えた。


 ――サクッ、サクッ。


 凍てついた雪を踏みしめる、極めて微小な、しかし統率された複数の足音。それだけではない。風に混ざって、金属の輪が微かに擦れ合う、冷たく鋭い響きが静寂を切り裂いた。


(……来たか)


 十兵衛の瞳が、暗闇の中で鋭く見開かれた。右腕が完全に麻痺した極限の状態で、廃寺の周囲は、すでに音もなく包囲されつつあった。

HẾT CHƯƠNG

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