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不抜の刃、泥濘を歩む

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骨まで凍てつくような霙(みぞれ)が、容赦なく辺境の荒野を叩いていた。


 日ノ本の最果て、流刑者と無法者が泥を啜って生きる地、流刑宿「日暮(ひぐれ)」。ここは足利幕府の威光も届かぬ、暴力だけが唯一の法たる奈落の底だ。黒鉄衆(くろがねしゅう)と呼ばれる鉱山支配者たちが奴隷を虫ケラのように使い潰し、その日暮らしの博徒や娼婦が泥濘(でいねい)に足を取られながら息を潜めている。


 宿場町の外れ、赤茶けた泥が池のように広がる広場で、生々しい肉の裂ける音と、獣のような咆哮が響き渡っていた。


「走る気力が残っているなら、もっと気の利いた逃げ方をせんか、この愚図どもが!」


 ぬかるんだ大地を踏みつけているのは、黒鉄衆の処刑人であり、冷酷な拷問官として恐れられる男――「血塗れの牙」こと猪口(いのくち)であった。

 身の丈六尺を超える巨躯。右顔面は獣に噛みちぎられたような醜悪な傷痕に覆われ、血の滴る分厚い革のエプロンを纏っている。その手には、おぞましい一品が握られていた。極厚の鋼で鍛え上げられた巨大な鋏――「拷問大鋏・断骨(だんこつ)」。重罪人の大腿骨すら一瞬で噛み砕くというその凶器が、霙に濡れて鈍く光っている。


 猪口の足元には、数人の炭鉱奴隷が息絶えて転がっていた。過酷な労働に耐えかねて脱走を図り、そしてこの場で捕らえられた者たちだ。その屍の山に縋り付き、泥まみれになりながら泣き叫ぶ一人の少年がいた。


「父ちゃん! 目を開けてよ、父ちゃん!」


 継ぎはぎだらけの道着を着たその少年――新太(しんた)は、すでに冷たくなった父親の亡骸を必死に揺さぶっていた。まだ十に満たぬ小さな身体は、寒さと恐怖、そして激しい怒りで小刻みに震えている。


「やかましいガキめ。死人に縋ったところで、炭鉱のノルマは減らんのだぞ」


 猪口は冷酷な笑みを浮かべ、巨大な断骨大鋏をゆっくりと持ち上げた。その刃が擦れ合い、キィィンと耳障りな金属音を立てる。


「お前もその父親の後を追わせてやる。これ以上、無駄飯を食わせるわけにはいかんからな」


 新太は涙に濡れた瞳で猪口を睨みつけた。手には、自ら削り出した不格好なブナの木刀が握られている。だが、大人の太腿ほどもある大鋏の刃を前に、その木刀はあまりにも無力だった。


「死ねい、鉱山の泥炭となれ!」


 猪口が両腕の怪力を振るい、断骨大鋏を振り下ろした。空気を引き裂く重厚な風圧。新太は恐怖に目を見張り、身体を硬直させた。死の刃が、少年の細い首筋に迫る――。


 その刹那、霙の煙を突き破り、一人の男が静かに割り込んだ。


 乱れた黒髪に無精髭、擦り切れた灰色の道着を纏った浪人。その背には、麻縄で幾重にも固く縛られた大刀が背負われていた。柄頭には、血に染まった不気味な赤い布――亡き妹の形見である「小夜の髪帯(さよのかんたい)」が巻き付けられている。鞘から一ミリも抜くことのできない呪いの刃、「血盟の錆び刀(けつめいのさびがな)」だ。


 男の名は――霧生十兵衛(きりゅうじゅうべえ)。


 十兵衛は一切刀を抜く素振りも見せず、ただ腰に差した古びた木鞘(きざや)を、下から斜め上へと滑らせるように突き出した。


 ――ガギィィン!


 耳を劈(つんざ)く衝撃音が響き渡り、泥濘の広場に激しい火花が散った。猪口の放った必殺の大鋏が、十兵衛の構えた木鞘の曲面に接触し、強引に軌道を逸らされたのだ。


「なっ……何奴!?」


 猪口は目を見張った。自身の全力の一撃が、ただの「鞘」によって防がれたのだ。それも、正面から受け止めたのではない。大鋏の刃の重さを、鞘の絶妙な傾きによって滑らせ、力を地面へと逃がされた。これこそが、十兵衛が隻腕の師・源庵(げんあん)から授かった防御の極意――「借力打力の法(しゃくりくだりきのほう)」であった。


 大鋏の刃は新太の頭先をかすめ、十兵衛の足元の泥へと深く突き刺さった。激しい衝撃により、周囲の泥水が扇状に跳ね上がる。


「抜かぬ刀で、俺の断骨を防ぐか……不届きな浪人め!」


 猪口は怒りに顔を歪め、泥から大鋏を引き抜くと、今度はハサミのように刃を絶え間なく噛み合わせながら十兵衛へと襲いかかった。チョキ、チョキと、肉を断ち切る冷酷な音が霙の音に混ざる。


「新太、下がっていろ」


 十兵衛は短く呟いた。その声は、凍てつく空気のように平坦で、冷たかった。


 猪口が横薙ぎに大鋏を振るう。十兵衛は最小限の歩法でその刃をかわした。しかし、泥濘に足元を乱され、霙で滑る地面に一瞬だけ体勢を崩す。新太を背後に庇いながらの戦いは、十兵衛に明らかな制約を与えていた。大鋏の鋭い先刃が、十兵衛の灰色の袖を鋭くかすめ取り、布地が引き裂かれて宙に舞った。


「ハハハ! 逃げ回るばかりか! 刀を抜けぬ腰抜けめ、その四肢を切り刻んでくれる!」


 猪口が勝ち誇り、さらに踏み込んで大鋏を唐竹割りに振り下ろす。力任せの、しかし圧倒的な質量の暴力。


 だが、十兵衛の瞳に宿る静かな光は消えなかった。彼は猪口の呼吸の乱れ、そして肩の筋肉の極微な動きから、攻撃の軌道を完全に先読みしていた。力任せの連撃の後、猪口の右脇腹が大きく開く――その一瞬の隙を。


 十兵衛は一歩前へ踏み込み、大鋏の刃を紙一重でかわすと、左手に握った木鞘を電光石火の速さで突き出した。


 狙うは、猪口の右手首の「経絡(けいろく)」――気の流れを司る急所だ。


 ――ゴンッ!


 鈍い打撃音が響き、木鞘の先端が猪口の手首を正確に撃ち抜いた。骨が軋む音と共に、猪口の顔が苦痛に歪む。


「ぐ、あぁっ……!? 腕が……!?」


 猪口は悲鳴を上げた。手首の経絡を突かれたことで、彼の右腕は一瞬にして完全に麻痺し、指先の力が失われたのだ。握りしめられていた巨大な断骨大鋏が、その重みに耐えかねて手からこぼれ落ち、赤茶けた泥の中へと虚しく沈んでいった。


「おのれ……おのれぇ!」


 猪口は左手で麻痺した右腕を押さえ、泥まみれになりながら後退した。その瞳には、先ほどまでの傲慢さは消え失せ、底知れぬ恐怖が宿っている。鞘の打撃だけで、自身の無敵の武力を無力化されたのだ。


 しかし、十兵衛もまた、無傷ではいられなかった。

 経絡を一時的に酷使した代償として、彼の右手のひらに激しい激痛が走り抜けた。道着の袖から覗く彼の右手のひらは、炭のように真っ黒に変色し始めている。錆び刀の呪毒――「黒化(こっか)」の侵食が、この一戦によってまた微かに、しかし確実に広がったのだ。十兵衛は奥歯を噛み締め、その激痛を表情に出さず耐え忍んだ。


「う、動くな! 囲め! この浪人を叩き殺せ!」


 猪口が狂ったように叫ぶと、周囲に控えていた黒鉄衆の看守たちが、槍や太刀を構えて一斉に包囲網を狭めてきた。その数、十有余人。片腕に痛みを抱える十兵衛にとって、これ以上の戦闘継続は新太を守り抜く上で極めて危険だった。


「新太、掴まれ」


 十兵衛は左手で新太の小さな身体を強引に抱き上げると、懐から小さな煙硝玉を取り出し、泥濘の地面に向けて叩きつけた。


 ――ボンッ!


 激しい閃光と、視界を遮る濃い黒煙が辺り一面に立ち込める。看守たちが咳き込み、混乱する中、十兵衛は「雪隠れの歩法」の片鱗を見せ、音もなく霙の闇へと消え去った。


「追え! どこへ行った! あの不抜の浪人を絶対に逃がすな!」


 猪口の絶叫が、冷たい風に掻き消されていく。

 泥濘宿「日暮」に、新たなる血煙の復讐劇の幕開けを告げる霙が、ただ静かに降り続いていた。

HẾT CHƯƠNG

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