痛覚(つうかく)の檻(おり)を壊せ
死の質量が、頭上から降り注いでいた。
二百斤を超える黒鉄の重鉄球が空気を引き裂き、キィィンという耳鳴りのような高周波を放ちながら迫る。右腕は完全に砕け、だらりと垂れ下がっている。足元は底なしの泥濘。背後は有毒なガスが泡立つ「毒草の沼」の崖際。逃げ場など、最初からどこにも存在しなかった。
仮面の下で、新之助の瞳が狂気的な生存への執念で赤く燃え上がる。彼の左手が、白絹の衣服の最も深い内ポケットから引き抜いたのは、極細の銀針――裏路地のお綱から買い取った、禁忌の暗器「痛覚遮断の特製麻酔針」だった。
「おおおおおっ!」
喉が潰れ、地声すら出せない新之助の口から、獣のような掠れた呼気が漏れる。彼は躊躇うことなく、左手に持った銀針を自身の首裏、脳に最も近い経絡の要衝である「風府(ふうふ)」のツボに向けて深く突き刺した。
――チクリ、という微小な痛みの後、脳髄を氷水で直接洗われたかのような、凄まじい冷気が全身を駆け巡った。
瞬間、新之助の世界から「苦痛」という概念が物理的に消滅した。
砕けた右腕の骨が肉を突き破らんとする激痛も、鉄仮面の内側の針が皮膚を貫く不快感も、すべてが他人事のように遠ざかっていく。それだけではない。死への恐怖、名門への憎悪、焦燥といった感情までもが急速に凍りつき、彼の精神はただ生存のみを追求する冷酷な計算機へと変貌した。これこそが、お綱が警告した禁忌の肉体段階――「痛覚遮断・限界駆動」の起動だった。
「ハァッ!」
新之助は、脳天に迫る鉄球から逃げるのをやめた。それどころか、自ら一歩前へと踏み出したのだ。痛覚を失い、肉体のリミッターを強引に解除した「修羅肉身」の踏み込みは、常人の二倍の速度に達していた。
ドゴォォォン!
重鉄球が新之助の頭上をかすめ、背後の崖を直撃した。岩石が爆発するように粉砕され、鋭い石の破片が雨のように新之助の背中を打つ。肉が裂け、鮮血が白絹を赤く染めるが、新之助は眉一つ動かさない。痛まない肉体は、ただ淡々と前進を続ける。
骸骨鬼が、鉄鎖を引き戻そうと腕に力を込めた。その瞬間、新之助は信じがたい行動に出る。完全に骨折し、神経が死んでいるはずの右腕を強引に動かし、唸りを上げる鉄鎖をガシッと掴んだのだ。
メキメキ、グズグズと、新之助の右腕の骨が鎖の摩擦と引っ張る力によってさらに砕け、肉の中で異常な音を立てて擦れ合う。普通の人間なら、そのあまりの激痛で一瞬にしてショック死するほどの損傷。しかし、痛覚を檻の中に閉じ込めた新之助は、ただ冷徹な灰色の瞳で骸骨鬼を見つめ返した。
「な……何だとっ!?」
骸骨兜の奥で、骸骨鬼の赤い瞳が驚愕に見開かれた。どれほど肉体を痛めつけられても無表情で前進してくる鉄面の男。痛みを感じない肉体改造を受けた骸骨鬼自身が、目の前にいる「本物の怪物」の不気味さに、初めて本能的な恐怖を覚えたのだ。
恐怖に駆られた骸骨鬼は、力任せに鉄鎖を引き剥がそうと、大きく一歩後退した。その足元は、「毒草の沼」の淵に広がる、滑りやすい灰色の泥濘だった。
(――今だ)
新之助の「超感覚的観察」が、極限の集中の中で起動した。周囲の時間の流れが、ねっとりとしたスローモーションへと変化する。新之助の網膜に、骸骨鬼の右足が泥に深く沈み込み、その巨躯の重心がわずかに右後ろへと傾く光の軌跡が投影された。
新之助は左足の爪先に天息法の内力を集中させ、地面の泥を力強く蹴り上げた。有毒な毒草の泥が、骸骨兜の目のスリットに向けて弾丸のように飛び散る。
「グアッ!? 目が!」
毒泥が眼球に触れ、骸骨鬼が激痛に叫びながら顔を覆った。視界を失い、泥濘の中で巨躯が大きくよろめく。
新之助は、地面に転がっていた半壊の「白雷」の鞘を左手で掴み、それを近くの岩盤に突き刺して足場とした。痛覚を失った左足で鞘の頭を強く踏み締め、崖の縁を飛び越えるようにして骸骨鬼の死角へと跳んだ。
着地と同時に、新之助は骸骨鬼の背後に回り込む。そして、二百斤の鉄球を保持したままバランスを崩している大男の背中に、自身の全体重と、天息法によって爆発的に引き上げた左半身の全筋力を叩きつけた。
「沼に沈め、化け物め」
言葉にはならない掠れた吐息が、仮面のスリットから漏れる。物理的な質量と推進力が、よろめいていた骸骨鬼の背中を強く押し出した。
「う、おおおおおおっ!?」
骸骨鬼の巨躯が、崖の縁から滑り落ちた。その下は、底の見えない「毒草の沼」――触れるだけで皮膚を溶かし、一度落ちれば二度と這い上がれない死の泥沼だった。二百斤の重鉄球と重厚な鋼の甲冑が、骸骨鬼の体を底なしの泥の奥深くへと、容赦なく引きずり込んでいく。
ボコボコと不気味な泡が立ち上り、毒草の泥が骸骨兜を飲み込んでいく。骸骨鬼は泥を吐き出しながら藻掻いたが、もがけばもがくほど、泥はその巨躯を深く、深く吸い込んでいった。やがて、水面に浮いていた泡が静かに消え、渓谷に静寂が戻った。
骸骨鬼は、窒息死した。名門の美しい剣術ではなく、奴隷の泥臭い地形利用によって、物理的に圧殺されたのだ。
新之助は、崖の淵に膝を突いた。左手を震わせながら首裏に伸ばし、深く刺さっていた「特製麻酔針」を一気に引き抜いた。
――その瞬間、堰き止められていた痛みの奔流が、一狂いに脳髄へと逆流した。
「が、はっ……あ、ああああああああっ!」
新之助は地面に倒れ伏し、激しく身悶えした。痛覚遮断の代償は、あまりにも凄惨だった。リミッターを失って限界駆動した全身の毛細血管が次々と破裂し、白絹の剣士服の隙間から、赤い血が噴き出すように染み出していく。骨折した右腕からは、骨が肉を内側から削るような地獄の激痛が走り、内臓は仮面の毒の活性化によって沸騰した泥を流し込まれたように熱くのたうち回った。
喉の奥からどす黒い血が止めどなく溢れ、新之助は仮面の内側で血を吐きながら、意識の深淵へと真っ逆さまに落ちていった。
◇
どれほどの時間が流れただろうか。
新之助が目を覚ました時、鼻腔を突いたのは、白鷺城の絢爛豪華な香薬の匂いではなかった。埃っぽく、そしてひどく苦い、無数の薬草が混ざり合った泥臭い匂いだった。
「気がついたか、死に損ないの若旦那」
掠れた、しかし穏やかな声が聞こえた。新之助が薄く目を開けると、そこは丸太で組まれた素朴な隠れ家の中だった。目の前に立っていたのは、日焼けした素朴な肌に、薬草を入れる大きな籠を背負った青年――薬草の調合師、甚平(じんぺい)だった。
甚平は、土鍋で煮詰めたどす黒い液体を、木のお椀に注いで新之助の枕元に置いた。安価な雑草を煮詰めた栄養剤「百草液」だった。
「森の渓谷で血まみれになって倒れているお前を見つけたんだ。右腕の骨は完全に砕け、全身の経絡はまるで火傷をしたように腫れ上がっていた。普通の人間なら三回は死んでいる。お前の顔の鉄仮面を外して手当てしようとしたが……耳裏の仕掛けを見て、手を引いたよ。下手に触れば、お前が死ぬようになっていたからな」
甚平は新之助の正体について深く追及しようとはせず、ただの「重傷を負った患者」として扱っていた。新之助はだらりと動かない右腕を視線で確認し、左手で「百草液」の椀を掴んだ。ひどく苦く、喉を焼くような味がしたが、それを胃に流し込むと、暴走していた仮面の毒の熱感が、不思議と穏やかに鎮まっていくのを感じた。
名門の豪華な食事よりも、この泥臭い百草液こそが、今の新之助のボロボロの肉体を物理的に繋ぎ止めていた。
「……感謝する」
新之助が掠れた地声で呟いた時、隠れ家の扉が小さく叩かれた。入ってきたのは、太助から預かった極秘の伝言を持つ、下層の連絡員だった。連絡員は、新之助のボロボロの姿を見て息を呑み、震える声で告げた。
「若、若旦那様……大変です。城内で動きがありました。静香夫人が、若旦那様の『不自然な城外への外出』を完全に察知し、正体を暴くための罠を仕掛けています。現在、静香夫人自らが複数の長老衆を引き連れ、お体の怪我(骨折)を確認するため、白鷺城の大門の前で『若旦那の帰還』を直接待ち伏せしています……!」
新之助の仮面の下の瞳が、鋭く細められた。
右腕は完全に骨折し、衣服は返り血で真っ赤に染まっている。この状態で城門をくぐれば、静香夫人の目の前で「怪我」と「偽物」の事実が、一瞬にして暴かれることになる。絶体絶命の包囲網が、白鷺城の門前で、新之助の帰還を静かに待ち構えていた――。
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