鉄球(てっきゅう)の怪物
居館の奥、蝋燭の火が微かに揺れる暗室で、新之助は血を吐いていた。
鉄仮面の間隙から溢れ出た黒赤き鮮血が、白絹の寝着をじわじわと汚していく。黒川源内を金の力と身分の特権で退け、太助を救い出した代償は、あまりにも大きかった。喉の経絡は完全に引き裂かれ、呼吸をするたびに、喉の奥に熱く焼けた鉄を流し込まれたような激痛が走る。
「新之助、無理に喋るな」
闇の中から現れた権蔵が、冷たい水で濡らした布で新之助の口元を拭った。その横では、傷だらけの太助が、申し訳なさそうに、しかし狂信的な光を瞳に宿して新之助を見つめている。
「仮面の毒が、お前の体内で活性化し始めている。宗主の『清心丹』だけでは、もうこの毒の侵食を抑えきれん。喉の裂傷も重なり、内力の循環が完全に滞っている」
新之助は、仮面の下で荒い息を吐きながら、小さく頷いた。声が出ない。喉の筋肉が断裂しており、一言でも発すれば、喉笛が破裂して失血死するほどの状態だった。彼は震える左手で、懐から「奴隷の木札」を取り出し、それを強く握りしめた。手の平に食い込む木札の角が、死の恐怖に支配されかけた彼の脳を、冷徹な生存本能で叩き起こす。
(生き延びる……。あの傲慢な直系どもを、全員万剣洞の底へ叩き落とすまでは、絶対に死ねない)
新之助は、壁に掛けられた木板に、左手で炭を用いて「山」「薬草」と手短に書き記した。喉の治療と仮面の毒を一時的に和らげるには、城外の白鷺山に自生する特殊な生薬が必要だった。幸いにも、お駒がスープの蛇毒で顔をただれさせ、監視の目が一時的に緩んでいる今こそが、城外へ出る唯一の好機だった。
「わかった。お前が『狩猟』のために城外へ赴くという名目で、馬車を手配しよう」
権蔵は静かに頷き、馬車引きの伝吉に指示を出すために闇へと消えた。
数刻後。新之助は、白銀に輝く天剣宗の若旦那の正装を纏い、腰に名剣「白雷(はくらい)」を佩いて馬車に揺られていた。右肩の裂傷と喉の激痛を、天息法の呼吸で強引に抑え込みながら、彼は関所に到着した。
「若旦那様、これより白鷺山の裏手へ狩猟に赴かれます!」
伝吉の傲然たる声に、関所の衛兵たちは一斉に平伏した。新之助は馬車の窓から、無言のまま「宗主の割符」を提示した。真鍮の冷たい輝きを見た衛兵頭は、一切の不審を抱くことなく、重い鉄の門を開け放った。身分という名の絶対的な盾が、新之助を白鷺城という美しい監獄から、一時的に解放したのだ。
馬車が白鷺山の鬱蒼とした森の入り口に到着すると、新之助は伝吉と権蔵をその場に待たせ、一人で深い山林へと足を踏み入れた。森の冷たい空気が、仮面のスリットを通じて彼の熱い皮膚を撫でる。彼は、喉の消炎に効く薬草を探し、崖の死角となる険しい渓谷へと歩みを進めた。
だが、新之助が渓谷の奥深くへと入り込んだその瞬間、周囲の空気が一変した。
森の鳥たちの囀りが、突如として途絶えた。風が止み、不気味なほどの静寂が渓谷を支配する。新之助の背筋に、奴隷時代に培われた、死線を察知する野生の直感が冷たい電流となって走った。
(――待ち伏せか!?)
退路を断つように、渓谷の入り口の崖の上から、不気味な黒い影が音もなく降り立つ。影魔門の暗殺隊長、影山宗厳の配下たち。黒川源内が、静香夫人と結託して放った刺客たちだった。源内は、若旦那が太助を救うために見せた不自然な動きから、彼を城外で「事故」に見せかけて物理的に排除する計画を、冷酷に実行に移したのだ。
だが、新之助の前に現れたのは、通常の暗殺者ではなかった。
ズシン……、ズシン……。
渓谷の奥から、大地の骨を揺らすような、重苦しい足音が響いてきた。引きずられるようにして、ジャリ、ジャリと金属が擦れ合う不気味な音が石壁に反響する。
新之助が仮面の下の目を凝らすと、そこには人間離れした巨躯がそびえ立っていた。身長は二メートルを遥かに超え、全身が鋼のように黒く光る筋肉で覆われている。顔面には、人間の頭蓋骨を模した不気味な鉄の兜「骸骨兜」を被り、その奥から飢えた野獣のような赤い瞳が光っている。
男の名は、骸骨鬼(がいこつき)。影魔門が誇る、痛みを感じない肉体改造を施された、怪力無双の狂戦士だった。
骸骨鬼の太い右腕には、太い鉄鎖が幾重にも巻き付けられており、その先には、大人の頭部よりも巨大な、無数の鋭い棘が仕込まれた黒鉄の重鉄球が繋がれていた。その質量は、優に二百斤を超える。
「ガハハハハ……! 天剣宗のひ弱な若旦那、榊龍之介だな。お前がここを墓場に選んでくれたお陰で、手間が省けたぞ」
骸骨鬼の地鳴りのような声が、渓谷の石壁を震わせた。新之助は無言のまま、白銀に輝く名剣「白雷」を抜いた。だが、彼の右腕は連日の酷使と喉の激痛により、白雷の軽すぎる重心を支えることすら困難だった。
「死ね、名門の寄生虫め!」
骸骨鬼が、鉄鎖を凄まじい速度で振り回した。頭上で唸りを上げる二百斤の重鉄球が、空気を引き裂き、キィィンという高周波の重低音を響かせる。
ドゴォォォン!
骸骨鬼が放った最初の一撃が、新之助の足元の地面を直撃した。巨大な岩石が、まるで熟した瓜のように一瞬で粉砕され、四方に鋭い石の破片が弾け飛ぶ。新之助は「天息法」の呼気を爆発させ、紙一重で横に跳んで回避したが、爆風と石の破片が彼の衣服を切り裂いた。
正面からまともに受ければ、肉体が一瞬で肉塊に変えられる。新之助は、天一剣法の美しい型を装いながら、神速の刺突「白露一閃(はくろいっせん)」を繰り出した。白銀の刃が、一筋の雷光となって骸骨鬼の無防備な首元へと一直線に突き刺さる。
キィィン!
しかし、響いたのは肉を貫く音ではなく、硬い鋼鉄同士が衝突したかのような、甲高い金属音だった。白雷の刃先は、骸骨鬼の皮膚の表面で虚しく滑り、一滴の血すら流させることができなかった。骸骨鬼の「金剛不壊身(こんごうふかいしん)」――骨肉改造法によって鍛え上げられた筋肉は、名門の華奢な剣撃を完全に弾き返したのだ。
「ガハハ! 蚊が刺したほどの痛みもないわ!」
骸骨鬼が狂暴に笑い、右腕を大きく薙ぎ払った。戻ってきた重鉄球が、新之助の胴体を目がけて横一文字に迫る。
狭い渓谷の通路では、左右に回避するスペースがない。新之助は、本能的に「白雷」を盾の構えにして、鉄球の軌道を逸らそうとした。黒澤から学んだ「逆境剣の理」の上半身の連動を使い、剣の平で衝撃を受け流そうとしたのだ。
だが、二百斤の物理的質量は、新之助の予想を遥かに超えていた。
激突の瞬間、名剣「白雷」の美しい白銀の刀身が、ぐにゃりと不自然な crescent(三日月)の形にひん曲がった。衝撃は受け流されることなく、白雷の柄を通じて新之助の右腕へとダイレクトに伝わった。
――メキメキ、と不気味な骨折音が、仮面の内側の新之助の耳に響いた。
「ぐ、あああっ……!」
新之助は、仮面の下で血を吐きながら後方へと吹き飛ばされた。彼の右腕の筋肉は激しく断裂し、前腕の骨には微細なひび割れが走り、骨折寸前の状態でだらりと垂れ下がった。激痛が脳を焼き、白雷は手から滑り落ちて石畳の上に転がった。
新之助は必死に「超感覚的観察」を起動しようとした。骸骨鬼の関節の動きや、鉄球を操る気の流れを先読みしようと、瞳孔を限界まで開く。だが、骸骨鬼が再び鉄球を振り回したことで生じた、凄まじい砂嵐と突風が、仮面の狭いスリットから新之助の目を執拗に刺激した。埃と風圧により、視界が涙と砂で霞み、敵の気の流れを捉えることができない。
「これで終わりだ、若旦那!」
骸骨鬼が突進してきた。その巨大な足跡が地面の泥を深く抉る。男は二百斤の棘付き鉄球を、上空高くへと放り投げ、新之助の脳天に向けて真っ直ぐに振り下ろそうとした。
新之助は、だらりと垂れ下がった右腕を抱え、必死に後退した。しかし、彼の足元が、ぐにゃりと柔らかい泥に沈み込んだ。背後は、底の見えない深い崖。その下には、触れるだけで皮膚がただれ、吸い込むだけで肺が出血する有毒な「毒草の沼(どくそうのぬま)」が広がっていた。退路は完全に失われた。
上空から、唸りを上げて迫る巨大な黒い鉄球。その影が、新之助の鉄仮面を完全に覆い尽くしていく。死の風圧が、彼の頭蓋骨を物理的に押し潰そうとしていた。
右腕は動かない。武器は半壊。視野は泥と涙で遮られている。絶体絶命の、死の瞬間――。
新之助の仮面の下の瞳が、狂気的な生存への執念で赤く燃え上がった。彼の左手が、白絹の衣服の最も深い内ポケットへと滑り込む。
その指先が、冷たく、極めて細い一本の銀針に触れた。
裏路地のお綱から買い取った、脳の痛覚を経絡から物理的に完全に遮断する禁忌の暗器――「痛覚遮断の特製麻酔針」だった。
新之助は、自らの首裏の「風府(ふうふ)」のツボに向けて、その銀針を迷わず突き刺そうと、左手を振り上げた――。
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