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犬(いぬ)の檻(おり)

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静香夫人との朝食会を切り抜け、若旦那の居館に戻った新之助を待っていたのは、安息の時間ではなかった。


 居館の奥にある密室に滑り込んだ瞬間、新之助は鉄仮面の内側から溢れ出る血をシーツに吐き出した。喉の奥が焼け付くように熱い。静香夫人の仕掛けた「蛇毒」のスープを回避するため、お駒の顔面にぶちまけた代償は、彼の肉体に重くのしかかっていた。短時間で完璧な「榊龍之介」の声を維持し続けたことで、喉の経絡は引き裂かれ、呼吸をするたびに鉄の味が口内を満たす。


「……ごほっ、ごふっ……!」


 新之助は「天息法」の呼吸を必死に整えようとした。三回深く吸い、一回止め、極限まで吐き出す。肺腑を貫く痛みが、体内を循環する微弱な内力によって物理的に押さえ込まれていく。仮面の内側の針が食い込んだ耳裏の裂傷からも、じわじわと血が滴り落ちていた。新之助は衣服の襟を立て、その赤黒い染みを隠した。


 その時、密室の隠し扉が音もなく開き、老護衛の権蔵が血相を変えて入ってきた。普段は氷のように冷静な老剣士の目が、異様な緊迫感を帯びている。


「新之助、休んでいる暇はない。黒川源内が動いた」


 新之助は仮面の下の目を鋭く細めた。黒川源内――白鷺城の治安維持を一手に握る冷酷な武官であり、静香夫人の忠実な猟犬だ。お駒がスープの毒で顔をただれさせた直後のこの動き、偶然であるはずがない。


「源内が……何をした?」


 喉の激痛をこらえ、新之助は掠れた地声で問いかけた。


「奴隷部屋から太助を連行した。若旦那の居館から高価な銀器を盗み出したという、明らかな濡れ衣だ。今、源内は太助を鎖で引きずり、この居館の門前まで連れてきている」


 権蔵の言葉に、新之助の全身の血が逆流するような衝撃が走った。太助――新之助の唯一の親友であり、下層奴隷たちの情報を運んでくれる命綱だ。源内が太助を狙ったのは、若旦那の周囲にいる「ネズミ(連絡員)」を炙り出し、新之助の正体を暴くための冷酷な餌だった。


「奴隷への同情を少しでも見せれば、その瞬間に源内はお前が偽物だと確信し、宗主に報告するだろう。だが、太助が拷問にかければ、すべての情報が漏れる。新之助、どうする?」


 権蔵の問いは、死の宣告に等しかった。新之助は、仮面の下の衣の奥にある「奴隷の木札」を強く握りしめた。木札の角が手の平に食い込み、激しい痛みが彼の脳を冷徹に呼び覚ます。


(誇りは犬に食わせろ。勝てば手段はどうでもいい。太助を救うには、私が『本物の怪物』になるしかない)


 新之助は立ち上がり、腰元に天剣「白雷」を佩いた。そして、金庫の奥から、本物の龍之介が残していった「朝廷の隠し小判」が詰まった重い革袋を掴み、懐にねじ込んだ。


「……行くぞ、権蔵。若旦那の庭を荒らす犬に、躾をしてやらねばならん」


 喉の内力を強引に締め上げ、龍之介の傲慢な声を脳内で再生する。新之助は一歩も乱れぬ足取りで、居館の門へと向かった。


 居館の重い鉄の門の前には、松明を手にした治安部隊の衛兵たちがひしめき合っていた。その中央で、太助が冷たい石畳の上に四つん這いにされ、太い鉄鎖で首を繋がれていた。全身はすでに殴打による青あざと血にまみれ、息も絶え絶えだった。


 その前に立ちはだかるのは、鉄黒の重厚な甲冑を纏った大番頭、黒川源内だ。その厳つい顔には、薄汚い獲物をいたぶる冷酷な愉悦が浮かんでいる。


「白鷺城の掟を破り、若旦那様の高貴な居館に泥を塗ったネズミめ。その薄汚い指を、一本ずつ叩き潰してやろう」


 源内が、棘の仕込まれた拷問用の重い鞭を天高く振り上げた。太助は恐怖に身を縮め、固く目を閉じた。鞭が空気を引き裂き、太助の背中に振り下ろされようとした――。


 その瞬間、ギィィ、と居館の巨大な門が開き、白銀の衣服を纏った鉄面の男が、傲然たる足取りで現れた。


「――私の庭で、誰が犬の鳴き声を響かせてよいと言った?」


 響き渡ったのは、本物の龍之介そのものの、周囲を虫ケラのように見下す神経質な高音だった。声帯模写「若旦那の叱責」――その圧倒的な階級的威圧感に、衛兵たちの動きが一瞬で凍りついた。


 源内は振り上げた鞭を止め、仮面を嵌めた新之助を冷たい目で見つめた。恭しく頭を下げるが、その目の奥には隠しきれない猜疑の光が宿っている。


「これは若旦那様。お体に障る中、お手を煩わせてしまい申し訳ございません。この薄汚い奴隷が、貴方の居館から銀の杯を盗み出すのを発見いたしました。掟に従い、この場で処刑いたします」


 源内はそう言いながら、新之助の「仮面の下の視線」をじっと観察していた。奴隷に対する僅かな動揺、あるいは不自然な同情を、彼は見逃す気はなかった。


 新之助はゆっくりと歩み寄り、冷たい石畳の上に転がる太助を見下ろした。太助は血と泥にまみれた顔を上げ、仮面を見つめた。その瞳には、恐怖と、そして新之助を破滅させまいとする悲壮な覚悟が宿っていた。


(新之助……俺のことは気にするな。俺を殺せ)


 太助の無言の叫びが、新之助の胸を物理的に抉る。だが、新之助は仮面の下で冷酷に微笑み、太助の頭を白雷の鞘の先端で無慈悲に踏みつけた。


「汚いネズミめ。私の美しい敷地に、その汚い血を流すな」


 新之助の口から吐き出されたのは、親友を虫ケラ以下として扱う、冷酷非道な言葉だった。太助は苦痛に顔を歪め、呻き声を漏らした。権蔵は影でその様子を静かに見守り、源内の視線がどう動くかを監視していた。


 源内は若旦那の容赦のない態度に僅かに眉を動かしたが、すぐに笑みを深めた。


「さすがは若旦那様。では、この場でこのネズミの指をすべて叩き潰し、見せしめといたしましょう」


 源内が再び鞭を握り直し、太助の細い指先を狙って振り下ろそうとした。その刹那、新之助は一歩前に踏み出し、天剣「白雷」の鞘を強硬に突き出した。


 バシィィン! と激しい金属音が響き、源内の鞭が白雷の鞘によって軌道を逸らされ、石畳を虚しく叩いた。


「なっ……!?」


 源内の目が驚愕に揺れ、衛兵たちが一斉にざわめいた。源内は姿勢を正し、新之助を睨みつけた。


「若旦那様、これはどういう御意でしょうか? 宗主の規律に基づき、窃盗を働いた奴隷は厳罰に処さねばなりません」


「規律だと?」


 新之助は白雷を静かに引き戻し、源内の喉元に鞘の先端を向けた。仮面の間隙から放たれるのは、奴隷としての怨念を若旦那の傲慢さで包み隠した、どす黒い殺気だった。


「黒川源内。お前はいつから、私の所有物を勝手に処分できるほど偉くなったのだ?」


「何……?」


「この奴隷が盗んだという銀器は私のものだ。そして、この汚い奴隷自身の命も、私の居館の所有物だ。私の屋敷の犬が、私の骨を齧ったとして、それを叩き殺すか生かすかを決めるのは、この私だ。お前のような門番風情が、私の許可なく私の家具を壊すな」


 名門の支配階級にとって、奴隷は人間ではなく「家具」や「家畜」に過ぎない。新之助はその歪んだ血統主義の論理を完璧に逆用したのだ。太助を「人間」として救うのではなく、「若旦那の所有物」として強奪する――それこそが、源内に正体を疑わせずに太助を救う唯一の道だった。


 源内の顔が、屈辱と怒りで赤黒く染まっていく。彼は一歩も引かず、腰の長刀に手をかけた。


「若旦那様、これは宗主・榊宗十郎様の直轄の治安権限でございます。いくら次期宗主であっても、規律を曲げることは許されません」


「ならば、今すぐここで私の剣を受けてみるか?」


 新之助は「声帯模写」を限界まで締め上げ、喉から血を滴らせながら、さらに傲然と言い放った。


「私がこの城の次期支配者だ。規律を語る前に、お前の首が飛ぶぞ」


 一触即発の沈黙が門前を支配した。衛兵たちの手が武器の柄にかかる。その緊張の隙間を突くように、新之助は懐から重い革袋を取り出し、源内の足元に向けて放り投げた。


 ズシリ、と重い金属音が響き、袋の口から朝廷の刻印が入った純金小判が数枚、石畳の上に転がり出た。


「私の逃げた犬を捕まえてくれた手間賃だ。源内、その部下どもに美味い酒でも奢ってやれ。そして、そのネズミの鎖を今すぐ私に渡せ」


 源内の部下たちの目が、金色の輝きに物理的に吸い寄せられた。朝廷の高級小判は、彼らの数年分の俸給に匹敵する。新之助は「龍之介の隠し小判」を用い、源内の足元の結束を金で切り裂いたのだ。


 源内は部下たちの揺らぐ気配を察知し、激しい屈辱に唇を噛み切った。若旦那の「身分を盾にした強引なやり方」と「圧倒的な資金力」の前に、これ以上強硬姿勢を貫けば、部下たちの離反を招く。彼はゆっくりと手を刀から離し、不気味な笑みを浮かべた。


「……若旦那様がそこまでそのネズミを可愛がりたいとおっしゃるなら、お譲りいたしましょう。ですが、城内の規律を乱す家具は、いずれ自壊するものでございますよ」


 源内は太助の首に繋がれた鉄鎖を新之助の足元に投げ捨て、部下たちを引き連れて闇の中へと去っていった。


 衛兵たちの足音が遠ざかった瞬間、新之助は喉から込み上げる血を仮面の中で静かに飲み下した。右肩の傷が開き、全身が激しく震える。しかし、彼は傲慢な態度を崩さず、権蔵に命じた。


「そのネズミを中に引きずり込め。私の手で、二度と動けぬように痛めつけてやる」


 太助を居館の奥へと運び込み、扉を閉めた瞬間、新之助は糸が切れたようにその場に倒れ伏した。仮面のスリットから滴る鮮血が、冷たい床を汚していく。太助は涙を流しながら、新之助の体をその血に汚れた手で抱きしめた。


「新之助……すまない、俺のせいで……」


 新之助は、かすれる喉で、しかし奴隷としての不屈の笑みを浮かべて囁いた。


「……泣くな、太助。これで、お前は私の居館の『公式な奴隷』となった。源内の目は、もうお前の部屋には届かない」


 太助を救い出すことには成功した。しかし、黒川源内が受けた屈辱は、静香夫人との結託を加速させ、新之助を物理的に排除するためのより巨大な闇の罠となって、再び彼の首元へと迫ろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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