毒には毒を
白鷺城の東翼、夜明け前の薄闇に包まれた若旦那の居館。新之助は、滑り込んだ寝室の窓枠を左手で静かに閉めた。
泥と血の匂いが漂う衣服を脱ぎ捨てる間すらなかった。気配を感じて振り返った瞬間、仮面の細いスリットの向こうで、心臓が凍りつくような光景が飛び込んできた。
「おかえりなさいませ、若旦那様。このような夜更けに、どちらへ行かれていたのですか?」
暗闇の中、行灯の微かな灯りに照らされて立っていたのは、侍女のお駒だった。その口元には、獲物を追い詰めた毒蛇のような不気味な笑みが浮かんでいる。彼女の目は、新之助の乱れた息や、衣の裾に付着した剣塚の谷の湿った泥を執拗に観察していた。
新之助は仮面の下で冷や汗を流しながらも、瞬時に「天息法」の呼吸を起動した。三回深く吸い、一回止め、極限まで吐き出す――。肺腑を貫く痛みが気の循環によって物理的に押さえ込まれ、乱れていた呼吸が劇的に静まる。右肩の裂傷が引き裂かれるような痛みを精神力でねじ伏せ、新之助は喉の奥の筋肉を緊張させた。本物の龍之介の、あの傲慢で他者を見下す高慢な声帯を模倣する。
「気安く私の寝室に踏み込むな、身の程を知れ」
冷酷極まりない、少し高めの声が響いた。喉の経絡が焼け付くように痛んだが、仮面の下の表情は鉄の鬼瓦に遮られて見えない。
「……これは失礼いたしました」
お駒は一瞬だけ目を細めたが、すぐに恭しく頭を下げた。しかし、その視線は新之助の右肩の不自然な硬さに向けられたままだ。
「静香夫人より伝言がございます。今朝は日の出と共に、夫人の居室にて朝食会を催すとのこと。若旦那様のお好きな『蛇スープ』をご用意してお待ちしております、と」
「……下がれ。身支度を整えたら行く」
お駒が音もなく部屋を去った後、新之助は寝台の縁に崩れ落ちた。喉から込み上げる血を、白い絹の袖で強引に拭い去る。深夜の特訓による疲弊と、喉の経絡の断裂は想像以上に深刻だった。影から現れた権蔵が、新之助の肩に手を置く。
「罠だ。静香夫人はお前の喉の異変を察知し、直接揺さぶりをかける気だ。あの蛇スープには、間違いなく仮面の毒を暴発させる『蛇毒』が仕込まれている」
「わかっている……」
新之助は「奴隷の木札」を衣の奥で強く握りしめた。死んでたまるか。奴隷として使い捨てられる運命をひっくり返すには、この見えない死神を逆手に取るしかない。
朝日が白亜の城壁を白々と照らし出す頃、新之助は若旦那としての豪華な白絹の剣士服を纏い、静香夫人の居室へと向かった。廊下の角を曲がった時、厨房からの荷を運ぶ奴隷たちとすれ違う。
その中の一人、恰幅の良い大柄な男――厨房の協力者である弥吉が、新之助とすれ違う瞬間に、右手の親指で自身の首筋を鋭く引っ掻く仕草をした。それは事前に決めていた極秘の合図だった。
(首筋を引っ掻く――『黒斑蛇の毒』。やはり、スープに仕込まれているな)
新之助は仮面の下で目を冷たく光らせ、静香夫人の部屋の重い扉を開けた。
部屋の奥には、氷のように冷たい美貌を持つ静香夫人が、白藍の豪華な小袖を纏って優雅に座っていた。その傍らには、すでに毒スープの器を手にしたお駒が控えている。
「よく来ましたね、龍之介。最近は部屋に引きこもってばかりで、母は心配していましたよ」
静香夫人は優しく微笑んだが、その瞳の奥には冷徹な光が宿っている。新之助は完璧な傲慢さを装い、椅子の背もたれに深く寄りかかった。
「内功の調整に忙しいのです。くだらぬ心配など無用」
お駒が音もなく近づき、新之助の前に湯気の立ち上る蛇スープを置いた。独特の生臭い香りが漂う。その横に、毒見役の少女・お蘭が静かに控えた。
「さあ、お蘭。毒見を」
お駒の促しに応じ、お蘭が銀の箸をスープに浸した。銀は変色しない。静香夫人の蛇毒は、銀には反応せず、鉄仮面の毒と合わさることで初めて致命的な劇薬となる特殊な変異毒だからだ。お蘭は儀式的にスープを微量だけ舌に乗せた。
その瞬間、お蘭の左の瞼が微かに二回、痙攣するように動いた。事前に新之助に与えられた解毒丸のおかげで即死は免れているものの、彼女の舌は激しく痺れているはずだった。お蘭は僅かに顔を曇らせ、新之助に「死の警告」を送った。
「毒はございません、若旦那様」
お蘭は声を震わせるのを必死に堪えて一歩下がった。お駒がすかさずスープの器を新之助の目の前へと押し出す。
「若旦那様、どうぞ。温かいうちに召し上がりなさい」
静香夫人の扇を持つ手が、微かに緊張で強張るのを、新之助の「超感覚的観察」は見逃さなかった。お駒の手も、僅かに震えている。飲めば、仮面の内側の針から毒が全身を駆け巡り、数日のうちに廃人となって死ぬ。拒絶すれば、毒の存在を知っていた=偽物であると看破される。
新之助はゆっくりとスープの器を両手で持ち上げた。静香とお駒の視線が、鉄仮面の間隙に集中する。
器を口元へと運ぶ。あと数寸――。
その瞬間、新之助は喉の内力を爆発させ、龍之介の神経質な声で激昂した。
「――味が薄い! 冷めているではないか!」
新之助は立ち上がり、手にした器を全力でお駒の顔面に向けて投げつけた。
「熱いスープ」であるはずのものを「冷めている」と理不尽に罵倒する――それこそが、我が儘で暴虐な若旦那としての完璧な隠蔽行動だった。
ガシャァァン! と陶器が砕け散る激しい音が響き、沸騰寸前の熱い蛇スープがお駒の顔面と首筋に容赦なくぶちまけられた。
「ぎゃああああああっ!?」
お駒が悲鳴を上げて床に転がり、顔を両手で覆った。単なる熱さによる火傷ではない。スープに仕込まれていた高濃度の「蛇毒」が、彼女の皮膚の細胞を物理的に破壊し、みるみるうちに赤黒い水泡とただれを形成していく。毒の腐食性が、衆目の前で証明された瞬間だった。
「このような残飯を私に出すとは、居館の使用人は全員死にたいのか!」
新之助は机を激しく叩き、お駒を見下して怒鳴り散らした。暴れる演技の衝撃で、仮面の内側の針が耳裏に深く食い込み、激痛と共に出血する感覚があったが、彼はそれを「天息法」で完全に抑え込んだ。
「お、お駒……!」
静香夫人は立ち上がり、顔色を劇的に変えてただれゆくお駒を見つめた。しかし、彼女は「スープに毒が入っていた」と口にすることはできない。それを認めれば、自身が息子を暗殺しようとした大罪人になるからだ。
「不愉快だ。私は部屋に戻る。二度とこのような不潔な料理を私の前に出すな」
新之助は踵を返し、一歩も乱れぬ足取りで部屋を後にした。背後では、お駒の悲痛な絶叫と、静香夫人の氷のように冷たい、そして深い猜疑に満ちた沈黙が残されていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!