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息吹(いぶき)と執念

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「いいだろう、新之助。今夜から、お前が眠る時間は失われたと思え。死ぬ気で、その木刀を握れ」


 老剣士・黒澤の低く掠れた声が、湿った霧を切り裂いて響いた。車椅子の車輪が冷たい泥を踏み締める音が、剣塚の谷に不気味な余韻を残す。


 新之助は泥まみれの地面から、投げ渡された重い木刀を拾い上げた。いや、それは木刀というにはあまりに無骨で、ただの平たい鉄の塊に近い代物だった。ずしりとした質量が、骸骨鬼との死闘で痛めた右肩の傷に鋭い痛みを走らせる。鉄仮面の内側では、耳裏に食い込んだ細い針から、じわじわと遅効性の毒が経絡へと浸透し、頭痛が絶え間なく新之助の思考をかき乱していた。


「……はぁ、はぁ……」


 仮面のスリットから吐き出される息は白く、そして血の味が混ざっていた。喉の奥は、昼間にお駒の前で「若旦那の傲慢な声」を演じるために声帯模写を酷使したせいで、まるで熱した炭を飲み込んだかのように焼け付いている。地声で話すことすら、今の彼には耐え難い苦痛だった。


「天剣宗の『天一剣法』は、直線的で優美な刺突を極意とする。だがな、新之助。そんなお上品な踊りは、内力という本物の『息吹』がなければ、ただの木人形の戯れに過ぎん。そして、その息吹を司るのが――天息法だ」


 黒澤は懐から、どす黒い一本の香木を取り出し、車椅子の脇に突き刺した。火が灯されると、不気味な紫色の煙が立ち上り、谷の死臭を塗りつぶすように重苦しい香りが辺りに広がった。天息香。肺の限界を広げ、内力の循環を通常の三倍に引き上げるための修練用香木だが、その実態は劇薬に近かった。


「吸え。肺腑が焼き切れるまで吸い込み、体内の気を巡らせろ」


 新之助は言われるがまま、紫色の煙を深く吸い込んだ。次の瞬間、肺の奥で爆発が起きたかのような激痛が走った。


「ごほっ……! がはっ……!」


 新之助は激しく咳き込み、その場に崩れ落ちた。仮面の間隙からどす黒い血が溢れ、泥に染まる。天息香の強烈な薬効が、鉄仮面から注入され続けている遅効性の熱毒と経絡の中で衝突し、体内の気が暴走を始めたのだ。心臓が太鼓のように乱打し、全身の血管が引き裂かれるような熱痛が走る。視界が急速に暗転していく。


「無様だな。その程度でへばるなら、今すぐその仮面を外して死ね。用済みになれば万剣洞に捨てられるだけの影武者だ、ここで果てるのもお似合いだ」


 黒澤の冷酷な罵声が、遠のく意識の向こうから聞こえた。その言葉が、新之助の胸の奥にある「奴隷の木札」の記憶を呼び覚ます。理不尽に処刑された父、龍之介の癇癪の身代わりにされて殺された姉。ここで死ねば、自分はただの「榊龍之介の肉の盾」として闇に消えるだけだ。そんなことは絶対に許さない。


「呼吸を止めるな! 毒を気の循環に巻き込め! 痛みを敵と見なし、経絡をねじ伏せろ!」


 黒澤の一喝。新之助は泥に爪を立て、薄れゆく意識を強引に引き戻した。彼の唯一の武器である「超感覚的観察」が、死線の恐怖によって強制的に起動した。視界が、異様な静寂を伴ってスローモーションへと歪む。


 新之助は、車椅子に座る黒澤を凝視した。老人の喉の筋肉の微細な収縮、呼吸に伴う胸の上下運動、そして肩甲骨から指先へと流れる気の脈動。それらが光の線となって、新之助の網膜に解剖図のように投影される。


(――呼吸のテンポが違う。三回吸って、一回止め、極限まで吐き出す。あの老人の喉の奥は、暴走する気をその呼吸で物理的に制御している!)


 新之助は自身の喉の筋肉を「超感覚的観察」で得た黒澤の動きと同調させた。経絡緊縮法を用いて、心臓に近いツボを強引に圧迫し、血流を遅くする。そして、天息香の煙を、黒澤と全く同じ変則的な呼吸周期で肺へと送り込んだ。


 肺を焼き切るようだった熱痛が、一瞬にして冷ややかな感覚へと変化した。暴走していた熱毒が、天息法の呼吸循環に巻き込まれ、一本の濁った川のように経絡を流れ始める。痛みの伝達経路が、気の流れによって物理的に遮断されたのだ。


「……ふぅ、はぁ……」


 新之助は、泥まみれの地面からゆっくりと立ち上がった。その手には、黒澤の折れた無銘刀が握られている。重心が極端に先端に偏ったその重い刃を、新之助は両手で構えた。天息法の気の循環が、彼の細身の腕に、奴隷時代の労働以上の強靭な力を与えていた。


 新之助は、無銘刀を上段から一気に振り下ろした。ただの素振り。しかし、その軌道はこれまでの無様な雑兵のそれとは一線を画していた。風を切り裂く鋭い音が谷底に響き渡る。


 その瞬間、無銘刀の折れた刃先から、陽炎のような微かな「白い気」が、陽光に照らされた霜のように立ち上った。初めて顕現した内力――剣気初顕の兆候だった。


 それを見た黒澤の濁った両瞳が、驚愕によって大きく見開かれた。車椅子の肘掛けを握る老人の手が、微かに震えていた。


「……一晩で天息法の基礎を掴み、剣気の端緒を顕したか。血統という虚飾を持たぬ泥の中のネズミが、まさかこれほどの速度で私の息吹を盗むとはな」


 黒澤は不敵に笑い、再び車椅子を暗闇へと進めた。新之助は、仮面の下で荒い息を吐きながら、自身の手に宿る「本物の力」の感触を噛み締めていた。これがあれば、生き延びられる。天剣宗を内側から喰らい尽くすための牙が、今、確かに形作られようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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