剣塚(けんづか)の師徒
お駒の差し出した蜂蜜の麦菓子。その甘い香りが、新之助の仮面のスリットを抜けて、血の味のする口腔を刺激した。
「若旦那様、お疲れの脳には、やはり幼少期からお好みの、この蜂蜜を塗った麦菓子が一番でございます。さあ、どうぞ温かいうちにお召し上がりくださいませ」
お駒の細い目が、仮面の隙間から覗く新之助の瞳をじっと凝視している。その視線は、獲物の息の根を止める機会を窺う毒蛇のそれだった。
新之助の脳裏に、権蔵から叩き込まれた榊龍之介の過去の記録が、凄まじい速度で蘇る。
(――龍之介は、甘い菓子が大嫌いだ。だが、母である静香夫人の前では『好物』として無理に口にしていた。しかし、身分の低い使用人がこれを出した時、あの傲慢な男はどうした……?)
喉の奥が声帯模写の負荷で焼け付くように痛む。一瞬の躊躇も、一呼吸の乱れも許されない。新之助は、仮面の下で冷酷に口元を歪め、体内の内力を喉の経絡へと強引に送り込んだ。
「――誰が、このような下賤な泥を私の前に出せと言った!」
高く、神経質で、他者を見下しきった榊龍之介の声。完璧な「声帯模写『若旦那の叱責』」だった。
次の瞬間、新之助は左手を乱暴に振り払った。ガシャァン! という激しい音と共に、漆塗りの皿が床に叩きつけられ、蜂蜜の塗られた麦菓子が寝室の畳の上に無残に飛び散る。蜂蜜の甘い匂いが、飛び散った泥のように床を満たした。
「若旦那、様……?」
お駒の目に、明らかな動揺が走った。新之助はベッドから立ち上がり、顎を傲然と上げ、お駒を虫ケラのように見下ろした。
「私の喉が掠れているからと、舐めた真似をするな。このような泥臭い菓子を私に食わせ、嘲笑う気か? 静香の犬め、お前たちの浅薄な魂胆など、すべて見透かしている。今すぐその汚い手で床を這い、それを片付けて失せろ。さもなくば、その両腕を叩き切って犬の餌にしてやる!」
理不尽極まりない暴虐。だが、それこそが本物の榊龍之介の、身分の低い者に対する「日常」だった。お駒は新之助の放つ圧倒的な「若旦那としての威圧」に気圧され、青ざめた顔で床に膝を突いた。
「も、申し訳ございません、若旦那様! 私の不調法でございました!」
お駒は震える手で飛び散った菓子を拾い集めると、逃げるように寝室から退散していった。襖が閉まる音を聞いた瞬間、新之助は膝の力が抜け、ベッドの縁にしがみつくようにして崩れ落ちた。
「ごほっ、ごふっ……!」
仮面の下から、どす黒い血が溢れ出し、寝着の白絹を汚した。喉の筋肉を針で刺されたような激痛が走り、呼吸をするたびに肺が焼き切れるような感覚に襲われる。影から音もなく現れた権蔵が、新之助の背中を支え、冷たい水を口元に運んだ。
「見事な演技だった。お駒の疑念は、お前の暴虐さによって一時的に押し流された。だが、彼女はすぐに静香夫人に報告するだろう。若旦那の声が掠れ、内功の調整に苦しんでいる、とな」
権蔵の目は冷徹だった。
「静香夫人は、お前が本物であれ偽物であれ、次の死闘を生き延びることを望んでいない。お前が力を得る前に、確実に毒殺するか、あるいは刺客を放つ。生き延びるためには、本物の『武功』が必要だ。だが、この城の道場で天一剣法を学べば、監視の十兵衛にすべての動きを把握される」
新之助は血を拭い、仮面越しに権蔵を見上げた。
「では、どこで学べばいい……? 私には時間がない。仮面の毒が、私の経絡を蝕み始めている」
「白鷺城の最下層、奴隷部屋の床下に、かつて城を築いた奴隷たちが掘った古い隠し通路がある。そこを通って城外へ脱出しろ。白鷺山の裏手、死体と壊れた剣が捨てられる禁地――『剣塚の谷』へ向かうのだ」
権蔵は、新之助の耳元で静かに囁いた。
「そこに、かつて天剣宗随一の剣客でありながら、宗主の陰謀によって両足を潰され、落ちぶれた老人がいる。名を黒澤という。あの男なら、お前に天剣宗を滅ぼすための『真の剣』を授けることができる。ただし、生きて戻れるかは、お前の執念次第だ」
新之助は、仮面の下の瞳に暗い炎を宿らせた。用済みになれば万剣洞で処分されるという「歴代影武者の処分史」を、彼は決して忘れていない。生き延びるためなら、地獄の底へでも這って行く。
深夜、新之助は「若旦那」の豪華な衣服を脱ぎ捨て、泥に汚れた奴隷時代の粗末な麻衣に身を包んだ。錆びた鬼の鉄仮面だけは、外そうとすれば毒針が脳を貫くため、そのまま頭を黒い布で覆って隠した。
居館の床裏にある秘密の脱出路を通り、新之助は白鷺城の最下層にある奴隷部屋へと潜入した。湿気と悪臭が立ち込める薄暗い石室では、かつての仲間たちが雑魚寝している。その片隅で、親友の太助が待っていた。
「新之助……本当に大丈夫なのか? 戻ってこられなくなったら……」
太助が震える手で、床板の瓦礫を取り除き、地下道の入り口を開ける。新之助は太助の肩を強く掴んだ。
「私は必ず這い上がる。太助、城内の噂を集め続けてくれ。お前の目が、私の命綱だ」
「ああ、死ぬなよ、新之助」
新之助は、狭く暗い「白鷺城の秘密地下道」へと身を滑らせた。崩落しかけた天井から冷たい泥水が滴り、右肩の裂傷を刺激する。仮面が岩肌に擦れるたびに、内側の針が耳裏の皮膚に食い込み、微量な毒が経絡に浸透して激しい眩暈を呼び起こした。だが、新之助は歯を食いしばり、闇の中を這い続けた。
どのくらいの時間が経っただろうか。息が詰まるような暗黒を抜けた先で、新之助は冷たい夜風を肌に感じた。
そこは、切り立った断崖に囲まれた深い谷底――「剣塚の谷」だった。
立ち込める濃い霧の向こうに、無数の錆びた刀剣が、墓標のように地面に突き刺さっている。かつて天剣宗の失敗作として捨てられた名剣の残骸、そして処刑された奴隷たちの死臭が、冷たい空気の中に混ざり合っていた。風が錆びた刃の間を吹き抜けるたびに、まるで死者たちの怨嗟のような、不気味な高周波の金属音が谷全体に響き渡る。
新之助は、右肩を庇いながら、壊れた剣の山を踏み越えて進んだ。その時、霧の奥から、キィ、キィ、という規則的な木の軋み音が聞こえてきた。
現れたのは、車椅子に座った一人の老人だった。
ボロボロの灰色の着物を羽織り、白髪は乱れ、両足は棒のように痩せ細っている。だが、車椅子を押すその手首の筋肉は、鋼のように強靭に引き締まっていた。何よりも、その濁った両瞳の奥に宿る眼光は、周囲の霧を切り裂くほどに鋭い。
天剣宗の失われた達人――黒澤だった。
「ふん……白鷺城のきらびやかな玉座にいるはずの若旦那が、このような死臭漂うゴミ溜めに何の用だ? 榊龍之介」
黒澤は車椅子を止め、新之助の鉄仮面を冷ややかに見据えた。その声には、氷のような冷笑と、榊家に対する底知れぬ憎悪が込められていた。
「足を潰された老いぼれを、さらに嘲笑いに来たか? それとも、宗主の犬として、私の首を獲りに来たか?」
新之助は、壊れた剣の山の上に両膝を突いた。錆びた刃が膝の皮膚を切り裂き、血が滲むが、彼は一歩も引かなかった。
「剣を、教えてくれ」
仮面の下から響いたのは、掠れた、しかし芯のある奴隷少年の地声だった。黒澤は眉を僅かに動かしたが、すぐに鼻で笑った。
「天剣宗の跡取りが、私のような廃人に頭を下げて剣を乞うだと? 笑わせるな。お前たちの高貴な血統には、私のような雑兵の剣など不釣り合いだ。さっさと城へ戻り、見栄えだけの美しい天一剣法を踊っているがいい」
「私は、龍之介ではない」
新之助は、頭の黒布を取り払い、錆びた鬼の鉄仮面を晒した。
「私は、あの臆病者の身代わりにされた奴隷だ。本物は、影魔門の襲撃に怯えて逃亡した。私は、生き延びるために鉄仮面を嵌められ、用済みになれば万剣洞の底へ捨てられる運命にある」
黒澤の目が、鋭く細められた。新之助は懐から、血と汗に汚れた「奴隷の木札」を取り出し、地面に叩きつけた。
「私の父は、この谷で死んだ! 私の姉も、あの男の癇癪の身代わりにされて殺された! 私は、榊宗十郎を、そして血統こそがすべてと宣う天剣宗のシステムを、心の底から憎んでいる! 奴らを滅ぼすための力を、私にくれ!」
新之助の叫びは、谷の強風にかき消されることなく、黒澤の胸に突き刺さった。老人の瞳に、かつて自身が両足を潰された瞬間の、理不尽な絶望と怒りの記憶が蘇る。
だが、黒澤は甘い男ではなかった。
「口先だけの怨嗟など、この谷には数万も転がっている。お前のその言葉が、本物かどうか……私の剣が確かめてやる」
次の瞬間、新之助の「超感覚的観察」が、極限の死の恐怖によって強制的に起動した。視界がスローモーションに歪む。
車椅子に座る黒澤の、右肩の筋肉が微かに収縮した。気の流れが、彼の車椅子の脇に置かれた一本の折れた刀――「黒澤の無銘刀」へと一瞬で集中する。
速い。両足が動かない老人とは、到底信じられない神速の抜刀だった。
キィィン! という、耳を劈くような鋭い金属音が谷に響き渡る。新之助の網膜には、白銀の光条が一筋走ったことしか捉えられなかった。風圧だけで、新之助の顔を覆う鉄仮面が物理的にギチリと軋み、頬の皮膚が僅かに裂けて血が滲む。
新之助は、一歩も動けなかった。ただ、冷たい鉄の感触が、自身の喉元にピタリと押し当てられているのを感じただけだった。
黒澤の錆びた無銘刀の先端が、新之助の喉元、皮膚が一厘裂けるかどうかの極限の位置で、微動だにせず静止していた。老人の車椅子からは、周囲の霧をすべて凍りつかせるような、圧倒的な「剣気」が放射されている。
新之助は、喉元に突きつけられた刃を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。喉仏が動くたびに、刃先が皮膚を擦り、鋭い痛みが走る。だが、彼の瞳からは、恐怖が消えていた。仮面の下の目は、ただ貪欲に、黒澤の「手首の角度」と「上半身の気の連動」を脳内で解剖し、その技術を盗み取ろうと注視していた。
黒澤は、新之助のその「牙を剥いた瞳」をじっと見つめた。そこには、死を前にした怯えなど微塵もなく、ただ不条理に対する底知れぬ怒りと、強者の技術を強奪しようとする、野獣のような執念だけが燃え盛っていた。
老剣客の口元が、ゆっくりと、不敵な笑みの形に歪んだ。
「……いい目だ。名門の温室で育った豚どもには、逆立ちしても持てん、泥濘を這いずり回る者だけの目だ」
黒澤は音もなく無銘刀を引き、鞘へと収めた。その動作には、一切の無駄がなかった。老人は車椅子の脇から、一本の重く不格好な「木刀」を拾い上げ、新之助の足元へと投げ捨てた。
「いいだろう、新之助。今夜から、お前が眠る時間は失われたと思え。死ぬ気で、その木刀を握れ」
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