白鷺城(しらさぎじょう)の操り人形
「殺すなら、殺せ……。だが、私はただでは死なんぞ……!」
断崖剣台に吹き荒れる暴風の中、血を吐きながらも、新之助は目の前に立つ老護衛、権蔵を睨み据えていた。仮面の下の衣の奥、左手で「奴隷の木札」を壊れんばかりに握りしめる。その尖った角を権蔵の頸動脈に突き刺す――それだけが、無武功の奴隷である彼に残された最後の牙だった。
権蔵の振り上げた刀が、冷たい陽光を浴びて白銀の弧を描く。新之助は反射的に目を瞑りかけたが、執念でそれを拒み、老人の冷徹な瞳を見つめ返した。
だが、刃は新之助の首を撥ねなかった。
風を切り裂いた刀身は、新之助の首元の一厘手前でピタリと止まり、そのまま音もなく鞘へと収められた。唖然とする新之助の仮面の間隙に、権蔵の骨張った指が容赦なく割り込んでくる。無理やり顎をこじ開けられ、冷たく苦い丸薬が喉の奥へと押し込まれた。
「……飲め。死にたくなければな」
低く、地鳴りのような老人の声。新之助は本能的にそれを飲み下した。瞬間、全身の血を沸騰させていた地獄のような熱痛が、潮が引くように収まっていく。経絡の奥で暴れていた血脈呪毒が、冷たい氷の障壁によって物理的に封じ込められたのだ。天剣宗主のみが調合できる延命薬――「清心丹」だった。
「なぜ、私を助ける……? 私は偽物だぞ。お前の主、龍之介ではない」
新之助は仮面の下から、掠れた地声で問いかけた。権蔵は立ち上がり、断崖の向こうに広がる白鷺城の白亜の威容を見つめながら、吐き捨てるように言った。
「知っている。本物の龍之介は、影魔門の襲撃に怯えて夜陰に紛れて逃亡した。あのような臆病な豚が、これほど泥臭く、執念深く戦えるはずがない。砂を投げ、関節を砕き、体当たりで敵を奈落へ落とすなど、名門の剣士のすることではないからな」
権蔵の目は、静かな憎悪に燃えていた。
「龍之介は、私の娘を殺した。ただの癇癪で、な……。宗主一族という『血統』の特権に守られ、私の愛する者を虫ケラのように踏み潰したのだ。私はあの男を、そして血統こそがすべてと宣う天剣宗の歪んだ秩序を、心の底から憎んでいる」
老護衛は新之助に向き直り、その胸元に手を差し伸べた。
「新之助、と言ったな。お前の瞳には、あの名門の連中が最も恐れる『泥濘の怨嗟』が宿っている。龍之介になりすませ。そして、あの傲慢な豚を永久に失脚させ、天剣宗を内側から喰らい尽くす操り人形になれ。お前が生き延びるための『清心丹』は、私が裏からいくらでも都合してやる」
それは、地獄の底で結ばれた、血よりも暗い共犯の盟約だった。新之助は、権蔵の手を強く握り返した。こうして、最下層の奴隷少年は、天剣宗の若旦那「榊龍之介」としての二重生活を開始することとなった。
白鷺城の東翼にそびえ立つ「若旦那の居館」は、金箔と白絹で飾られた、息を呑むほど豪華な邸宅だった。だが、新之助にとって、そこは絢爛豪華な檻に過ぎなかった。一歩足を踏み入れた瞬間から、皮膚が粟立つような冷たい視線を感じる。天井裏の闇、庭園の竹林の影――そこには、宗主・榊宗十郎が放った隠密「影法師の十兵衛」の目が常に光っているのだ。仮面を一瞬でも外せば、即座に舌を抜かれて処刑されるという鉄則が、新之助の脳裏に重くのしかかる。
「若旦那様、姿勢が崩れております。龍之介は、常に顎を上げ、周囲の人間を塵芥のように見下して歩くのです」
居館の密室で、権蔵による過酷な「若旦那の再現訓練」が行われていた。新之助は右肩の深い裂傷に耐えながら、白雷を腰に下げ、優雅だが傲慢な天一剣法の構えを何度も繰り返す。さらに過酷だったのは、「声帯模写」の訓練だった。
「喉の奥の、このツボに内力を集中させるのだ。龍之介の声は、少し高くて神経質、そして他者を威圧する響きを持っている」
権蔵の指示に従い、新之助は喉の筋肉を不自然に緊張させ、声帯を一時的に変形させる。内力を無理に喉の経絡に送り込むたびに、焼け付くような激痛が走り、のたうち回りながら「密室・解毒の間」の床に血を吐き散らした。だが、新之助は諦めなかった。血を拭い、喉を湿らせ、何度も「龍之介の声」を絞り出す。
「……これ、で……どう、だ……?」
仮面の下から響いたのは、本物の龍之介と寸分違わぬ、傲慢で冷酷な声質だった。権蔵は静かに頷いた。
「見事だ。だが、本当の戦いはこれからだ。宗主夫人・静香が放った監視の侍女、お駒がこの館に入り込んでいる。彼女は静香の忠実な猟犬だ。一瞬の呼吸の乱れ、言葉のイントネーションの違いも見逃さないだろう」
その言葉通り、夜が更けた頃、寝室の襖が静かに滑り開いた。
入ってきたのは、愛嬌のある丸顔に、細やかな気配りを見せる優秀な若い侍女――お駒だった。彼女の手には、湯気を立てる夜茶の盆が握られている。その足音は極めて軽く、不自然なほどに無音だった。軽功の基礎を収めている証拠だ。お駒の細い目の奥で、冷酷な光がギラリと揺らめいた。
「若旦那様、お疲れでございます。お夜食にお茶を淹れてまいりました」
お駒は恭しく一礼し、新之助のベッドの傍らへと近づく。彼女の視線は、新之助の顔を覆う鉄仮面に刻まれた、小次郎との死闘による新しい刀傷へと吸い寄せられていた。新之助はベッドに腰掛けたまま、喉の筋肉を極限まで緊張させ、内力を声帯に集中させた。
「……そこに置いて失せろ。私は今、内功の調整中だ。邪魔をするな」
少し高く、周囲を見下すような龍之介の声。完璧な「声帯模写『若旦那の叱責』」だった。だが、お駒は下がろうとせず、さらに一歩踏み込んできた。
「まあ、お声が少し掠れていらっしゃいますね。決闘での緊張が祟りましたか? それとも……何か、別の理由でもおありなのですか?」
お駒の言葉には、刃のような鋭い探りが込められていた。彼女は盆から、美しく盛り付けられた「甘い菓子」の皿を取り出し、新之助の目の前に差し出した。
「若旦那様、お疲れの脳には、やはり幼少期からお好みの、この蜂蜜を塗った麦菓子が一番でございます。さあ、どうぞ温かいうちにお召し上がりくださいませ」
新之助の脳裏に、権蔵から叩き込まれた龍之介の過去の記録が、スローモーションのように蘇る。
(――龍之介は、甘い菓子が大嫌いだ。だが、静香夫人の前では『好物』として振る舞っていた。しかし、身分の低い使用人がこれを出した時、龍之介はどうした……?)
お駒の細い目が、仮面のスリットから見える新之助の瞳をじっと凝視している。もしここで普通に受け取って食べれば、龍之介の「本性」と矛盾する。逆に、優しく「要らない」と断れば、傲慢な若旦那の品格が崩れ、お駒に「偽物」であるという確信を与えてしまう。
一歩間違えれば、即座に天井裏の十兵衛に首を撥ねられる、極限の尋問が始まった。新之助は、仮面の下で冷酷に口元を歪めた。
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