泥濘(でいねい)の初陣
死の深淵が、喉元に迫っていた。
断崖剣台(だんがいけんだい)を吹き抜ける強風が、切り裂かれた右肩の傷口を冷たく撫でる。影魔門(えいまもん)の刺客、影山小次郎(かげやまこじろう)が放つ第三撃。湾曲した毒刃の切っ先が、新之助の喉筋を一文字に切り裂くべく、冷酷極まりない軌道を描いて突き出されていた。
「死ね、榊家の血脈!」
小次郎の絶叫が、暴風の音に混じって耳朶を叩く。手にした名剣「白雷(はくらい)」は、内力を持たない新之助の手の中で無様に震え、ただの重い鉄の棒と化していた。現在、新之助の実力は「奴隷級・無武功」。毎日十二時間、鉱山で重い鶴嘴を振るってきた粗野な肉体はあっても、気の循環すら知らない彼が、一流の暗殺者の刃を正面から受け止めることなど、物理的に不可能だった。
背後は底の見えない奈落。一歩退けば、そのまま谷底へ落下して死ぬ。防げば、白雷ごと腕を叩き切られる。
その絶対的な死線の極限において、新之助の網膜の奥で、世界が完全に静止した。
いや、静止したのではない。脳裏を支配した死の恐怖が、彼の生存本能を限界まで引き絞り、時間の流れを極限まで引き延ばしたのだ。これこそが、彼が泥濘の中で生まれ持った唯一の異能――「超感覚的観察『死線スロー』」の覚醒だった。
耳元で唸りを上げていた風の音が、地を這うような低い唸りへと変わる。小次郎の踏み出した右足の親指が、石舞台の凹凸を捉えて僅かに沈み込む。その筋肉の収縮、重心が前方に傾く流れ、そして湾曲刀を持つ右肩の関節が内側へと絞られる軌道が、まるで水面に広がる波紋のように、新之助の網膜に光の線となって投影された。
(斜め下からの切り上げだ。天一剣法(てんいちけんぽう)の型では、防げない)
新之助の頭脳は、名門の美しい剣術を再現することを完全に放棄した。そんな虚飾、この極限状態では一銭の価値もない。「泥中生存の鉄則」――誇りは犬に食わせろ。勝てば手段はどうでもいい。死体は言い訳をしない。
新之助は、手にした名剣「白雷」を構え直すことすらせず、ただ泥のようにその場にしゃがみ込んだ。無様に、地を這うように、頭を石の床へと擦り付けるようにして右側へと転がり込む。
キィィン、と空気を切り裂く金属音が頭上で響いた。小次郎の刃が、新之助が先ほどまでいた空間を虚しく薙ぎ払う。白銀の剣士服の襟元が僅かにかすれ、冷たい風圧が鉄仮面を叩いた。
「なにっ……!?」
小次郎の目に、明らかな困惑が浮かんだ。天剣宗の若旦那、榊龍之介といえば、傲慢でプライドが高く、いかなる時も美しく正統な天一剣法の型で応じるはずだった。それが、犬のように地面を這い回る泥臭い回避を見せたのだ。その困惑による一瞬の硬直を、新之助は見逃さなかった。
転がった体勢のまま、新之助は左手を懐へと滑らせた。掴み出したのは、鍛冶場から密かに集めた鉄の削り屑と、薬草園の激辛唐辛子の粉を混ぜ合わせた「鉄砂の灰袋」である。
「泥中隠剣『砂塵目潰し』!」
新之助は、手の中で灰袋を力任せに握り潰し、小次郎の顔面に向けて全力で叩きつけた。破裂した薄い紙袋から、黒い鉄粉と赤い塵が爆発的に広がり、小次郎の視野を完全に覆う。
「ぐ、ああああっ!? 目が、目がアアッ!」
激痛と灼熱感に小次郎が絶叫し、両手で顔を覆う。その構えは完全に崩れ、足元が激しくふらついた。
新之助はその隙を逃さない。立ち上がる力をすべて左足に乗せ、手にした「白雷」の刃ではなく、その頑丈な「柄(つか)」を用いて、小次郎の右膝の皿を全力で強打した。鉱山労働で培われた粗野な腕力が、物理的な破壊力となって一点に集中する。
ゴキリ、と鈍い破砕音が響き、小次郎の膝が不自然な方向に折れ曲がった。
「がはっ……!」
体勢を完全に崩し、片膝を突いた小次郎の胸元に向けて、新之助は自らの体を弾丸のように投げ出した。美しい剣技などではない。ただの泥臭く、しかし執念に満ちた奴隷のタックル。全体重を乗せた体当たりが、小次郎の細身の肉体を物理的に押し出す。
その先は、底の見えない奈落。
「榊、龍之介……貴様、このような卑劣な――」
小次郎の絶叫は、断崖の強風にかき消された。彼の体は宙を舞い、底なしの谷底へと真っ逆さまに落ちていった。
静寂が戻った。
石舞台の上に残されたのは、右肩から血を流し、荒い息を繰り返す新之助だけだった。仮面のスリットから見える空は、ひどく遠かった。
「勝っ、た……」
生き延びた。その安堵感が全身を包んだ瞬間、恐るべき呪縛が彼を襲った。
鉄仮面の内側。耳裏とこめかみに食い込んでいる極細の針が、不気味に熱を帯びて脈打ち始めたのだ。
「が、はっ……! あ、あああああっ!」
心臓を直接万力で握り潰されたような激痛。全身の血液が沸騰し、経絡を逆流していく感覚。これこそが、宗主・榊宗十郎が仕掛けた「鉄仮面の毒の真の成分」――血脈呪毒の活性化だった。決闘が終わったことで、緊張の糸が切れ、体内の血流が変化したことが引き金となったのだ。
新之助は石の床に倒れ伏し、激しく吐血した。仮面の間隙から、どす黒い鮮血が吹き出し、冷たい石の床を汚していく。肺が焼け焦げるような感覚。視界が急速に暗転し、死の影が再び彼を包み込もうとしていた。のたうち回る指先が、冷たい石の床を掻きむしる。
その時、強風の音を切り裂いて、重く規則正しい足音が近づいてきた。
新之助は血を吐きながら、辛うじて顔を上げた。仮面の狭い視野の向こうに、一人の男の影が立ちはだかる。
白髪をきっちりと結い上げ、黒い天剣宗の護衛装束を纏った老人――権蔵(ごんぞう)だった。
その目は、冷徹そのものだった。本物の龍之介の幼少期から仕える古参の護衛。彼が、目の前の男が「偽物の奴隷」であることを見抜けないはずがなかった。美しい天一剣法を一切使わず、砂を投げ、体当たりで勝ったのだ。正体は完全に暴かれていた。
権蔵は静かに腰の刀の柄に手をかけ、ゆっくりと刃を引き抜いた。白銀の刀身が、雲間から差し込んだ冷たい陽光を反射して不気味に輝く。
(殺される……。ここで、口封じのために……)
だが、新之助は諦めなかった。仮面の下の衣の奥、奴隷としての自身の本名が刻まれた「奴隷の木札」を左手で強く握りしめ、血走った目で権蔵を睨み返した。
「殺すなら、殺せ……。だが、私はただでは死なんぞ……!」
喉の奥から絞り出したのは、龍之介の傲慢な声ではない。奴隷としての、地の底から這い上がるような憎悪に満ちた地声だった。
権蔵が、静かに刀を振り上げる。
しかし、その老護衛が取った行動は、新之助の予想を完全に裏切るものだった――。
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