蛇目(じゃのめ)の夜襲(やしゅう)
新之助は、血の海に沈むような激痛のなかを這い進んでいた。
白鷺城の最下層、湿気と悪臭が立ち込める奴隷部屋の床裏。かつて城を築いた奴隷たちが極秘裏に掘り進め、後に口封じのために埋められたはずの古い隠し通路。新之助と太助が泥と瓦礫を素手で取り除き、ようやく一人分の体が通る太さまで復活させたその暗黒のバイパスを、彼は今、虫のように這っていた。
「ぐ、うぅ……!」
仮面のスリットから漏れるのは、声にもならない掠れた吐息だけだ。右腕の骨折箇所は最悪の段階に達していた。剣塚の谷で、黒澤の不条理な物理連動――逆境剣の理を左手一本で起動し、あの巨大な岩石を真っ二つに叩き割った代償は、あまりにも重かった。巨石を破壊した凄まじい反動が固定されていた右腕へと逆流し、当て木は粉々に砕け散って皮膚を引き裂き、肉の内側で骨の破片がきしむ音を立てていた。包帯は完全に血に染まり、だらりと下垂した右腕からは一歩這うたびに鮮血が滴り落ちる。
さらに、左手の手の平も一ノ瀬新次郎の木刀を掴んだ際の深い摩擦裂傷が開いて血が流れ続けており、喉の経絡は長時間の声帯模写の過負荷によって断裂し、呼吸をするたびに肺が焼き切れるような感覚と鉄の味が口腔を満たしていた。
だが、新之助の瞳の奥に宿る「生存への執念」は、その肉体的絶望を完全に凌駕していた。ここで倒れれば、すべてが泥の中に消える。それだけは絶対に許さなかった。
懐には、禁書庫から命がけで盗み出した『万剣図の写本(第一巻)』が重々しく収められている。新之助は左手で懐を強く押さえ、激痛で意識が遠のくのを必死に堪えながら、ついに居館の寝室へと繋がる隠し回転扉の裏へとたどり着いた。
回転扉を音もなく押し開け、新之助は寝室の冷たい畳の上へと滑り込んだ。深夜の月光が、贅沢な金箔と白絹で飾られた部屋を青白く照らし出している。いつ天井裏から監視役「影法師の十兵衛」の目が光っているか分からない。新之助は、血に汚れた下男の衣服を左手一本で素早く脱ぎ捨て、ベッドの下の暗闇へと隠した。そして、あらかじめ用意しておいた、葛葉綾乃から受け取った『葛葉綾乃の香袋』を取り出す。
袋の紐を緩めると、極めて濃厚な沈香の香りが部屋に立ち込め、新之助の体から立ち上る血の匂いや、剣塚の谷の泥の臭いを完璧に覆い隠した。新之助は龍之介の白いシルクの寝着に身を包み、ベッドへと滑り込んだ。
「経絡緊縮法(けいらくきんしゅくほう)」
新之助は丹田の僅かな内力を絞り出し、心臓の鼓動を物理的に極限まで遅くさせた。血流が滞り、右腕の激しい出血が一時的にせき止められる。さらに「天息法」の逆腹式呼吸を静かに同調させ、全身を駆け抜ける稲妻のような激痛を精神の奥底へと力任せにねじ伏せた。彼はただの「深く眠る若旦那」になりすました。仮面の下の顔面は、冷や汗と血の涙でぐしょぐしょに濡れていたが、外見からは一滴の乱れも見えなかった。
しかし、新之助が目を閉じてから半刻も経たない頃、部屋の空気が一変した。
風の音が止み、不気味な静寂が寝室を支配する。新之助の「心眼耳術(しんがんじじゅつ)」が、極限の緊張の中で作動した。視界は鉄仮面のスリットによって通常の半分に制限されているが、彼の耳は、周囲の空気の微細な振動を捉える完璧な網と化していた。
――カサリ。
それは、天井の梁の隙間から、衣服の繊維が木肌を擦る極めて微細な摩擦音だった。続いて、人間のものとは思えないほど薄く、冷たい呼吸の音が、天井裏から音もなく這い降りてくる。
(来たな……)
新之助は仮面の下で、灰色の瞳を鋭く光らせた。侵入者の正体は、静香夫人が放った密偵「蛇目の佐助」に間違いなかった。佐助は蛇の皮のような特殊な防具を纏い、音を立てずに移動することに特化した一流の隠密だ。静香夫人は、若旦那が「本物ではない」という確証を掴むため、検証前夜のこの無防備な瞬間を狙って、部屋から物証を盗み出すよう命じたのだ。
新之助の脳内で、冷徹な計算が火花を散らす。
(ここで起きて戦えば、私の右腕の骨折と左手の怪我が一瞬で露呈する。それに、騒ぎを起こせば、天井裏に潜む十兵衛が踏み込んでくる。十兵衛に『若旦那が奴隷の泥臭い暗殺術で戦っている』ところを見られれば、その場で正体が暴かれ、首が飛ぶ……!)
物理的な戦闘は自殺行為だった。しかし、佐助を無傷で帰せば、部屋に隠してある『万剣図の写本』や、本物の物証が探り出されるリスクがある。
(戦わずに、この蛇を罠に嵌める。欲しいものを、あえて与えてやるのだ)
新之助は、あらかじめ仕込んでおいた「罠」の配置を脳内で確認した。ベッドの脇にある、本物の龍之介が使用していた黒檀の引き出し。その中には、文字の書けない奴隷である新之助が、深夜に左手だけで何時間もかけて龍之介の筆跡を完璧に模写した『偽の調合書』が置かれている。その書面には、鉄仮面の毒を中和するための「偽の配合(毒の活性化成分を誤記したもの)」が、いかにも若旦那が焦って自作しようとしたかのように書かれていた。さらにその横には、太助と茂作が作った仮面解除鍵の粗悪な模造品である『仮面の複製鍵(試作品)』が、わざとらしく転がしてある。
カサ、と畳の上に何かが着地する音がした。佐助が梁から降り立ったのだ。彼の動きは爬虫類のように滑らかで、足音は完全に消されていた。しかし、心眼耳術を極めた新之助の耳には、佐助の体重が畳のい草を押し潰す微細な軋み音が、立体的な地図となって頭の中に描かれていた。
佐助はベッドに横たわる「若旦那」の様子を、冷たい蛇のような目で凝視した。新之助は経絡緊縮法によって呼吸を完全に消しており、死体のように静止している。佐助は若旦那が深く眠っていると確信し、音もなく引き出しへと近づいた。
カチリ。
佐助が懐から取り出した極細の万能針が、引き出しの錠前を音もなく解錠した。その手際の良さは、一流の隠密そのものだった。佐助は引き出しを僅かに引き開け、その中に眠る『偽の調合書』と、金属製の『仮面の複製鍵(試作品)』を発見した。月光に照らされた佐助の口元が、勝利を確信した不気味な歪みを見せる。若旦那が仮面の毒に怯え、裏で解毒薬を自作し、仮面を外そうと焦っている決定的な物証。これこそが、静香夫人が求めていた「偽物の証拠」だった。
佐助の細い指先が、引き出しの中の『偽の調合書』へと伸び、その紙片を懐に収めた――まさにその瞬間だった。
新之助は、暗闇の中でわざと重苦しく寝返りを打った。ベッドのシーツが摩擦音を立て、彼の左手が、ゆっくりと持ち上がる。
新之助は「声帯模写」を強引に起動した。喉の断裂した経絡に内力を無理やり送り込む。喉が焼け付くような、熱い鉄を飲まされたような激痛が走る。しかし、彼はその激痛を鉄仮面の下に完全に押し殺し、本物の龍之介の、あの少し高くて傲慢な、周囲を見下す声を完璧に響かせた。
「お駒……冷たい水を持ってこい……。喉が、焼ける……」
その声は、寝言にしてはあまりにも冷酷で、はっきりとした輪郭を持っていた。佐助の全身の筋肉が、恐怖によって一瞬にして凍りついた。
さらに、新之助の左手の指先が、自身の顔を覆う錆びた鉄仮面の耳裏の金属部分を、トントン、と静かに叩いた。
――チィン、チィン。
冷たい金属音が、静まり返った寝室の空気を鋭く切り裂き、不気味に反響した。
佐助は息を止め、心臓が破裂しそうなほどの恐怖に襲われた。若旦那が起きているのか、それともすべてを見透かされているのか。これ以上の滞留は死を意味する。佐助は懐の書類を強く握りしめると、窓の隙間から影のように滑り出し、夜霧の奥へと音もなく逃亡していった。
寝室に、再び静寂が戻った。
「ごはっ……!」
新之助は仮面の下から、せき止められていた黒い鮮血を一気に吐き出した。喉の傷口が完全に開き、激しい痛みが脳髄をかき乱す。しかし、彼は左手で口元の血を拭いながら、暗闇の中で冷酷に微笑んだ。
蛇は罠に嵌まった。静香夫人は、あの偽の調合書を信じ、自滅の道を歩み始めるだろう。右腕の骨折は悪化し、全身は満身創痍。しかし、新之助の瞳に宿る覇道の炎は、いささかも衰えてはいなかった。
翌朝、ついに「公開武術検証」の鐘が、白鷺城に鳴り響こうとしていた――。
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