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禁書(きんしょ)の鍵(かぎ)

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丑三つ時の静寂が、白鷺城(しらさぎじょう)を深い霧とともに支配していた。絢爛豪華な若旦那の居館から、人目を避けるようにして抜け出した影が一つ、暗暗たる城内の回廊を音もなく滑り進む。その影の主は、華美な白絹の剣士服を脱ぎ捨て、泥と煤に汚れた粗末な下男の衣服を纏った新之助(しんのすけ)であった。


 新之助の肉体は、まさに崩壊の淵にあった。骸骨鬼(がいこつき)との死闘で完全に砕かれた右腕は、添え木と包帯で固定されたまま、麻痺したようにだらりと下がっている。さらに、昼間に一ノ瀬新次郎(いちのせしんじろう)の神速の木刀を真っ向から受け止めた左手の平には、肉が裂けた深い傷が刻まれ、包帯の隙間からどす黒い血がじわりと滲み出ていた。喉の経絡もまた、無理な声帯模写の代償として微細に断裂しており、呼吸をするたびに焼け付くような熱い血の味が口内に広がる。


「誇りは犬に食わせろ。勝てば手段はどうでもいい……」


 新之助は仮面の下で、血の混じった唾を静かに飲み下した。懐の最も深い場所には、葛葉綾乃(くずはあやの)から渡された「葛葉綾乃の香袋」が仕込まれている。そこから漂う濃厚な沈香(じんこう)の香りが、彼の体から立ち上る血の匂いや、甚平(じんべい)の庵で処方された泥臭い生薬の臭いを完璧に覆い隠していた。この香りがなければ、城内を徘徊する鋭い鼻を持った番犬や、天井裏に潜む隠密「影法師の十兵衛(じゅうべえ)」の目を欺くことは不可能だった。


 新之助が目指すのは、城の北翼にそびえ立つ天剣宗の巨大な書庫であった。三日後に控える一ノ瀬源十郎(いちのせげんじゅうろう)の「公開武術検証」において、新次郎の神速を誇る「一ノ瀬流・紫電剣(しでんけん)」を打ち破るには、ただ避けるだけでは足りない。奴が踏み込む一瞬の「肩の収縮」と「呼吸の継ぎ目」を事前に見抜き、左手一本での相打ちのカウンターを成立させるための「知識」が必要だった。その鍵が、書庫の最深部に封印されている「万剣図の写本(第一巻)」に他ならない。


 書庫の裏手にたどり着いた新之助は、暗闇の中で微かに口笛を鳴らした。人間の耳には聞こえないほどの低音。すると、書庫の勝手口の床板が僅かに持ち上がり、中から埃まみれの作業着を着た少年が顔を出した。書庫の小間使いである助六(すけろく)だった。


「若旦那様……いえ、新之助の兄貴。待ってたよ」


 助六は怯えた瞳を揺らしながらも、新之助を中に招き入れた。助六は、かつて新之助が若旦那の権力を使って城外から密かに手配してやった「面白い小説の写本」を宝物のように慕っており、新之助の正体が奴隷であると薄々察しながらも、その「影の優しさ」に強い忠誠を誓っていた。


「源内(げんない)の部下たちの巡回は?」


 新之助は喉の痛みを堪え、掠れた声で尋ねた。


「さっき西側の回廊へ向かったよ。次の巡回まで半刻(約一時間)はある。でも、禁書庫(きんしょこ)の扉は黒鉄の錠前で閉ざされていて、僕の鍵じゃ開かないんだ。それに、あそこには触れるだけで作動する針の罠があるって、お爺ちゃんが言ってた……」


「問題ない。お前はここで外を見張っていろ」


 新之助は助六の肩を左手で軽く叩き、書庫の暗闇の奥へと進んだ。書庫の空気は冷たく、何万冊もの古い古書の匂いと埃が立ち込めている。新之助は「天息法(てんしきほう)」の呼吸を意識的に整え、体内の内力循環を極限まで静めながら、最深部にある黒鉄の扉――「禁書庫」の前へとたどり着いた。


 扉は重厚な黒鉄で鋳造されており、中央には複雑な真鍮製の錠前が埋め込まれている。助六の言う通り、この鍵穴の周囲には、不審者が針金を差し込んだ瞬間に作動する、即死毒が塗られた極細の「針トラップ」が仕掛けられていた。


 新之助は、裂傷の激痛が走る左手を持ち上げ、懐から老奴隷・茂作(もさく)から貰い受けた「万能針」を取り出した。右腕は使い物にならず、左手もまともに握力が入らない。一ミリの手元の狂いが、即座に自身の死を意味する極限の状況だった。


(……観(かん)じるのだ。物理的な構造の隙間を)


 新之助は「超感覚的観察」を強制的に起動した。視界が急速に色を失い、異様な静寂を伴ってスローモーションへと歪んでいく。鍵穴の内部の構造が、網膜の奥に光の線となって立体的に投影された。


 鍵穴の奥に付着した極微量な毒油の反射。そして、針を射出するためのスプリングの応力集中点。新之助は、左手の平の裂傷から流れる血が万能針を濡らすのを無視し、針の先端を鍵穴の隙間へと滑り込ませた。カチリ、と脳内で歯車の噛み合う音が響く。新之助は針の角度を僅かに傾け、射出スプリングの基部を物理的に固定した。これで、罠は作動しない。


 そのまま、もう一本の針を用いて、錠前の内部ピンを一つずつ押し上げていく。左手の震えを「天息法」の呼気爆発で強引に抑え込み、最後のピンが上がった瞬間、ゴト、と重い金属音が響いて黒鉄の扉が僅かに開いた。


 その時、廊下の奥から、不自然に重く、不規則な足音が近づいてくるのが「心眼耳術(しんがんじじゅつ)」に引っかかった。ずり、ずり、と足を引くような歩き方。それは、書庫番の老書生であり、天剣宗の隠れた知恵者である宗達(そうたつ)のものだった。


(しまっ……た……!)


 新之助は瞬時に扉の影の本棚の隙間に身を潜め、「経絡緊縮法(けいらくきんしゅくほう)」を起動した。心臓の鼓動を極限まで遅くし、体温を下げて気配を完全に消し去る。本棚の隙間から覗くと、度の極めて強い丸眼鏡をかけた、痩せ細った宗達がランタンを手にゆっくりと歩いてくるのが見えた。


 宗達の視力は極めて弱いはずだった。しかし、その耳と直感は、誰よりも鋭い。宗達は禁書庫の開いた扉の前で立ち止まり、ランタンの光を暗闇へと向けた。新之助は呼吸を完全に止め、仮面の下で血の混じった汗を流しながら、いつでも「袖中滑り刃(しゅうちゅうすべりば)」を放てるよう左指を硬直させた。


 だが、宗達は新之助の潜む本棚の方向を静かに見つめたまま、ふっと寂しげな笑みを浮かべた。そして、わざと大きな音を立てて咳払いをし、自身の杖で床をカン、カンと二回叩いた。


「おや……風のいたずらか。禁書庫の扉が開いたままになっておる。年寄りは耳が遠くていかん、何も聞こえんわい」


 宗達はそう独り言を呟くと、新之助の存在を完全に黙認したまま、わざと大きな足音を立てて回廊の奥へと去っていった。宗達は、天剣宗の血統主義による腐敗を冷ややかに見つめており、この「鉄面の若旦那」が深夜に知識を求めて足掻く姿に、門派の未来を変える「何か」を直感して無言の支援を与えたのだ。


 新之助は深く息を吐き出し、隠し部屋の内部へと滑り込んだ。そこは「禁書庫」。天剣宗が過去数百年間にわたり、滅ぼした他派から強奪して封印してきた「中原の失われた秘伝書」が眠る、暗黒の知識の墓場だった。


 新之助は「超感覚的観察」を再び起動し、埃を被った書架の中から、目的の物品――「万剣図の写本(第一巻)」を見つけ出した。それは、他派の剣術の基礎軌道と気の流れが、緻密な図録として描かれた禁断の書物だった。


 新之助は左手で写本を開き、その図面を凝視した。「無相盗剣法・観(かん)」の基礎理論が、彼の脳内で爆発的に稼働し始める。新次郎の「紫電剣」が、かつて天剣宗が滅ぼした「雷鳴派」の古流剣術から盗用されたものであること、そしてその神速の刺突を放つ瞬間、右肩の特定の経絡が僅かに弛緩するという「物理的な死角」が、図録の気の流れと完全に一致した。


(見えた……これなら、左手一本でも奴の剣を叩き折れる!)


 新之助の瞳に、濁った灰色の光(無相盗剣・初門の兆候)が宿る。彼が知識の略奪というカタルシスに震え、写本を懐に収めようとした、まさにその瞬間だった。


 しん、と静まり返った禁書庫の、最も暗い天井の隅から、微かな、しかし極めて規則的な「呼吸の音」が聞こえてきた。


 それは、人間のものとは思えないほど低く、冷たい呼気。新之助の背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。天井裏の闇の中に、誰かが潜んでいる。監視役「十兵衛」の影か、それとも、この禁足地を守る別の亡霊か――。

HẾT CHƯƠNG

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