若き紫電(しでん)の挑戦
朝の冷気が、白鷺城の剣術訓練場を白く包み込んでいた。ピンと張り詰めた空気の中、板張りの床を踏み鳴らす門下生たちの足音と、木刀が風を切る鋭い音が響き渡っている。天剣宗の直系や高位の剣士たちが集うこの場所は、新之助にとって常に薄氷を踏むような戦場だった。
新之助は訓練場の隅に静かに立ち、腕を組んで彼らの稽古を眺めていた。きらびやかな白絹の剣士服を纏い、顔には錆びついた鬼の鉄仮面を嵌めている。その姿は、周囲の門下生たちにとって「傲慢で気まぐれな若旦那・榊龍之介」そのものだった。
しかし、仮面の下の素顔は、冷や汗と激痛で歪んでいた。先の骸骨鬼との死闘で、新之助の右腕の前腕骨は完全に砕け、現在は頑強な当て木と包帯で固定され、白絹の広い袖の中にだらりと隠されている。動かすどころか、指先に力を入れるだけで、脳髄を突き刺すような激痛が走る状態だった。
(……痛みを表に出すな。呼吸を整えろ)
新之助は懐の奥深くから漂う沈香の香りを静かに吸い込んだ。葛葉綾乃から手渡された香袋の濃厚な香りが、深夜の特訓で浴びた血の匂いや、甚平の庵で処方された泥臭い生薬の臭いを完璧に覆い隠してくれている。これがなければ、周囲の鋭い鼻を持つ長老たちに、自身の異常を嗅ぎ取られていただろう。
新之助は「天息法」の呼吸を極限まで深くし、体内の内力を丹田から右肩の経絡へと静かに送り込んだ。さらに「経絡緊縮法」を用いて、右腕に繋がる主要なツボを物理的に圧迫し、血流と神経の伝達を一時的に遮断する。激痛が遠のき、右半身が冷たい感覚に支配されていく。これこそが、お綱から授かった自傷サバイバルの知恵だった。
その時、訓練場の重い扉が乱暴に押し開けられた。
ざわついていた門下生たちの声が、一瞬にして静まり返る。現れたのは、金糸の刺繍が施された豪華な道着を纏った、端正な顔立ちの若者だった。不遜な笑みを浮かべ、肩に一本の重厚な木刀を担いでいる。
一ノ瀬新次郎。天剣宗の筆頭長老・一ノ瀬源十郎の孫であり、同世代の中で「若手最強」と謳われる天才剣士だった。新次郎の背後にいる源十郎は、静香夫人と結託して「若旦那の不審な変化」を疑い、三日後に公開武術検証を仕掛けた張本人である。新次郎がこのタイミングでここに現れた理由は、火を見るより明らかだった。
「これは若旦那。最近、部屋に引きこもってばかりと聞いていましたが、ようやくお顔を拝めましたな」
新次郎は新之助の前に歩み寄り、慇懃無礼に頭を下げた。しかし、その細い目の奥には、獲物を値踏みするような鋭い光が宿っている。
「影魔門の雑兵を一人倒しただけで、次期宗主の座が安泰だと思われては困る。門下生たちの間では、若旦那の剣が見違えるほど強くなったという噂と、実は臆病風に吹かれて武功を失ったという噂が、同時に流れておりましてね。検証を前に、この私がその真偽を確かめて差し上げましょう」
新次郎は肩の木刀を滑らせ、その先端を新之助の胸元へと突きつけた。周囲の門下生たちが、息を呑んで二人の対峙を見守る。
「若旦那様、手合わせを願いたい。天剣宗の正統な血統が、どれほどのものか、この紫電の剣で試して差し上げる」
新之助は仮面の下で目を細めた。右腕は完全に機能していない。白雷を抜くことすらできないこの状態で、新次郎のような一流の若き実力者と刃を交えれば、一瞬にして怪我が露呈し、偽物である事実が暴かれるだろう。
影から音もなく現れた老護衛・権蔵が、新之助の前に一歩踏み出し、冷たい声で遮った。
「新次郎殿、若旦那様は現在、三日後の検証に向けて重要な内功の調整中でございます。このような場所での粗野な手合わせは、経絡の乱れを招く。お引き取り願おう」
しかし、新次郎は鼻で笑い、権蔵を無視して新之助を凝視し続けた。
「内功の調整? それとも、ただの逃げ口上ですか? 祖父はいつも言っています。天剣宗の直系たる者、いかなる時も挑まれた勝負から背を向けてはならぬ、と。それとも若旦那は、かつてのように私の前で震え上がるだけの臆病者に戻られたのですか?」
挑発の言葉が、訓練場の高い天井に反響する。周囲の視線が新之助の鉄仮面に集中し、無言の圧力が彼を押し潰そうとする。ここで弱気を見せれば、その瞬間に「龍之介は武功を失った」と見なされ、長老衆の廃嫡要求が現実のものとなる。
新之助は、仮面の下の衣の奥にある「奴隷の木札」を左指で強く握りしめた。血と汗に汚れたその古い木札の感触が、彼の胸に眠る奴隷としての怨念と、生き延びるための執念を爆発的に呼び覚ます。
(誇りは犬に食わせろ。勝てば手段はどうでもいい。このエリートの鼻を、言葉だけで叩き折ってやる)
新之助は喉の筋肉を不自然に緊張させ、内力を無理に喉の経絡に送り込んだ。焼け付くような激痛が喉を襲うが、それを表情に出すことなく、完璧な「龍之介の声帯模写」を起動する。
「――下がれ、権蔵」
響き渡ったのは、本物の龍之介そのものの、周囲を虫ケラのように見下す神経質な高音だった。声帯模写「若旦那の叱責」――その圧倒的な階級的威圧感に、訓練場の空気が一瞬で凍りついた。
新之助は左手だけで腰の白雷の鞘を静かに掴み、一歩前へと踏み出した。右腕は白絹の袖の中で完璧に静止したままだが、その佇まいには、骸骨鬼を泥沼に沈めた者だけが持つ、底知れぬ「死の気配」が漂っていた。
「一ノ瀬の小倅が、随分と大きな口を叩くようになったな。源十郎の老いぼれが、お前にどのような吹き込みをしたかは知らんが、私の前でその不躾な木刀を向けた罪、万死に値するぞ」
新次郎の眉がぴくりと跳ねた。かつての臆病だった龍之介からは想像もできないほどの、冷酷で重苦しい殺気が、鉄仮面の間隙から放射されていたからだ。
「……口先だけではないことを祈りますよ、若旦那!」
新次郎は焦りを隠すように叫び、突如として踏み込んだ。彼の得意とする「瞬歩」が起動し、彼の体が残像を残して一瞬で新之助の目の前へと迫る。手にした重い木刀が、鋭い風を切り裂きながら、新之助の右肩に向けて一直線に突き出された。
その突きは、まさに新之助の「右腕の骨折箇所」を正確に狙っていた。本能的に右腕を動かして防げば、激痛でその場に崩れ落ち、骨折が露呈する。動かさなければ、二百斤の力を持つ木刀が右肩を物理的に粉砕し、致命的な重傷を負う。どちらを選んでも、新之助の破滅は免れない極限の瞬間だった。
新之助の網膜の奥で、時間が奇妙に歪み始めた。超感覚的観察「死線スロー」の覚醒だった。
新次郎の右肩の筋肉の微細な収縮、木刀を握る指先の気の流れ、そして突き出される木刀の軌道が、光の線となってスローモーションで新之助の脳内に投影される。新之助は、避ける動作すらも「右腕を庇っている」と周囲に見破られるリスクを瞬時に計算した。
(――避けない。防ぐのは、左手一本だ)
新之助は体を僅かに、一寸だけ左へと捻った。木刀の先端が右肩の衣服をかすめる位置まで引き付けた刹那、新之助の唯一動く左手が、稲妻のような速度で繰り出された。
パシィィン! と、肉と木が激突する鋭い音が訓練場に響き渡る。
門下生たちが驚愕のあまり目を見開いた。新之助は剣を抜くことすらせず、新次郎が全力で突き出した木刀の先端を、自身の左手の平で真っ向から掴み取っていたのだ。
木刀の強烈な推進力が、新之助の左手の皮膚を引き裂き、鋭い摩擦によって鮮血がじわりと滲み出る。しかし、新之助の左腕は、天息法の気の循環によって鋼のように固定され、一ミリも後退しなかった。新次郎の木刀は、新之助の左手の中で完全に静止していた。
「な……っ!? 左手で、私の突きを……!?」
新次郎の顔から、余裕の笑みが完全に消え去った。両手で木刀を押し込もうとするが、新之助の左手は岩盤のように微動だにしない。
新之助は鉄仮面の奥の灰色の瞳で、新次郎を冷酷に見下ろした。そして、喉の痛みを噛み殺しながら、さらに傲慢な声を響かせる。
「この程度の剣で、私と手合わせを望むなど、片腹痛い。お前のような雑兵を相手にする価値など、今の私にはないのだ」
新之助は左手に内力を込め、新次郎の木刀を強引に右側へとねじ切るようにして弾き飛ばした。新次郎の巨躯が、その物理的な力に抗えず、タタッと数歩後退して体勢を崩す。
「三日後の検証の場で、お前の祖父の前で這いつくばらせてやる。それまで、その首を洗って待っているがいい」
新之助は白絹の袖で左手の血を静かに拭い、腰の白雷を一度も抜くことなく、新次郎に背を向けて歩き出した。権蔵がその背後を静かに従う。
「若旦那……!」
新次郎は屈辱に顔を真っ赤に染め、去りゆく新之助の背中に向けて、怒りに満ちた声を放った。
「三日後……その仮面ごと、お前のすべてを叩き割ってやる!」
新之助はその声を無視し、訓練場を後にした。扉が閉まった瞬間、新之助の口元からどす黒い血が溢れ出し、鉄仮面の内側を濡らした。右腕の骨が軋み、喉の経絡が悲鳴を上げている。しかし、彼の瞳に宿る覇道の炎は、少しも衰えてはいなかった。
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