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共犯者の香(きょうはんしゃのかおり)

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喉元に食い込む冷たい刃の感触。それ以上に、新之助の全身の経絡を物理的に圧迫しているのは、葛葉綾乃(くずはあやの)が放つ「万葉呼吸法」の鋭い剣気だった。


 白鷺城(しらさぎじょう)の東翼、若旦那の居館。その奥にある寝室は、カーテンに遮られたわずかな月光だけが差し込む暗黒の密室と化していた。新之助はベッドに背を預けたまま、仮面の下の灰色の瞳で、眼前に佇む深緑の絹衣の美女を凝視した。


「さあ、答えなさい。私の忍耐にも限界があるわ」


 綾乃の声は、氷のように冷たく、しかし透き通るような美しさを持っていた。彼女の持つ細身の短剣の切っ先は、新之助の喉筋に寸分の狂いもなく押し当てられている。仮面の隙間から、ツッと一本の赤い血が流れ、白銀の襟元を汚していく。


 新之助の右腕は、先の骸骨鬼(がいこつき)との死闘によって前腕骨が完全に破砕され、だらりと下垂したまま動かない。左手で床に転がった半壊の「白雷」を掴もうとすれば、動くよりも早くその首を撥ねられるだろう。物理的な戦闘は一秒も持たない。新之助は「経絡緊縮法」を用いて心臓の鼓動を極限まで遅くし、血流を抑えることで、体温の変化すらも綾乃に悟らせないようにした。一流の剣士は、刃を通じて相手の動揺を肌で感知するからだ。


 新之助は、喉の奥に仕込まれたツボを強引に圧迫した。声帯を不自然に緊張させ、喉の断裂による激痛を脳内でねじ伏せながら、本物の龍之介の声帯模写を起動する。


「……お前を、殺して……その死体を万剣洞(まんけんどう)に沈めることもできるのだぞ、葛葉綾乃」


 掠れてはいるが、本物の龍之介そのものの、周囲を見下すような傲慢な響き。だが、綾乃の瞳に揺らぎはなかった。彼女は不敵な笑みを深くする。


「無駄な演技はやめなさい。その声帯の震え、無理に内力を通して作った偽物の響きだわ。それに、あなたの歩き方……天一剣法の優雅なステップを装っているけれど、右足の踏み込みには、泥を深く踏みしめる特有の重心移動が残っている。それは影魔門(えいまもん)の『影魔無踪歩の基礎軌道』を無理に模倣した癖。そして何より、過酷な労働で重い鉄鎖を引きずってきた奴隷の足よ。本物の龍之介は、あんな泥臭い歩き方はしないわ」


 彼女の指摘は、解剖学的な真実を突いていた。新之助は仮面の下で、静かに奥歯を噛み締めた。この女は、血統や正義の味方としてここにいるのではない。葛葉宗(くずはそう)の利益のために、天剣宗の跡取りの弱みを握りに来たリアリストだ。ならば、こちらの牙を見せる時だった。


 新之助は、喉からせり上がる血の味を飲み干し、地声に近い冷徹な低音で囁いた。


「私が偽物だとして……お前がそれを告発して、葛葉宗に何の得がある?」


 綾乃の細い眉が、ぴくりと動いた。


「何ですって?」


「お前の祖父、葛葉万作(くずはまんさく)が天剣宗に騙し取られ、絶望して自害に追い込まれた『黒鉄鉱(こくてつこう)』の採掘権……。本物の龍之介が跡を継げば、その権利は永久に榊家のものだ。あの傲慢な豚は、静香(しずか)夫人の忠実な人形でしかないからな」


 新之助の言葉が、綾乃の胸の最も深い傷に突き刺さる。短剣を握る彼女の指先が、一瞬だけ硬直した。新之助はその心理的な隙を見逃さず、仮面の下から彼女の目を射抜くように見つめた。


「だが、私が天剣宗を乗っ取れば話は別だ。無能な本物よりも、狡猾な偽物である私の方が、お前にとって最大の利益をもたらす。私なら……その黒鉄鉱脈をお前に渡せる」


 部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。風が窓を叩く音だけが響く中、二人の視線が火花を散らすように交錯する。綾乃は、目の前にいる鉄面の少年が、ただの使い捨ての身代わりではなく、底知れぬ野心を秘めた「本物の怪物」であることを理解し始めていた。


「……面白いことを言うわね、奴隷の少年」


 綾乃はゆっくりと、しかし確実に短剣の切っ先を新之助の喉元から数ミリ引いた。しかし、その刃の冷たさは、いつでも彼の喉を切り裂ける距離を保っている。


「本物の龍之介はどこ? 答えないなら、今すぐここであなたの仮面を引き剥がすわ」


「奴は……帝都の闇に消えた。だが、心配する必要はない。奴が戻ることは二度とない。私が、奴の存在そのものをこの世から消し去るからだ」


 新之助は、本物の龍之介が帝都で朝廷の黒幕の保護下にあるという醜い真実をあえて伏せ、自身が本物を完全に制御しているかのように偽装した。これ以上の情報を与えれば、交渉の主導権を奪われる。綾乃は新之助の仮面の下の表情を読もうとするが、錆びた鬼の鉄仮面は、そのすべての心理を冷酷に遮断していた。


 やがて、綾乃はふっとため息をつき、短剣を完全に鞘へと収めた。部屋を満たしていた万葉呼吸法の鋭い剣気が、霧のように消散していく。


「いいわ、その取引、乗ってあげる。無能な龍之介が宗主になるよりは、あなたのような悪魔を操る方が、葛葉宗にとっては遥かに価値があるものね」


 彼女は懐から、深緑の絹で編まれた小さな袋を取り出し、新之助の枕元に落とした。「葛葉綾乃の香袋」――中からは、極めて濃厚で気品のある沈香(じんこう)の香りが漂ってきた。


「これを持っていきなさい。あなたの体から漂う、深夜の特訓の血の匂いや、安っぽい『百草液』の臭いを隠すための完璧な隠蔽剤よ。名門の長老たちの鼻は、あなたが思っている以上に鋭いわ」


 新之助は左手でその香袋を拾い上げ、衣の奥深くへと仕舞い込んだ。これで、深夜に剣塚の谷で黒澤(くろさわ)から受けている特訓の痕跡を、周囲の監視から隠すことができる。物理的な盾を、また一つ手に入れたのだ。


 綾乃は窓辺へと歩み寄り、月光を背に浴びながら、去り際に振り返った。その美しい唇が、極めて冷酷な弧を描く。


「……三日後に一ノ瀬源十郎(いちのせげんじゅうろう)が仕掛ける武術検証、どう乗り切る気かしら? 右腕が完全に砕けたその体で、新次郎の『紫電剣』を受け止めれば、あなたの仮面は物理的に粉砕されるわよ」


 新之助の前に、新たな死のデッドラインが突きつけられた。一瞬の油断も許されない白鷺城の暗闇の中で、少年の覇道は、さらなる死線へと突き進んでいく。

HẾT CHƯƠNG

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