共犯(きょうはん)の罠(わな)
白鷺城(しらさぎじょう)の白亜の城門が、霧の底から不気味にそびえ立っていた。朝の冷気が、濡れた石畳から這い上がり、鉄仮面のスリットを通り抜けて新之助の冷え切った皮膚を刺す。
新之助は、一歩進むたびに脳髄を突き刺すような痛みに耐えていた。右腕は完全に骨折し、衣服の下の添え木が肉に食い込んでいる。お綱の「痛覚遮断の特製麻酔針」を引き抜いた代償は凄まじく、全身の毛細血管が微細に断裂し、呼吸をするたびに肺の奥から血の味がせり上がってきた。甚平が処方してくれた「百草液」が胃の腑を保護していなければ、とっくにその場に崩れ落ちていただろう。
「――若旦那様、背筋をお伸ばしください。静香夫人が見ております」
すぐ後ろに従う老護衛・権蔵(ごんぞう)が、誰にも聞こえないほどの低い声で囁いた。その声には、冷徹なまでの緊張が宿っている。
城門の前に、豪奢な白藍の長衣を纏った貴婦人が立っていた。龍之介の実母であり、天剣宗の宗主夫人――榊静香(さかきしずか)だ。その氷のように整った美貌には、一滴の温かみもなく、ただ獲物を狙う鷹のような眼光だけが新之助に向けられていた。彼女の背後には、重厚な甲冑を身につけた長老一ノ瀬源十郎(いちのせげんじゅうろう)をはじめとする直系の武芸者たちが、冷ややかに控えている。
新之助は「天息法(てんしきほう)」の呼気を極限まで整え、骨折した右腕を無理やり白雷の鞘を掴む位置で固定した。左足に僅かに重心を移し、泥を踏みしめる奴隷特有の歩き方を必死に隠しながら、傲然たる若旦那の歩調を模倣する。顎を上げ、周囲を塵芥のように見下す龍之介の視線。だが、静香夫人の鋭い瞳は、新之助の肩の僅かな傾きを見逃さなかった。
「龍之介。城外での狩猟にしては、ずいぶんと帰還が遅かったのですね。それに、その衣服……微かに血の匂いが漂っているようですが?」
静香夫人が扇で口元を隠し、冷ややかな声を響かせた。新之助は答えようとしたが、喉の経絡が断裂しており、声が出ない。無理に声帯を震わせようとすれば、その場でどす黒い血を吐き出すことになる。新之助はあえて何も語らず、ただ不機嫌そうに鼻で笑い、左手で静香夫人を払いのけるような傲慢な仕草をしてみせた。
その無礼な態度に、長老の源十郎が不快そうに眉をひそめる。
「龍之介、母上に対するその態度は何だ。それに、最近のお前の剣術には、直系の品格を欠いた泥臭い動きが混じっているという噂もある。影魔門の暗殺者どもに対抗するためとはいえ、天剣宗の跡取りがそのような不純な技に染まることは許されん」
静香夫人が源十郎に視線を送り、冷酷な微笑を浮かべた。
「ええ、源十郎殿。私も我が子の身が心配なのです。最近の龍之介は、まるで別人のように言葉を濁し、剣の構えもどこか歪んでいる。宗派の掟を正し、彼の武功の正統性を証明するためにも……長老衆による『公開武術検証』を提案いたしますわ」
公開武術検証――。それは、天剣宗の掟に基づき、跡取りの剣術が本物であるかを長老衆の前で物理的に立ち合わせる、事実上の処刑宣告だった。骨折した右腕では、剣を抜くことすらできない。新之助は仮面の下で歯を食いしばり、ただ傲然と顎を引いたまま、静香夫人の脇をすり抜けて城内へと歩みを進めた。一滴の冷や汗が、鉄仮面の内側を濡らした。
◇
白鷺城の東翼に位置する「若旦那の居館」。新之助は自身の寝室に滑り込むなり、扉を閉めて床に崩れ落ちた。
「がはっ……!」
堰き止められていた黒い鮮血が、仮面のスリットから吐き出され、豪華な白絹の剣士服の胸元を汚した。右腕の骨が肉の内側できしみ、脳髄を焼き切るような激痛が痛覚の檻を突き破って襲いかかる。新之助は左手で床を掴み、血を吐きながら荒い息を繰り返した。
「若旦那様!」
権蔵が音もなく部屋に侵入し、扉に鍵をかけた。彼は新之助のボロボロの肉体を見て、冷徹な目の奥に微かな揺らぎを見せた。
「静香夫人の罠は本物だ。三日後、一ノ瀬新次郎を相手に公開検証が行われる。お前の右腕が骨折していることが知れれば、その場で偽物として処分されるだろう。お駒のただれた皮膚の件で、源内は居館への強硬な捜査を躊躇しているが、検証そのものを止める権限は私にはない。新之助、どうする?」
新之助は懐の「奴隷の木札」を左手で強く握りしめた。血と汗に汚れた古い木札の感触が、彼の消えかける意識を冷酷に呼び覚ます。
(誇りは犬に食わせろ。勝てば手段はどうでもいい。ここで死んでたまるか……)
新之助は掠れた声で言った。
「……一人に、してくれ。呼吸を、整える……」
権蔵は静かに頷き、影のように部屋の隅へと退散していった。新之助はベッドに背を預け、目を閉じて「経絡緊縮法(けいらくきんしゅくほう)」を起動した。心臓の鼓動を遅くし、体内の血流を止めることで、喉と右腕の出血を物理的に抑え込む。静寂が部屋を満たし、ただ自身の微弱な呼吸音だけが響いていた。
――その時、部屋の温度が急激に低下した。
風もないのに、窓辺の白絹のカーテンが微かに揺れた。新之助の「心眼耳術(しんがんじじゅつ)」が、暗闇の中から衣の擦れる極めて軽い音を察知した。それはお駒の歩法よりも遥かに洗練され、かつ冷徹な気の波長を伴っていた。
(十兵衛か……!? いや、違う!)
新之助が目を開けた瞬間、ベッドの脇の影から、深緑の絹の道着を纏った美しい人影が音もなく現れた。葛葉宗(くずはそう)の令嬢――葛葉綾乃(くずはあやの)だった。彼女の凛とした瞳には、名門の令嬢特有の優雅さの裏に、底知れぬ冷徹な知性が宿っていた。
新之助が左手で床に転がっていた半壊の「白雷」を掴もうとした刹那、綾乃の手首が鋭く閃いた。シュッ、という微小な風切り音と共に、彼女の細身の短剣が、新之助の動きを完璧に制した。緑色の鋭い剣気が、新之助の左手の自由を物理的に凍りつかせる。一流剣士としての圧倒的な技量の差が、そこにはあった。
「動かないで。その折れた腕で私と戦おうとするなんて、愚かだわ」
綾乃の声は、氷のように冷たく、しかし透き通るような美しさを持っていた。彼女はゆっくりと身をかがめ、短剣の切っ先を新之助の鉄仮面の隙間、喉元へと正確に押し当てた。
「……葛葉、綾乃……何、の用だ……」
新之助は喉の奥の経絡を強引に締め上げ、龍之介の傲慢な声を絞り出そうとした。だが、喉の断裂による激痛が走り、声が僅かに掠れる。綾乃は仮面の下の灰色の瞳を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「無駄な演技はやめなさい、奴隷の少年」
その言葉が、新之助の脳髄を直撃した。仮面の下の視線が鋭く細められる。
「先ほどの城門でのあなたの歩き方を見て確信したわ。天一剣法の優雅なステップを装っているけれど、あなたの右足の踏み込みには、泥を深く踏みしめる特有の重心移動が残っている。それは影魔門の『影魔無踪歩の基礎軌道』を無理に模倣した癖……そして何より、過酷な労働で重い鉄鎖を引きずってきた奴隷の足よ。本物の龍之介は、あんな泥臭い歩き方はしないわ」
綾乃の短剣が、鉄仮面の隙間から新之助の喉の皮膚に僅かに食い込んだ。ツッと一筋の赤い血が流れ、白銀の襟元を汚す。新之助は死の刃を前にしながらも、瞳の奥の光を失わなかった。呼吸すらも一定に保ち、彼女の次の動きを冷徹に分析する。
「本物の龍之介はどこへ行ったの? 答えないなら、今すぐここであなたの仮面を引き剥がし、静香夫人の前へ突き出してあげるわ」
新之助は、自身の左手の袖口に仕込まれた「袖中滑り刃」を起動しようとした。だが、綾乃の放つ「万葉呼吸法」の鋭い剣気が、彼の全身の経絡を物理的に圧迫しており、僅かでも動けば喉が切り裂かれるのは確実だった。物理的な戦闘は不可能。ならば、残された武器は――仮面の下の知略のみ。
新之助は喉の針を僅かに深く押し込み、龍之介の声帯を強引に再現しながら、冷酷に笑った。
「私が偽物だとして……お前がそれを告発して、葛葉宗に何の得がある?」
綾乃の眉が、僅かに動いた。
「何ですって?」
「お前の祖父、葛葉万作(くずはまんさく)が天剣宗に騙し取られ、絶望して自殺に追い込まれた『黒鉄鉱(こくてつこう)』の採掘権……。本物の龍之介が跡を継げば、その権利は永久に榊家のものだ。あの傲慢な豚は、静香夫人の忠実な人形でしかないからな」
新之助の言葉に、綾乃の美しい瞳が激しく揺らいだ。短剣を握る彼女の指先が、一瞬だけ硬直する。新之助はその心理的な隙を見逃さず、仮面の下から彼女を凝視した。
「だが、私が天剣宗を乗っ取れば話は別だ。無能な本物よりも、狡猾な偽物である私の方が、お前にとって最大の利益をもたらす。私なら……その黒鉄鉱脈をお前に渡せる」
沈黙が部屋を支配した。風が窓を叩く音だけが響く中、二人の視線が火花を散らすように交錯する。綾乃は、目の前にいる鉄面の少年が、ただの使い捨ての身代わりではなく、底知れぬ野心を秘めた「本物の怪物」であることを理解し始めていた。
しかし、彼女の短剣の切っ先は、依然として新之助の喉元から退かなかった。綾乃はさらに短剣を押し込み、冷酷な問いを突きつけた。
「本物の龍之介はどこ? 答えないなら、今すぐここであなたの仮面を引き剥がすわ」
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