骸を溶かす夜
黒蜘蛛の胸が異様に膨張し、その衣服の隙間から、粘り気のある白い毒泡が噴き出そうとした瞬間、新無赫(シン・ムカク)の脳裏には一切の躊躇もなかった。一瞬の遅れが、この寝室を即死性の毒煙で満たし、自身の「大役」の終わりを告げる。それは、奈落の地下牢へ引き戻されることすら許されない、確実な死を意味していた。
新無赫は右足の経絡に、僅かに残る真気を強引に集中させた。丹田の奥底で『無名呼吸法(ムメイ・コキウホウ)』によって練り上げられた温かい熱が、右脚の気穴へと一気に流れ込む。骨格を強引に捻り、関節を不自然な角度へと折り曲げる――かつて襲撃してきた刺客「無影脚の蛇」の筋肉の動きを『万象眼(バンショウガン)』で完全に盗み、自身の肉体へと適合させた絶技。音もなく、影すら置き去りにする超高速の蹴り――『無影脚(ムエイキャク)』が放たれた。
――ゴキリ。
暗闇の寝室に、肉を隔てて骨が砕ける不気味な音が響いた。新無赫の容赦のない足先は、黒蜘蛛の背骨を正確に捉え、その中枢を一瞬にして粉砕していた。脊髄を断たれた黒蜘蛛の肉体は、文字通り全ての運動能力を失い、膨らみかけていた胸は力なく萎んでいった。襟元から漏れ出しかけていた白い毒泡が、不発のまま彼の喉奥へと逆流する。
「が、は……っ」
黒蜘蛛の蜘蛛マスクの奥から、肺に残った最後の空気が、血の泡と共に漏れ出た。新無赫は冷酷な眼光のまま、左手で彼の喉笛をさらに強く握り潰し、右手で床に落ちていた「黒蜘蛛の糸」を素早く拾い上げた。粘り気のある毒糸を、黒蜘蛛の細い首に巻き付け、全身の体重をかけて引き絞る。
鉄仮面の額を擦った毒糸の傷がズキズキと疼き、額から一筋の血が流れ落ちて仮面の内側を濡らした。だが、新無赫は眉一つ動かさない。ただ、冷徹に力を込め続けた。黒蜘蛛の眼球が大きく見開かれ、やがてその四肢から完全に力が抜け、光を失った瞳が虚空を見つめた。
静寂が、再び寝室へと戻ってきた。新無赫は、初めてプロの暗殺者を自らの手で屠ったのだという事実を、冷たくなった死体の重みを通じて実感していた。胸の鼓動は驚くほど静かだった。地下牢で家畜のように扱われていた日々が、彼の心から「人を殺める」ことへの恐怖を完全に削ぎ落としていたのだ。
新無赫は、床に平伏したまま小刻みに震えているお蓮(オレン)へと視線を向けた。指の関節を踏み折られた彼女は、新無赫が放った圧倒的な武功と冷徹な殺気の前に、完全に精神を破壊されていた。
「お蓮」
新無赫は喉筋を精密に収縮させ、あの退廃的で傲慢な若家督・司馬駿(シバ・シュン)の声を作り出した。その声には、本物にはない、凍てつくような威厳が宿っていた。
「は、はい……若家督……」
「この骸を片付ける。余計な詮索はするな。お前はただ、明朝、柳夫人(リュウ・ブジン)の元へ赴き、計画が順調に進んでいるとだけ報告しろ。私の経絡は、お前の盛った『軟香散(ナンコウサン)』によって確実に衰弱している、とな」
「御意のままに……すべて、おっしゃる通りにいたします」
お蓮は額を床に擦り付け、命を乞うように平伏し続けた。彼女はすでに、この鉄仮面の男が「本物の司馬駿」ではないことを確信していたが、逆らうことは死を意味すること、そして自身の一族の命まで握られていることを完全に理解していた。新無赫にとって、彼女は恐怖によって繋がれた、最も忠実な二重スパイとなったのだ。
新無赫は立ち上がり、黒蜘蛛の死体から残された「毒糸」を慎重に回収した。肉眼ではほぼ視認不可能な極細の鋼糸。これを鉄仮面の狭いスリットから放てば、いかなる達人の不意をも突く致命的な暗器となる。彼はそれを懐に深く忍ばせた。
だが、問題はこれからだった。外門の衛兵や柳夫人の監視の目は厳重だ。朝の点呼までに、この凄惨な戦闘の痕跡と、プロの暗殺者の死体を完全に隠蔽しなければならない。もし衛兵に見つかれば、身代わりとしての立場は崩壊し、司馬厳の陰謀が白日の下に晒されると同時に、新無赫自身の命も潰える。
新無赫は、居室の隅にある古い排水口へと歩み寄った。そして、鉄製の格子を外し、指先で特定の不規則な振動を排水管の奥へと送り込んだ。コン、コン、ココン――それは、かつて地下牢で共に泥を啜った、外門の死体処理奴隷であり、同じく「大役」の生き残りである影三(エイゾウ)にのみ伝わる、極秘の合図だった。
半刻もしないうちに、排水口の奥から、湿った泥の臭いと共に不気味な気配が這い上がってきた。暗闇から姿を現したのは、顔の半分が焼けただれ、片目に黒い眼帯をした痩せこけた初老の男――影三だった。
「……お呼びですかな、若家督」
影三は不気味な笑みを浮かべ、地面に転がる黒蜘蛛の死体を見つめた。その一瞬、彼の片目に、驚愕と、そして深い敬意の光が宿った。分家が放った一級の暗殺者が、傷一つない若家督(中身は奴隷の少年)の前に転がっている。影三は、新無赫が自分たちの運命を覆すかもしれない「本物の怪物」へと成長しつつあることを確信していた。
「影三、これを処理しろ。一族の監視網に引っかからない方法でな」
新無赫の冷淡な命令に、影三は深く一礼した。
「お任せを。大役を生き延びた者同士、死体の消し方くらいは身体に染みついております。これを用いましょう」
影三は懐から、古い竹筒を取り出した。中には、不気味な青緑色の粉末が入っている。天剣宗の裏の仕事で用いられる極秘の薬品――『化屍散(かしさん)』であった。
影三は慎重に、黒蜘蛛の死体の喉元、そして四肢の関節へとその粉末を振りかけた。粉末が肉体に触れた瞬間、ジュウ、という微かな湿った音と共に、緑色の泡が沸き立った。酸っぱい、金属を溶かすような不気味な悪臭が寝室に広がり始める。
「無赫、香炉に高級な香木を大量にくべろ。この臭いは衛兵の鼻を刺激する」
影三の静かな忠告に従い、新無赫はお蓮に命じて、本物の司馬駿が好んで使っていた名貴な香木を香炉で大量に燃やさせた。立ち上る甘い香煙が、肉と骨が溶けていく凄惨な異臭を覆い隠していく。
新無赫は、無表情のままその光景を見つめていた。黒蜘蛛の衣服、肉、そして骨が、緑色の泡の中でドロドロの無形の液体へと変わり、排水口へと静かに流れ落ちていく。かつて自分と同じように生きていた人間が、一瞬にして存在そのものを無へと還されていく。その様子を見つめながら、新無赫は自身の内面にある「人間性」が、一歩ずつ、確実に摩耗し、冷酷な武人へと変貌していくのを感じていた。だが、その摩耗こそが、この地獄を生き抜くための唯一の鎧だった。
彼は懐から、安価な外傷薬である『百草液(ヒャクソウエキ)』を取り出し、鉄仮面の額の傷口へと塗り込んだ。緑色の液体が皮膚に浸透し、激しい痛みを伴いながらも、傷口を急速に塞いでいく。翌朝、お蓮や柳夫人の鋭い目が彼の顔を覗き込んでも、戦闘の痕跡を悟られることはないだろう。
やがて、床の上には一滴の血痕も、一本の毒糸も残らず、黒蜘蛛という存在はこの世から完全に消滅した。影三は排水口の格子を元に戻し、立ち上がった。
だが、彼が闇へと消える直前、その片目が新無赫の鉄仮面をじっと見つめ、その口元から、凍りつくような言葉が漏れ出た。
「無赫……覚悟を決めておくことだ。分家の司馬厳(シバ・ゲン)は、黒蜘蛛が失敗した時のため、すでに『本物の天才』を白麗城へと呼び寄せている」
新無赫の眉が、仮面の下で微かに動いた。
「……本物の天才だと?」
「そうだ。司馬厳の実の息子であり、若手の中で敵なしと評される剣士――司馬勇(シバ・ユウ)だ。奴は明日、大演武場において、お前に家督継承権の資質を問う『公式な決闘』を申し込む。黒蜘蛛の死によって焦った分家は、もはや手段を選ばない。大衆の前で、お前の無能を暴き、物理的に叩き潰すつもりだ」
影三の言葉が、寝室の冷たい空気の中に重く沈んだ。分家の牙は、深夜の暗殺から、逃げ場のない公式な舞台での圧殺へと、その形を変えようとしていた。
影三が音もなく排水口の闇へと消え去った後、新無赫は一人、甘い香煙が漂う寝室に立ち尽くしていた。彼の経絡は、先ほどの激しい動きによって再び微かな悲鳴を上げ始めていた。明朝、一族の弟子たちが凝視する大演武場で、彼は「最強の若家督」を演じ、本物の天才剣士を退けなければならない。
仮面のスリットの奥で、新無赫の青白い眼光が、夜明け前の暗闇を静かに射抜いていた。
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