深夜の黒蜘蛛
お蓮を床に平伏させたまま、新無赫(シン・ムカク)は視線を天井裏の闇へと固定していた。寝室を支配する静寂はあまりにも深く、床に滴るお蓮の冷や汗の音さえ、彼の研ぎ澄まされた耳には雷鳴のように響く。
新無赫は無言のまま、お蓮の首元に添えていた手を引き、代わりに人差し指を自身の鉄仮面の唇にあてた。余計な声を出すな、という無言の脅迫。指の関節を踏み折られ、激痛に顔を歪めながらも、お蓮は恐怖に支配された瞳で小さく頷き、大理石の床に額を押し付けたまま身を縮めた。
香炉から立ち上る真気阻害毒「軟香散(ナンコウサン)」の紫色の煙は、すでに部屋の隅々まで行き渡っている。だが、新無赫の肺は一寸の毒気も吸い込んでいない。彼はすでに『無名呼吸法(ムメイ・コキウホウ)』の極意により、呼吸を完全に停止させていた。体内の真気を丹田の奥底へと押し込め、鼓動を極限まで遅らせる。人肌の温もりすらも消え去り、彼の肉体はただの冷たい置物、あるいは「死体」と同化していた。
その時、天井裏から、皮膚が粟立つような微かな気流の乱れが伝わってきた。
衣服が擦れる音すらしない。だが、確かに「何か」が天井の覗き穴から滑り降りてくる。極めて細い、肉眼では決して捉えられない鋼の糸が、闇の中でかすかに空気を切り裂く摩擦音。新無赫の『万象眼(バンショウガン)』が、仮面のスリットの奥で青白い光を放った。
世界が引き伸ばされたスローモーションの知覚の中で、天井から音もなく降下する影が見えた。全身を漆黒の密着スーツで覆い、不気味な蜘蛛のマスクを被った小柄な男――分家の支配者である司馬厳(シバ・ゲン)が放った最初の刺客、「黒蜘蛛(クログモ)」であった。
黒蜘蛛は着地と同時に、獲物が眠るはずのベッドへ直行することはしなかった。プロの暗殺者としての冷酷な慎重さが、彼に別の行動を命じていた。彼は両手の指先から、目に見えないほど極細の鋼糸を放ち、それを寝室の柱、机の脚、ベッドの支柱へと音もなく固定し始めた。
それは、一度侵入すれば二度と逃れられない死の檻――「毒糸結界」の構築であった。糸の表面には、獲物の肌をかすめるだけで即座に全身の経絡を腐食させ、心臓を停止させる猛毒が塗られている。新無赫が『万象眼』で見つめる視界の中、闇の中に張り巡らされる鋼糸が、不気味な紫色の気流を帯びた「死の路線図」となって鮮やかに浮かび上がっていた。
(……恐ろしい罠だ。一歩でも動けば、肉を引き裂かれ、毒が全身に回る)
新無赫は、腰に帯びた天剣宗の細剣に手を伸ばしかけ、すぐにその手を引っ込めた。天剣宗の華美で薄い細剣では、この粘り気のある毒糸を切り裂くことはできない。むしろ刃が糸に絡みつき、逆に真気を吸い取られて武器を奪われるのが関の山だ。頼れるのは、お蓮から奪い取った、即死性の毒が塗られたあの「毒短刀」と、自身の肉体のみ。
新無赫は『無名呼吸法』を維持したまま、ベッドの影から滑り出るように移動を開始した。彼の体温と気配はゼロ。黒蜘蛛の「無息歩法」による索敵能力をもってしても、暗闇の中に潜む新無赫の存在を感知することはできなかった。
黒蜘蛛は手際よく毒糸を張り終えると、ようやくベッドへと視線を向けた。だが、そこに「昏睡しているはずの司馬駿」の姿はない。あるのは、乱れたシーツと、毒気の漂う虚無の空間だけだった。
黒蜘蛛の蜘蛛マスクの奥の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。彼が警戒を最大に引き上げ、毒糸の結び目を手元に引き絞ろうとしたまさにその瞬間、新無赫は彼の背後の死角から、音もなく、影のように滑り寄っていた。
新無赫の手が、お蓮の毒短刀を逆手に握り、黒蜘蛛の細い喉元を貫こうと突き出される。
しかし、黒蜘蛛は並の暗殺者ではなかった。彼が部屋中に張り巡らせた毒糸は、単なる罠ではない。彼の指先と繋がった、空間の「触覚」であった。新無赫が踏み出したわずかな一歩が、空気の気流を揺らし、一本の毒糸を微かに振動させたのだ。
チリ、と黒蜘蛛の指先がその振動を捉えた。
「そこか――!」
黒蜘蛛が叫ぶと同時に、彼の両手が猛烈な勢いで引き絞られた。部屋中に張り巡らされていた無数の毒糸が、一斉に中央の新無赫に向けて、網のように収縮する。避ける隙間などない。前後左右、すべての空間が、肉を引き裂く毒の刃で埋め尽くされていた。
新無赫は一瞬で判断した。避けることは不可能。ならば、突き進むのみ。
彼はあえて自身の『無名呼吸法』の真気を顔面に集中させ、顔を覆う「黒鉄の仮面」の額部分を、迫り来る毒糸の交差点へと真っ向からぶつけた。
キィィィィン――!
暗闇の寝室に、耳を劈くような金属の摩擦音と、激しい火花が散った。いかなる鋼鉄をも切り裂く黒蜘蛛の毒糸が、新無赫の顔面に固定された呪いの鉄仮面の額をかすめ、火花を散らしながら滑っていく。鉄仮面の圧倒的な硬度が、毒糸の鋭い貫通力を物理的に弾き返したのだ。
糸が仮面の上を滑る、そのコンマ数秒の刹那。新無赫は頭部に伝わる激しい衝撃と、食い込む起爆針の激痛に耐えながら、黒蜘蛛との距離を一気にゼロへと縮めた。毒糸の収縮が完了するより早く、新無赫の冷酷な左手が、黒蜘蛛の喉元を正面から鷲掴みにした。
「がっ……!?」
黒蜘蛛の喉笛が、新無赫の奴隷時代に鍛え上げられた鉄の握力によって圧迫され、不気味な骨の軋み音を立てる。黒蜘蛛の両手から毒糸が滑り落ち、結界は一瞬にして崩壊した。
だが、プロの暗殺者は絶命の瞬間まで牙を失わない。喉を潰されながらも、黒蜘蛛の胸が異様に膨らみ始めた。彼の漆黒のスーツの襟元から、吸い込めば一瞬で内臓を融解させる即死性の毒ガスが、白い泡となって噴き出そうとしていたのだ。
一瞬の遅れが死を招く極限の超至近距離。新無赫の指先が、黒蜘蛛の喉笛を完全に握り潰すのが先か、それとも死の毒煙が部屋を満たすのが先か――。
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