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氷雪の許嫁

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夜明けの光が、白麗城(ハクレイジョウ)の豪華絢爛な寝室に差し込む頃、新無赫(シン・ムカク)はベッドの上で静かに息を整えていた。


 顔面に熱着された黒鉄の仮面は冷え切っていたが、その内側で引き裂かれた皮膚は、今なお脈打つような激痛を訴えている。喉の奥は、昨夜の『声帯収縮法(セイタイ・シュウシュクホウ)』の酷使によって焼け付くように熱かった。だが、丹田(タンデン)の底には、深夜の蔵書閣(ゾウショカク)で手に入れた『無名呼吸法(ムメイ・コキウホウ)』の微かな「温かい熱」が居座り、喉の経絡をやさしく保護していた。この微弱な真気がなければ、今頃は激痛のあまり声を出すことすらできなかっただろう。


 不意に、部屋の外から音もなく近づく気配があった。新無赫は『万象眼(バンショウガン)』を起動せずとも、その足音の主が誰であるかを察知した。監視役の侍女、お蓮(オレン)だ。


「若家督、朝の点呼でございます」


 お蓮が静かに扉を開け、部屋に侵入してきた。彼女の細い瞳は、新無赫の寝台や、床の隅々を這うように観察している。そして、新無赫の前にひざまずいた瞬間、彼女の鼻腔が微かに動いた。


「おや……若家督。昨夜はどちらかへ外出されましたか? 衣服の袖口から、微かに古い紙と煤の臭いが漂っておりますが」


 お蓮の言葉には、刃のような猜疑心が隠されていた。朝一番の点呼という、最も油断しやすい瞬間を狙った鋭い尋問。衣服に残る蔵書閣の埃と紙の臭い――それが彼女の獲物だった。


 新無赫は仮面の下で冷酷に口元を歪めた。ここで動揺を見せれば、首元の起爆針が作動する。彼は喉の筋肉を強引に収縮させ、本物の司馬駿(シバ・シュン)の、傲慢で退廃的な声を喉の奥から絞り出した。


「黙れ、耳障りな家奴め」


 新無赫は寝台から立ち上がると、枕元に置かれていた陶器の茶杯を乱暴に掴み、お蓮の足元へと投げつけた。ガシャン、と鋭い音を立てて破片が飛び散る。お蓮は眉一つ動かさず、ただ頭を低くした。


「俺がどのような香を焚こうが、どのような薬に溺れようが、一介の侍女が口を挟むことではない。昨夜は母上が寄越した沈香を焚いていただけだ。それとも、この俺の部屋の臭いが気に入らぬとでも言うのか?」


 司馬駿そのものの、気まぐれで暴力的な怒り。情報の不整合を、主君の傲慢さという盾ですべて圧殺する――それこそが『影武者心得(カゲムシャ・ココロエ)』の教えだった。


「滅相もございません、若家督。私の不躾な発言、深くお詫び申し上げます」


 お蓮は恭しく頭を下げたが、その瞳の奥にある猜疑の火は消えていなかった。彼女は飛び散った陶器の破片を静かに拾い集めながら、部屋を後にした。新無赫は仮面の内側で冷や汗を流し、深く息を吐き出した。第一の危機は去ったが、息をつく暇はなかった。


 城内に、突如として荘厳な角笛の音が響き渡ったからだ。


 天剣宗(テンケンシュウ)と同盟を結ぶ名門・柳家(リュウケ)の使節団が、白麗城に到着したことを知らせる合図だった。その使節団の中には、司馬駿の許嫁であり、若き女傑と名高い天才少女、柳雪桜(リュウ・セツオウ)の姿があるはずだった。


 白麗城の広大な謁見の間。天剣宗の宗主であり、絶対的な支配者である司馬烈(シバ・レツ)が、金の冠を戴き、威厳に満ちた黒い長衣を纏って玉座に鎮座していた。その傍らには、分家の嫡男である司馬勇(シバ・ユウ)が、不敵な笑みを浮かべて立っている。


 新無赫は、司馬駿の豪華な刺繍が施された長衣を身に纏い、顔を黒鉄の仮面で覆ったまま、司馬烈の少し斜め後ろに立たされていた。首元の起爆針が、彼の皮膚を冷たく威圧している。この場にいる全員が、自分を「司馬駿」という操り人形としてしか見ていない。失敗は即座に死を意味する、張り詰めた沈黙が場を支配していた。


 やがて、謁見の間の重厚な扉が開き、柳家使節団(リュウケ・シセツダン)が入場してきた。使節団を率いる長老たちの後ろから、一人の美しい女性剣士が静かに歩み出てきた。


 柳雪桜――その姿を目にした瞬間、新無赫の『万象眼』が微かに脈動した。


 彼女は雪のように白い凛とした武服を纏い、髪を一つに結い上げていた。その佇まいは、まるで極寒の地に咲く寒梅のように気高く、そして冷たかった。彼女の腰に帯びられた細剣『寒梅(カンバイ)』からは、すでに周囲の空気を凍らせるような冷たい真気の波動が微かに漏れ出ていた。


 柳雪桜は司馬烈に向けて深く一礼した後、ゆっくりと顔を上げ、その鋭い双眸を新無赫へと向けた。彼女の瞳には、かつて軽蔑していた「惰弱な司馬駿」に対する冷ややかな視線ではなく、深い違和感と鋭い観察眼が宿っていた。


 本物の司馬駿は、常に肩をすぼめ、薬物の影響でふらついた歩き方をしていた。だが、今、目の前に立つ「司馬駿」は、黒鉄の仮面を被っているものの、その背筋は一本の鋭い剣のように真っ直ぐに伸びていた。大理石の床を踏みしめるその歩法には、一切の無駄がなく、大地の気脈と完全に同調しているように見えた。


 柳雪桜は一歩前に踏み出し、新無赫を真っ直ぐに見つめて口を開いた。その声は、氷の結晶が弾けるように澄んでおり、そして冷徹だった。


「駿様。お久しぶりでございます。…… assassination(暗殺)の危機を乗り越えられたと聞き及んでおりましたが、ずいぶんと佇まいが変わられましたね。その真っ直ぐな背筋、そして仮面の奥の鋭い眼光。以前のあなた様とは、まるで別人のようでございます」


 謁見の間が、一瞬にして凍りついたような緊張感に包まれた。司馬勇が、獲物を見つけた蛇のように目を細め、司馬烈もまた、新無赫の後ろ姿を冷酷な眼光で睨みつけた。


 新無赫は仮面の下で歯を食いしばった。彼女の直感は、あまりにも鋭すぎる。彼は喉筋を震わせ、傲慢な笑い声を作り出した。


「ふん、命を狙われれば、腑抜けでも背筋が伸びるものさ。雪桜、俺の成長がそんなに珍しいか?」


「ええ、非常に珍しく、そして興味深く存じます」


 柳雪桜は新無赫の傲慢な態度に惑わされることなく、さらに一歩踏み込んだ。彼女の手が、腰の寒梅剣の柄へと滑る。


「天剣宗と柳家の婚姻は、武林の秩序を左右する大事。我が柳家は、惰弱な者に一族の未来を託すわけにはまいりません。駿様、あなた様が本当に天剣宗の若家督にふさわしい武を身につけられたのか……この柳雪桜が、一族の面前で、直接お確かめいたします」


 彼女は司馬烈に向き直り、毅然とした態度で公式な提案を口にした。


「宗主。婚姻の儀を進める前に、若家督の真の実力を測るための『鑑定戦(カンテイセン)』として、私との真剣勝負をお許しいただきたく存じます」


 その提案に、司馬勇が即座に乗っかった。彼は若家督の無能さを暴き、一失脚させる絶好の機会だと確信していた。


「おお、それは素晴らしい提案だ! 宗主、若家督が本当に暗殺の危機を乗り越えて『覚醒』したというのなら、柳家の若き女傑である雪桜殿の挑戦を拒む理由などありますまい。ぜひとも、大演武場での鑑定戦をお認めください!」


 新無赫は内心で冷や汗を流した。ここで戦えば、自身の『無名呼吸法』による剣筋の違いや、奴隷としての泥臭い生存の技術が露呈し、一瞬で偽物であることが暴かれる。彼は薬物の後遺症を言い訳に回避しようと口を開きかけた。


「待て、俺はまだ暗殺の際の毒が体内に残っており、真気の運用が――」


「黙れ、駿」


 司馬烈の地を這うような重厚な声が、新無赫の言葉を遮った。玉座から放たれる一流達人の圧倒的な威圧感が、新無赫の肉体を押し潰さんばかりに襲う。


「天剣宗の跡継ぎが、女の挑戦から逃げることは許さん。我が一族の威信をかけて、雪桜殿の挑戦を受けよ。大演武場を開け」


 司馬烈の一言で、新無赫の退路は完全に断たれた。拒絶すれば「臆病者」として一族の威信を失い、即座に処分される。戦えば「偽物」であることが暴かれる。絶体絶命の窮地。


 新無赫の脳裏に、『影武者心得』の冷酷な知略が閃いた。彼は仮面の下で不敵に笑い、傲慢な若家督の声を響かせた。


「ふははは! 面白い。雪桜、お前がそこまで俺の剣を望むなら、遊んでやろう。だが、天剣宗の若家督が、女相手に本気を出す必要などない。一族の面前で、お前に恥をかかせるわけにもいかぬからな」


 新無赫は、自身の剣の柄には手をかけず、ただ腰の鞘を軽く叩いた。


「条件をつけよう。俺は片手のみを使い、さらに剣は決して鞘から抜かない。この『天剣の鞘』のみでお前の剣を受け流して見せよう。それで不満はないな?」


 自ら課した戦闘の制約。それは、自身の「剣筋の違い」を完璧に隠蔽し、かつ「傲慢なハッタリ」として周囲を欺くための、極限の生存戦術だった。


 柳雪桜の瞳に、激しい不快感と、それを超える深い闘志の炎が灯った。


「……大きく出られましたね、駿様。その傲慢さ、本物であるか、私の剣で確かめさせていただきます」


 白麗城・大演武場(ハクレイジョウ・ダイエンブジョウ)。白い大理石で敷き詰められた広場を、数千人の天剣宗の弟子たちと、柳家使節団が静かに取り囲んでいた。玉座に座る司馬烈の冷酷な視線が、演武場の中央へと注がれている。


 中央に立つ新無赫と柳雪桜。二人の距離は十歩。


 柳雪桜がゆっくりと腰の寒梅剣(カンバイケン)を引き抜いた。キィン、と澄んだ金属音が響き渡ると同時に、彼女の丹田から放たれた極寒の内力が、演武場全体の空気を一瞬で氷結させた。舞い落ちる細かな雪が、彼女の周囲で美しい錯覚を描く。


 新無赫は『真気視認境(シンキ・シニン・キョウ)』を発動した。仮面のスリットの奥で、彼の漆黒の瞳が青白く発光する。彼の知覚世界がスローモーションに引き伸ばされる中、雪桜の体内を流れる冷たい真気の経路が、鮮やかな青い光の路線図として視覚化された。


 だが、その圧倒的な冷気は、新無赫の黒鉄の仮面を直接打ちつけ、彼の皮膚を凍らせんばかりに襲いかかってきた。激しい真気の圧力。新無赫は、司馬駿としての「無能な剣技」を演じながらこの氷の嵐を受け流すか、それとも生き延びるために『無名呼吸法』の真の力を解放するかの、極限の決断を迫られていた。


 柳雪桜の寒梅剣が、一瞬にして目の前から消えた。極寒の風が、新無赫の鉄仮面を切り裂かんと迫り来る。次の瞬間、彼らの刃が交差する死闘の幕が開かれようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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