金の鳥籠の囁き
極上の絹のシーツは、地下牢の湿った藁とは比べものにならないほど滑らかだった。だが、新無赫(シン・ムカク)にとって、その贅沢な柔らかさは、むしろ皮膚にまとわりつく蜘蛛の糸のように不快極まりなかった。
顔面に焼き付けられた『黒鉄の仮面(コクテツノ・カメン)』。縁の焦げた皮膚が脈打つたびに、頭蓋骨を万力で締め付けられるような激痛が走る。仮面の隙間からは、絶えず血と体液が混ざり合った生暖かい液体が、喉元へと流れ落ちていた。息を吸い込むたびに、鉄錆と焦げた肉の臭いが鼻腔を突き刺す。その不快感に耐えながら、新無赫はベッドの上で上体を起こした。
白麗城(ハクレイジョウ)・若家督の居室。そこは豪華絢爛な金の鳥籠だった。金糸で刺繍された重厚な帳、磨き上げられた黒檀の卓、そして高価な翡翠の調度品。しかし、新無赫の鋭い眼光は、それらの華美な装飾の裏に隠された「悪意」を正確に捉えていた。四方の壁のわずかな隙間、飾られた絵画の瞳の部分――そこには、柳夫人(リュウ・ブジン)が放ったスパイたちの覗き穴が、無数に配置されている。
「若家督、お目覚めでしょうか。お薬の時間でございます」
静寂を切り裂くように、平坦で冷ややかな声が響いた。障子がおのずと開き、音もなく一人の女が滑り込んできた。黒衣を纏った侍女、お蓮(オレン)。柳夫人の忠実な目であり、若家督・司馬駿(シバ・シュン)の一挙一動を監視するために送り込まれた冷酷な毒婦だ。
お蓮の歩行には、一切の足音がなかった。新無赫は本能的に察知する。この女、ただの侍女ではない。その身のこなしは、暗殺術と隠密に長けた『無息呼吸法』の使い手だ。袖口のわずかな膨らみには、即死性の毒が塗られた細身の短刀が隠されているに違いない。
「……」
新無赫は鉄仮面のスリットの奥から、お蓮を睨みつけた。お蓮は卓の上に薬湯を置きながら、部屋の隅々を整理するふりをして、新無赫の「座り方」や「手の置き方」を鋭く観察している。本物の司馬駿は、極度の臆病者であり、常に肩をすぼめて怯えたように座る癖があった。しかし、新無赫の背筋は、奴隷としての過酷な労働によって、鋼のように真っ直ぐに伸びていた。
「若家督、本日はずいぶんと姿勢がよろしいのですね。戒律堂での『お仕置き』が、少しは身に沁みましたか?」
お蓮の細い瞳に、鋭い猜疑の光が宿った。彼女はゆっくりとベッドへ近づき、その手を袖口へと滑らせていく。些細な所作の違い。それだけで、この女は目の前の主君が「偽物」であると見抜く。ボロを出せば、即座にあの司馬敬が握る鍵盤が叩かれ、自身の脳髄は破裂するのだ。大役生存規則(タイヤク・セイゾンキソク)の冷酷な呪縛が、新無赫の首元で不気味に疼いた。
新無赫は喉の奥を締め付けた。本物の司馬駿の、傲慢で、少し掠れた、退廃的な声を再現せねばならない。彼が用いたのは、喉の筋肉を精密にコントロールする禁忌の技術――『声帯収縮法(セイタイ・シュウシュクホウ)』だった。
喉仏の脇にある特定の経絡に微細な真気を送り込み、喉の筋肉を強引に収縮させる。焼き焦げた顔面の皮膚が引っ張られ、仮面の裏側で新たな裂傷が弾ける。口内にどっと血の味が広がったが、新無赫はその血を静かに飲み込み、声を絞り出した。
「……下がれ。俺の前に気安く立つなと、何度言えば理解するのだ、家奴風情が」
その声は、驚くほど司馬駿そのものだった。傲慢で、退廃的で、他人を見下しきった響き。しかし、お蓮の眉がわずかにピクリと動いた。彼女の耳は、声の微細なかすれ、そして喉の筋肉が不自然に震える微弱な音を捉えていた。
「お声が随分と掠れておいでですね、若家督。それに、昨夜からお薬(麻薬)を一度も召し上がっていないご様子。いつもなら、目覚めと共に私に鞭を振るい、薬を要求されるはずですが……?」
お蓮はさらに一歩踏み込んだ。彼女の指先は、すでに袖の中の毒短刀の柄に触れている。日常の習慣。本物の司馬駿しか答えられない、依存症患者としての異常な行動パターン。論理的な対話でこの状況を切り抜けることは不可能だった。新無赫は、自身の経絡が激痛で悲鳴を上げる中、冷徹な『影武者心得』の教えを脳裏に蘇らせた。
(論理で語るな。主人の暴虐さそのものになりきれ。情報の不整合は、主君の気まぐれな怒りによってすべて塗り潰せ)
新無赫は突如として右腕を払い、卓の上に置かれていた翡翠の茶碗を掴むと、お蓮の足元に向けて全力で叩きつけた。
ガシャァン!!
鋭い破砕音が室内に響き渡り、翡翠の破片がお蓮の黒い衣服の裾を切り裂いた。彼女の動きが、一瞬にして凍りつく。
「無礼者が! 母上がお前を俺の番犬として寄越したからとて、この俺を詮索する気か!」
新無赫はベッドから立ち上がり、司馬駿の持つ特権的な傲慢さを全身から放ちながら、お蓮を見下ろした。声帯収縮法による喉の痛みは極限に達し、仮面の下から一筋の血が顎へと伝い落ちていたが、彼はその血すらも「怒りによる興奮」として偽装した。
「薬が欲しければ、俺の意志で命じる! お前ごときに指示される筋合いはない! 司馬敬の老いぼれも、母上も、俺を思い通りに操れると思うなよ!」
若家督の癇癪持ち特有の、支離滅裂で暴力的な命令口調。お蓮は足元の翡翠の破片と、鉄仮面のスリットから覗く、狂気的な怒りに満ちた新無赫の瞳をじっと見つめた。彼女の脳裏で、二つの仮説が衝突していた。目の前の男は、本当に司馬駿なのか。それとも、完璧に訓練された偽物なのか。
しかし、若家督が本気で怒り狂った際、その怒りを鎮めなければ、柳夫人とて自分を処分することを知っている。お蓮はゆっくりと袖から手を引き、深く頭を下げた。
「……滅相もございません、若家督。私の不敬、何卒お許しくださいませ。お薬はここに置いておきます」
お蓮は静かに後退し、音もなく部屋から退室していった。扉が閉まる瞬間まで、彼女の鋭い視線が新無赫の足元を監視していたが、新無赫は傲慢な立ち姿を崩さなかった。
パタン、と扉が閉まった瞬間、新無赫は激しく咳き込み、床に膝を突いた。仮面のスリットから、真っ黒い血がどっと吐き出され、豪華な絨毯を汚した。喉の筋肉が痙攣し、呼吸をするたびに針で刺されたような激痛が走る。顔面の熱傷も、怒気によって血流が増したことで、激しく脈打っていた。
(お蓮……あの女、まだ疑っている。柳夫人に報告が渡れば、俺の命は数日も持たん)
新無赫は自身の無力さを痛感していた。今の自分は、ただのハッタリで生き延びている奴隷に過ぎない。本物の司馬駿が昏睡状態にあるという事実は、一時的な盾にはなるが、実戦や親族たちの暗殺計画が始まれば、この家奴級の肉体では一瞬で圧殺される。
生き延びるためには、一族の監視を潜り抜け、自らの力を蓄えるための武功を学ばねばならない。新無赫は仮面を指先でなぞった。耳の下に食い込む起爆針の冷たさが、彼に死のタイムリミットを告げている。
深夜、白麗城が深い静寂に包まれ、壁の覗き穴の向こうからの視線が途切れた一瞬。新無赫は闇の中で静かに立ち上がった。彼の瞳には、金の鳥籠を突き破るための、冷徹な復讐の光が宿っていた。彼が目指すのは、一族のすべての秘伝が眠る、あの禁忌の場所――『蔵書閣(ゾウショカク)』だった。
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