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盲目の琴師と風の音

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肺腑を焼くような湿気と、泥の重みが全身を圧し潰そうとしていた。天剣山を真っ逆さまに落下した新無赫(シン・ムカク)は、崖の途中にぽっかりと口を開けていた暗い空洞へと、這うようにして侵入していた。一族の凄惨な内乱の歴史を呑み込んできた外門の廃井戸、その最深部へと繋がる隠し水路である。


「がはっ……、はぁ、はぁ……」


 黒鉄の仮面(コクテツノ・カメン)の内側で、濁った呼気と血の味が混ざり合う。先ほどの刺客『無影脚の蛇』の蹴撃は、彼の肋骨に鋭い亀裂を走らせていた。それだけではない。牙狼との死闘、そして落下中に風を模倣するために強引に経絡を逆流させた反動が、今になって全身の気脈をずたずたに引き裂いていた。右腕は炎の真気によって皮膚が焼けただれ、破片が肉に深く食い込んでいる。


 立つのすら不可能。真気を一寸でも練り上げようとすれば、経絡が完全に破裂する『走火入魔』の奈落が待っている。新無赫は、冷たい汚水が流れる暗渠の底に顔を伏せながら、ただ『無名呼吸法(ムメイ・コキウホウ)』の最も緩やかな波長だけを維持していた。舌を上顎に当て、細く、長く、泥の臭いを吸い込む。丹田の奥深くで微かに生じる温かい熱だけが、崩壊寸前の肉体を辛うじて繋ぎ止めていた。


 どれほどの時間を這い進んだだろうか。光を拒絶する地下水路の壁は、徐々に大理石の人工的な石組みから、荒削りの古いレンガへと変わっていった。水の流れる音が、頭上から微かに響く地響きのようなざわめきへと溶けていく。天剣宗の厳重な監視の目が届かない、山の麓の宿場町――『天剣山・麓の宿場町(テンケンザン・フモトノシュクバマチ)』の排水溝の出口が、すぐ目の前に迫っていた。


 新無赫は、最後の力を振り絞って鉄格子を押し上げた。ぬかるんだ泥と腐葉土の臭いの中に、安っぽい油の匂いと、行き交う武芸者たちの雑多な気配が混ざり込んでくる。彼は泥まみれの身体を、路地裏に捨てられていた汚れた麻袋で覆った。額に刻まれた「奴」の烙印と、不気味な黒鉄の仮面を隠すためだ。


 一歩、足を踏み出すたびに、骨が軋み、肉が悲鳴を上げる。宿場町の路地は、薄い夜霧に包まれていた。白麗城での華美な喧騒とは対照的な、濁った活気。だが、新無赫にはその活気を味わう余裕などなかった。内傷を治療するための『清心丹』は、もう手元にない。このままでは、夜が明ける前に経絡が内側から崩壊し、ただの物言わぬ死体として泥溝に捨てられることになるだろう。


 その時だった。


 冷たい夜霧を引き裂くように、一筋の音が彼の耳孔を貫いた。


 ――トントン、ツ、テン――


 それは、琴の音だった。だが、ただの調べではない。その音波は、驚くほど澄んでおり、かつ刃のように鋭い指向性を持っていた。霧の粒子を物理的に切り裂き、新無赫の被る黒鉄の仮面の表面を微かに震わせるほどの、異様な「気脈の波」がそこには宿っていた。


(この音……、ただの琴ではない。真気が、音の振動に乗っている……)


 新無赫は、本能的にその音の源へと足を引きずった。視界を遮る鉄仮面のスリットからは、周囲の狭い死角しか見えない。彼は首を不自然に左右に振りながら、霧の中に佇む古びた茶館の裏路地へと侵入していった。そこは、完全に人通りが途絶えた、静寂の吹き溜まりだった。


 崩れかけた木の柵の向こう側、小さな石庭のテラスに、その女性は座っていた。


 薄紅色の着物を纏い、膝の上に古い琴を置いている。彼女の目元は、真っ白な絹の布で固く覆われていた。盲目の琴師――妙音(ミョウオン)であった。彼女の指先が、鋼の糸が張られた名琴『幽谷』の弦を優しく、かつ正確に弾くたびに、空気の波が不規則な同心円を描いて広がっていく。


 新無赫が庭の隅で息を潜めた瞬間、琴の音がピタリと止んだ。


「そこにいる影よ。あなたの呼吸は、あまりにも重く、あまりにも冷たい。山頂の冷気と、鉄の錆びた臭い、そして……消えぬ血の匂いを引きずっていますね」


 妙音の声は、静かな湖水のように穏やかだった。しかし、その言葉は新無赫の正体を正確に射抜いていた。新無赫は息を止め、左手で『天剣の鞘(テンケンノ・サヤ)』を固く握り締めた。いつでも喉元を突ける構え。だが、今の彼には、目の前の「二流武人」の気配を持つ琴師を力ずくでねじ伏せる内力は残されていなかった。


「……警戒する必要はありません」妙音は、目隠しの下から新無赫の方向へと顔を向けた。「私はただの盲目の琴師。一族の闘争にも、名門の権威にも興味はありません。ただ、あなたの仮面の内側から聞こえる『魂の叫び』が、あまりにも歪んでいたから、音を止めただけです」


「……俺を、どうするつもりだ」


 新無赫は、喉の筋肉を強引に収縮させ、司馬駿の傲慢な声を装おうとした。しかし、内傷による真気の枯渇は凄まじく、発せられた声は、掠れた奴隷本来の地声に近かった。


「その狭い仮面のスリット。あなたは、世界の半分しか見ていない」妙音が静かに琴の弦に指を置く。「視覚に頼る者は、暗闇の中で容易に命を落とす。あなたが生き延びたいと願うなら、私の『音の試練』を受けてみなさい。風の揺らぎを聴くことができれば、その仮面は、もはやあなたの死角にはならないでしょう」


 妙音の指先が、突如として激しく蠢いた。琴の弦が震え、空気の壁が圧縮される不気味な音が響く。修練の幕が、音もなく上がった。


 妙音が放った最初の音波は、不規則なリズムで空気の波(気流)を生成し、新無赫の全身を包み込んだ。新無赫は、仮面のスリットから見える僅かな光景の中に、何とか彼女の指の動きを捉えようとした。だが、彼の視界の狭さは致命的だった。右斜め後方から迫る、空気を圧縮した音波の衝撃波。それに気づいた時には、すでに遅かった。


 ドゴォッ! と、新無赫の右肩を、目に見えない空気の塊が直撃した。骨が軋み、亀裂の入った肋骨に激しい痛みが走る。新無赫はうめき声を上げながら、数歩後退した。


「目で追ってはなりません。目は嘘をつきます」妙音の冷徹な声が響く。「耳を澄ましなさい。風が、どこで遮られ、どこで乱れているかを」


 新無赫は、仮面の内側で奥歯を噛み締めた。彼は瞳孔を極限まで見開き、『万象眼(バンショウガン)』を起動した。視界が青白く澄み渡る。彼を取り囲む空気の中に、妙音の琴から放たれる音波が、空気を激しく震わせる「気流の網」として、不気味な路線図のように視覚化された。


(見える……。音の波が、空気を物理的に押し潰しながら、こちらへ向かってくる軌道が……!)


 新無赫は『無名呼吸法』の柔軟な経絡操作を用いて、自身の呼吸を完全に停止した。体内の真気の揺らぎをゼロにし、周囲の風の流れと同調する。しかし、視覚だけに頼っていては、全方位から迫る音波の「急所(最も強い振動)」を避けきることはできない。万象眼の酷使による脳への激しい負荷が、彼の視界を一時的にかすませた。


 ――チリ、と新無赫の皮膚の毛穴が、不自然な空気の「引き際」を捉えた。


 彼は、目で追うのを完全にやめた。ゆっくりと、仮面のスリットの奥で瞳を閉じる。暗闇の世界。だが、彼の五感は、かつてないほど鋭敏に拡張され始めていた。妙音から投げ渡された、極細の『聴風の琴弦(チョウフウノ・キンゲン)』を、彼は自身の指先に巻き付けた。その弦を通じて、空気中の微細な振動が、直接彼の指先の神経へと、驚くべき解像度で伝わってくる。


「ふふ……、貪欲な器ですね。風の引き際を、指先で捉え始めましたか」


 妙音の口元に、微かな笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼女の指先が、琴の弦の上で嵐のように激しく乱舞した。名琴『幽谷』の弦が、目に見えぬほどの速度で激しく振動し始める。


 ――キィィィン!


 空気を切り裂く、不気味な音の刃。月光の届かぬ暗い石庭に、数条の無形の風の刃が具現化し、新無赫の肉体を八つ裂きにせんと襲いかかった。その鋭い刃の先が、新無赫の被る黒鉄の仮面の頬をかすめ、耳を劈く金属音と共に、激しい火花が暗闇の中で散った。


 だが、新無赫は、一歩も動かなかった。彼の瞳は閉じられたまま。しかし、彼の耳と、全身の皮膚の毛穴、そして指先の『聴風の琴弦』が、迫り来るすべての音刃の軌道を、風の「流れ」として完全に捉えていた。耳元がピクリと動き、彼の身体は、最小限の傾きだけで、すべての音の刃を紙一重で受け流していた。


 風の音の中に、世界のすべてが描き出されていた。仮面の下の暗闇で、新無赫は、視覚を超越した『聴風の術(チョウフウノ・ジュツ)』の真髄を、今、その肉体に完全に刻み込もうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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