絶壁の死線と風の模倣
引き裂かれた天剣宗の細剣が、破片となって黒い泥の中へと静かに沈んでいく。名門の家督が帯びるべき華美な象徴は、鉄血門の放つ野獣のごとき真気の前には、あまりにも脆い鉄屑に過ぎなかった。
「ははは! 武器を失ったか、司馬駿! その鉄仮面ごと、叩き潰してやる!」
先遣隊長・牙狼(ガロウ)が、血に飢えた狂暴な咆哮を上げた。赤錆びた大刀『狼牙(ロウガ)』が、陽炎のように空気を歪める『赤陽経気』の熱風を纏い、新無赫(シン・ムカク)の無防備な首元を目がけて再び振り下ろされる。熱気が黒木林の湿った空気を焼き、鉄仮面のスリットから覗く新無赫の肌をじりじりと焦がした。
新無赫の体内は、限界を迎えていた。活血散の薬効が切れかけた丹田は冷え込み、経絡の至る所に走る微細な亀裂が、動くたびに針で刺されたような激痛を訴えている。まともな真気の運用は不可能。だが、仮面の下の瞳は、氷のように冷たく澄んでいた。
(……避ければ死ぬ。天剣宗の歩法では、この隘路での大刀の範囲から逃れられん)
新無赫は、右腕に負った火傷と破片による裂傷の痛みを精神の奥底へと押し込んだ。彼が選択したのは、回避ではなく、極限の奇策だった。丹田に残る最後の真気を、かつて鉄血門の密偵・赤鬼から万象眼で盗み取った『鋼体功・剛皮(コウタイコウ・ゴウヒ)』の気流パターンへと、強引に流し込む。
キィン――!
新無赫が右前腕を突き出した一瞬、彼の皮膚は冷たい黒鉄の光沢を帯びた。牙狼の鋸刃が大刀の重さと共にその腕に衝突した瞬間、耳を劈くような金属音が響き渡る。刃を素手で弾くという常軌を逸した光景に、牙狼の十字傷の顔が驚愕に歪んだ。
「なっ……剛体功だと!? 貴様、なぜ我が門派の――」
だが、その奇策の代償は凄まじかった。強引に経絡を硬化させた衝撃が、新無赫の傷ついた気脈を内側から直撃する。喉元までせり上がってきた黒い血を、新無赫は鉄仮面の内側で強引に飲み下した。口内に広がる濃厚な鉄の味が、彼の生存への執念をさらに研ぎ澄ます。
その驚愕の隙を突き、新無赫は左手に握り締めた『天剣の鞘』を突き出し、牙狼の胸元を強打して彼を後退させた。しかし、戦況が好転することはなかった。
頭上の梢が、不自然な静寂を伴って揺れた。風ではない。衣服の擦れる音すら消し去った、極限の暗殺の気配。新無赫の『聴風の術』が、真上から急降下してくる死の軌道を捉えた。
現れたのは、全身を漆黒の装束で包み、不気味な仮面を被った男――分家の司馬厳(シバ・ゲン)が、若家督の確実な抹殺のために放った第二の刺客、『無影脚の蛇(ムエイキャクノヘビ)』だった。
「無駄だ、身代わりめ。ここで果てよ」
刺客の喉から、低く掠れた声が漏れる。着地と同時に、彼の脚が目にも留まらぬ速度で蠢いた。音もなく、超高速で放たれる連続蹴り。それこそが、一瞬で敵の急所を破壊する絶技『無影脚(ムエイキャク)』だった。影すら残さぬ蹴りの嵐が、新無赫の四肢を執拗に狙う。
新無赫は『万象眼(バンショウガン)』を起動した。視界が青白く反転し、刺客の脚の筋肉が収縮し、真気が太腿から足先へと爆発的に流れる様子が透視される。しかし、彼の肉体は既に限界を超えていた。避けるべき軌道は見えているのに、自傷ダメージで麻痺しかけた足が、コンマ数秒の遅れを生み出す。
ドゴォッ! と、重い衝撃音が響く。刺客の鋭い蹴りが、新無赫の脇腹を捉えた。肋骨が軋み、肉が潰れる痛みが全身を駆け抜ける。新無赫の身体は、隘路の境界、底の見えない絶壁『飛鷹崖(ヒヨウガイ)』の端へと強引に押し込まれていった。背後からは、切り裂くような冷たい突風が吹き荒れ、奈落の深淵が口を開けて待っている。
「死ね!」
無影脚の蛇が、全身の真気を右足に集中させ、最後の一撃を新無赫の胸元に向けて放った。新無赫は本能的に左手の『天剣の鞘』を盾にしてこれを受け止めたが、凄まじい内力の衝撃が鞘を通じて全身に伝わり、彼の細身の身体は、ついに崖の端を割り、背後から真っ逆さまに落下し始めた。
「若家督――!」
崖の上から、柳雪桜(リュウ・セツオウ)の悲鳴のような叫び声が響いた。その声は、崖下を吹き荒れる突風の轟音にかき消され、急速に遠ざかっていく。雪桜の澄んだ瞳が、霧の深淵へと消えていく黒鉄の仮面を、絶望と共に凝視していた。
重力に引かれ、新無赫の身体は猛烈な速度で落下していく。吹き付ける突風が衣服を激しく引き裂き、仮面の隙間から冷たい風が侵入して顔面の熱傷を容赦なく叩いた。衣服を広げて風の抵抗を受けようとするが、崖特有の乱気流はあまりにも強く、衣服は無残に破れ去り、彼は制御を失って回転落下に陥った。このまま崖下の鋭い岩礁に激突すれば、肉体は跡形もなく砕け散る。
(……ここで、死ぬのか。他人の顔を被らされたまま、泥溝の犬のように……)
脳裏に、額に烙印を押された日の屈辱と、地下牢で死んでいった影二の凄惨な姿が蘇る。新無赫の心の中で、天剣宗への、そしてこの不条理な宿命への底知れぬ怒りが爆発した。彼は瞳孔を極限まで見開き、『万象眼』を強制的に限界突破させた。
視界が青白く澄み渡る。彼を取り囲む chaotic な突風の流れが、無数の青白い「気流の渦」として完全に視覚化された。崖肌を激しく叩き、上空へと吹き上げる強力な「上昇気流」の道筋が、網の目のように彼の眼裏に描き出される。
同時に、彼は先ほど『無影脚の蛇』から盗み取った、脚の筋肉の圧縮パターンを脳内で再現した。刺客が風の抵抗を殺し、超高速の蹴りを放つために行っていた肉体操作。それを、自身の全身の経絡へと応用する。
新無赫は体内の真気の循環を強引に逆流させ、全身の毛穴から微細な真気を噴出させた。落下する自身の肉体を、風の「流れ(渦)」へとシンクロさせる。風に逆らうのではなく、風の一部となるのだ。
衣服の破片が風を捉え、彼の身体は落下の軌道を微かに崖肌の方向へと傾けた。眼前に、崖肌から不自然に突き出た一本の巨大な古松の枝が迫る。
新無赫は模倣した『無影脚』の足さばきを空中で繰り出し、崖肌の突起を一瞬だけ蹴って落下の慣性を段階的に殺した。そして、最後の力を振り絞り、古松の太い枝へと両腕でしがみついた。
メキメキと音を立てて枝がしなり、新無赫の全身の骨が悲鳴を上げた。肋骨に鋭い亀裂が入り、経絡は完全に破裂寸前の痛みを訴えたが、彼はその枝を離さなかった。落下の凄まじい衝撃を、古松の弾力と、自身の泥臭い肉体の頑強さによって、ギリギリで吸収したのだ。
新無赫は満身創痍の肉体を引きずりながら、松の根元が這い入っている崖の途中の狭い岩棚へと這い上がった。そこには、かつての一族の内乱時に掘られた、外門の廃井戸へと繋がる、暗く狭い洞窟の入り口が、ぽっかりと口を開けていた。
崖の上から新無赫の落下を見つめる柳雪桜の悲鳴が遠ざかる。新無赫は満身創痍の肉体を引きずりながら、崖の途中の暗い洞窟の入り口へと這い進む。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!