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鉱山視察と黒い森の罠

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白麗城の威容が、遠ざかる朝霧の彼方へと消えていく。


 司馬駿(シバ・シュン)としての、初めての城外遠征。新無赫(シン・ムカク)は、揺れる馬車の天鵞絨(ビロード)の座席に深く腰掛け、鉄仮面の下で静かに呼吸を整えていた。丹田の奥底では、一昨日服用した『清心丹(セイシンタン)』の冷涼な真気が今も薄氷の層を形成し、活血散の反動による経絡の亀裂をかろうじて繋ぎ止めている。内力は未だに底を突きかけており、全力での戦闘など到底不可能な、極めて脆い「空の器」のままであった。


 だが、白麗城に留まり続けることは、宗主・司馬烈(シバ・レツ)の蛇のような猜疑心と、許嫁である柳雪桜(リュウ・セツオウ)の鋭い追及に自ら首を差し出すも同然だった。新無赫は自らの地位を確固たるものにし、同時にこの壊れかけた肉体を根本から治療する極毒の薬草『蛇胆草(ジャタンソウ)』を調達するため、国境の鉱山視察という大義名分を創り出したのだ。名目は、天剣宗の財政基盤である特殊鉱物『天白鉄(テンビャクテツ)』の採掘状況の監査。これならば、誰もが納得する若家督としての正当な任務であった。


 馬車の窓から外を窺うと、並走する白馬の背に、雪のように白い武服を纏った凛とした人影があった。柳雪桜。彼女は今回の視察に、柳家使節団の精鋭を護衛として同行させることを強く主張した。表向きは婚姻を控えた婚約者への配慮だが、その澄んだ瞳の奥には、新無赫の「正体」を暴こうとする冷徹な鑑定者の執念が燃えていることを、新無赫は誰よりも理解していた。


 彼女の視線が、時折、馬車の窓越しに新無赫の黒鉄の仮面へと向けられる。新無赫は『仮面偽装』を維持し、あえてだらしなく背を預け、薬物依存に喘ぐ無能な若家督の「濁った呼吸」を意図的に漏らした。だが、雪桜の眉は微かに細められたままだ。演武場で彼女が目撃した、あの無駄のない、泥臭くも圧倒的な「生存の剣筋」の残響は、そう簡単に彼女の脳裏から消え去るものではなかった。


 使節団の列が天剣宗の直轄領を抜け、国境付近の険しい山岳地帯へと差し掛かった頃、周囲の風景は一変した。行く手に立ち塞がるのは、陽の光を完全に遮断する鬱蒼とした原始林――『黒木林(コクボくりん)』。切り立った崖と巨大な黒い大木が、まるで巨獣の牙のようにうねり、不気味な静寂が辺りを支配していた。


「若家督、これより黒木林へと入ります。国境に近いため、警戒を強めます」


 馬車の脇に寄せた護衛の張平(チョウ・ヘイ)が、低い声で告げた。彼の右手の包帯は、新無赫に折られた指の痛みを物語っていたが、その忠実な態度には一点の乱れもなかった。新無赫はただ、仮面の下から傲慢な鼻鳴らしを一つ返すだけで応じた。


 黒木林の内部は、昼なお暗く、湿った泥と腐葉土の不気味な臭いが立ち込めていた。馬車の車輪が湿った土に沈み、鈍い音を立てる。新無赫の鋭い知覚は、森の奥から漂ってくる、わずかな「鉄と血の臭い」を敏感に捉えていた。天剣宗の華美な白麗城とは異なる、荒々しく、好戦的な真気の気配――鉄血門(テッケツモン)の気配だ。


(……なぜ、これほど深く鉄血門の隠密が入り込んでいる?)


 新無赫は冷酷に思考を巡らせた。この視察ルートは、一族の極秘事項のはずだった。だが、答えは一つしかない。副宗主・司馬厳(シバ・ゲン)。あの野心に狂った分家の支配者が、若家督の「事故死」を確実にするため、移動ルートを鉄血門・隠密部隊(テッケツモン・オンミツブタイ)に漏洩したのだ。


 キィ……と、不自然な風の鳴る音が、新無赫の『聴風の術』に引っかかった。それは、風ではない。極めて洗練された、重い身のこなしによる空気の圧縮音。大木の上、そして崖の陰――無数の気配が、使節団を包囲するように急速に収束していく。


「――伏兵だ! 陣を組め!」


 張平の鋭い叫び声が、黒木林の静寂を切り裂いた。その瞬間、森の闇が牙を剥いた。


 崖上から、巨大な岩石が凄まじい轟音と共に落下し、使節団の馬車の一台を直撃して木端微塵に粉砕した。悲鳴と怒号が響き渡る中、樹上から無数の黒衣の戦士たちが音もなく舞い降りてくる。鉄血門の精鋭たちだ。


「天剣宗の腑抜けどもめ、ここが貴様らの墓場だ!」


 崖の上に姿を現したのは、狼の毛皮を肩に羽織り、顔に大きな十字傷を持つ精悍な大男――鉄血門の待ち伏せ兵、牙狼(ガロウ)。彼の持つ名刀『狼牙』の鋸刃が、鈍い赤錆びた光を放っていた。牙狼は不敵な笑みを浮かべ、天剣宗の使節団を全滅させるための突撃を命令した。


「若家督を守れ!」


 天剣宗の護衛たちが剣を抜き、正統な防御陣形を組もうとする。しかし、黒木林のうねる根や密集した大木が彼らの足元を狂わせ、陣形は一瞬にして乱れた。そこへ、全身を『鋼体功(ゴウタイコウ)』によって鋼鉄のように硬化させた鉄血門の戦士たちが、肉体の質量そのものを武器にして突撃してきた。硬質な衝突音が響き、天剣宗の華麗な防壁は、その圧倒的な個の武力の前に次々と打ち破られていく。柳家の護衛たちも必死に盾を構えるが、崖上から放たれた極毒の矢が彼らの肩や喉を貫き、数人が黒い血を吐いてその場に崩れ落ちた。


 完全な大混乱。使節団は、完璧な包囲奇襲によって、一瞬にして壊滅の危機へと叩き落とされた。


 新無赫は、破壊された馬車の破片を押しのけ、静かに地面へと降り立った。彼の体内の真気は依然として枯渇しており、まともな内力による防御壁すら張れない。だが、彼の鉄仮面のスリットの奥で、漆黒の瞳が不気味な青白い光を帯びて起動した。


(万象眼(バンショウガン)、起動――)


 引き伸ばされた時間の知覚世界の中で、新無赫は周囲の状況を冷徹に分析した。森の影、木の葉のざわめき、そして崖の亀裂――伏兵たちの呼吸の深さと、彼らの経絡を流れる真気の「結節点」が、鮮やかな光の糸となって新無赫の脳内へと直接流れ込んでくる。どこに何人潜んでいるか、次の矢がどの軌道で放たれるか、すべてが彼の眼の中に描かれていた。


 ヒュッ、と新無赫の喉元を狙って放たれた一本の毒矢。新無赫は、天剣宗の華麗な剣技でそれを弾くことはしなかった。そんな無駄な内力消費は、今の彼の経絡には致命傷となる。彼はただ、最も近くにある巨大な黒い大木の幹の影へと、最小限の、しかし極めて実戦的な身のこなしで身体を滑り込ませた。大木が鈍い音を立てて矢を受け止める。


 その、あまりにも「泥臭く、生き延びることに特化した奴隷の動き」を、すぐ近くで剣を構えていた柳雪桜の鋭い瞳が、確実にとらえていた。彼女の『極寒清心功』の真気が一瞬だけ乱れ、驚愕の光がその顔に走る。


(――やはり、この男は司馬駿ではない。この極限状態での、あの迷いのない冷酷な生存の身のこなしは……!)


 だが、彼女がその疑惑を追及する時間すら、黒木林の死線は許さなかった。


 新無赫が潜む大木の影から、一人の鉄血門の伏兵が、大刀を振りかざして音もなく飛びかかってきた。新無赫は剣を抜かなかった。抜けば、自身の天剣宗の剣技の不完全さ、あるいは他派の技の残滓が雪桜の目の前で露呈する。彼はただ、左手に握り締めていた、若家督の権威の象徴である『天剣の鞘(テンケンノ・サヤ)』を、無造作に突き出した。


 真気はほとんど乗っていない。だが、新無赫の『万象眼』がとらえたのは、襲いかかる伏兵の喉元――皮膚のすぐ下で最も激しく脈動している、真気の「結節点(急所)」だった。


 ゴキリ、と鈍い骨折音が響いた。


 新無赫の放った『天剣の鞘』の先端が、伏兵の喉笛の結節点へと寸分の狂いもなく突き刺さり、彼の真気循環を一瞬にして完全に崩壊させたのだ。伏兵は白目を剥き、声すら上げられずにその場に崩れ落ちた。内力に頼らず、ただ「敵の構造的弱点」を突くことだけで一流の戦士を沈黙させる、恐るべき戦闘知性。


 しかし、その冷酷な勝利も、押し寄せる圧倒的な暴力の嵐の前には、ただの一時に過ぎなかった。


 崖の上で、それを見届けていた牙狼の十字傷のある顔が、怒りと狂暴な歓喜に歪んだ。彼は大刀『狼牙』を頭上に掲げ、黒い大木の間から、鉄血門の不気味な赤錆びた大刀が光る。牙狼が不敵な遠吠えを上げると同時に、無数の矢の雨が新無赫たちに降り注ぐ。

HẾT CHƯƠNG

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