深まる疑惑の影
大演武場を埋め尽くした千人を超える弟子たちの、割れんばかりの驚愕とざわめきが、白麗城の冷たく長い回廊を進むにつれて、徐々に遠ざかっていく。
新無赫(シン・ムカク)は、一歩進むごとに全身の骨が軋み、肉が引き裂かれるような錯覚に襲われていた。彼の顔面を覆う『黒鉄の仮面』の裏側は、すでに滝のような冷や汗と、喉の奥から逆流してきた黒い血で満たされている。歩行を維持できているのは、ただ「ここで倒れれば即座に正体が露呈して処刑される」という、奈落の底で培われた野生の生存本能のみだった。
「若家督、お気を確かに……。間もなく居室でございます」
すぐ隣で、侍女のお蓮(オレン)が極めて低い、震える声で囁いた。彼女の右手は、かつて新無赫に指の関節を踏み折られたため、白い包帯が痛々しく巻かれている。お蓮は新無赫の圧倒的な冷酷さと、本物の司馬駿(シバ・シュン)を凌駕する不気味な実力に完全に精神を屈服させられていた。彼女は周囲の衛兵たちに不審を抱かせぬよう、若家督の身体を労わる極めて自然な所作を装いながら、自身の細い肩で新無赫の重い体重を必死に支えていた。
回廊の角を曲がるたび、新無赫の体内で『活血散(カッケツサン)』の赤い真気が急速に収縮し、消えていくのが分かった。爆発的な内力を与えてくれた禁忌の薬効が切れた瞬間、襲ってきたのは、経絡を直接火で炙られるような強烈な反動だった。丹田(タンデン)は空っぽになり、全身の気脈が激しく痙攣している。一歩、また一歩と、足の感覚が麻痺していく。
ようやく辿り着いた『白麗城・若家督の居室』の重厚な木扉をお蓮が素早く開け、新無赫を滑り込ませた。扉が閉まり、頑丈な鉄の閂(かんぬき)がカチリと音を立てて下ろされた瞬間、新無赫の張り詰めていた糸が完全に切れた。
「が、はっ……!」
新無赫は膝から崩れ落ち、大理石の冷たい床に両手をついた。鉄仮面の下部、顎の鋭い隙間から、溜まっていた厚い黒色の血(経絡の自傷による黒い血)がドッと床に吐き散らされた。白大理石の床の上に、不気味な黒い斑点が広がっていく。
「若家督!」
お蓮が悲鳴を上げそうになるのを、自身の包帯が巻かれた手で必死に口を塞いで抑えた。彼女の瞳には、新無赫に対する底知れぬ恐怖が宿っている。新無赫は激しく喘ぎながら、震える手で懐を探り、小さな碧色の丸薬を取り出した。それは、一族のお抱え医師であった陶庵(トウアン)から、極秘裏に処方させた高級な内傷治療丹薬――『清心丹(セイシンタン)』だった。
新無赫は仮面を外す余裕すらなく、スリットの隙間からその丸薬を口内へと押し込み、強引に飲み下した。
清心丹が胃の中で溶けた瞬間、凍てつくような極寒の冷気が食道から全身の経絡へと一気に噴き出した。それは、まるで沸騰した溶岩が流れていた水路に、極寒の雪解け水を流し込むような劇的な変化だった。
「う、ぐうぅ……!」
新無赫は背中を丸め、歯を食いしばってその激痛に耐えた。他派の技を模倣するために強引に変形させられ、至る所に亀裂が入っていた彼の経絡(経絡開通限界)が、清心丹の冷涼な薬効によって、薄い氷の膜で塞がれるように急速に鎮静化していく。暴走していた真気の衝突が収まり、心臓の狂ったような鼓動が徐々に静かになっていく。しかし、それは一時的な応急処置に過ぎず、彼が一時的に全力を出せないほどの深刻な真気枯渇状態にあることに変わりはなかった。
お蓮が震える手で濡れ雑巾を持ち、床に散った黒い血を必死に拭き取り始めた。その背中を見つめながら、新無赫は冷酷に思考を巡らせていた。
(……司馬勇(シバ_ユウ)を倒したことで、分家の司馬厳(シバ・ゲン)は焦りを募らせる。次は、より陰湿な暗殺を仕掛けてくるはずだ。そして、何よりも……)
上座から自身を凝視していた、宗主・司馬烈(シバ・レツ)のあの冷酷な眼光。息子の劇的な勝利を喜ぶどころか、一族を脅かす未知の怪物を警戒するような、あの蛇のような視線が、新無赫の脳裏に焼き付いて離れなかった。
その時だった。居室の外、静まり返った廊下から、軽やかで冷たい足音が近づいてくるのを、新無赫の鋭い五感が捉えた。衣服が擦れるわずかな音。それは、天剣宗の正統な軽功の音ではない。もっと鋭く、氷のように澄んだ――
(――柳雪桜(リュウ・セツオウ)!)
新無赫の全身の毛穴が一瞬にして収縮した。お蓮も手を止め、恐怖に顔を青ざめさせて新無赫を見つめた。
トントン、と控えめだが、拒絶を許さない明確な意思を持ったノックの音が響いた。
「駿様、お加減はいかがかしら。演武場での見事な勝利、許嫁として直接お祝いを申し上げたくて参りましたの」
扉越しに響いたのは、鈴を転がすような澄んだ、しかし極めて冷たい柳雪桜の声だった。彼女の放つ『極寒清心功』の微微たる真気の揺らぎが、扉の隙間から室内の空気をピリピリと震わせている。彼女は、大演武場で「司馬駿」が見せた最小限の回避動作と、大理石に滴り落ちた一滴の黒い血の残滓を、その鋭い瞳で確実に見届けていた。彼女の疑惑は、すでに確信に近い領域に達しているのだ。
「お蓮、開けなさい。若家督の様子を、この目で確かめたいのです」
雪桜の声が、さらに鋭さを増す。新無赫はベッドの上に音もなく横たわり、お蓮に向けて、顎で静かに指示を出した。お蓮は小さく頷き、折れた指の痛みに耐えながら、扉の閂をゆっくりと外した。扉が数寸だけ開かれ、お蓮がその隙間を自身の身体で塞ぐようにして、外に立つ雪桜と対峙した。
「……柳家のお嬢様。大変申し訳ございません。若家督は先ほどの激しい決闘による疲労と、お薬の反動により、すでにお休みになられております」
お蓮の声は、完璧に「傲慢な主君に怯える侍女」のものだった。だが、雪桜の澄んだ鋭い瞳は、お蓮の包帯が巻かれた右手を一瞬だけ見つめ、それから扉の隙間から室内の暗闇へと向けられた。
「お蓮、通しなさい。私はただ、許嫁としての務めを果たしたいだけよ。彼が本当に『疲労』だけで眠っているのか、この目で確かめる必要があるわ」
雪桜が一歩踏み出そうとしたその瞬間、新無赫はベッドの上で、自身の呼吸と心拍を極限まで低下させる『仮面偽装』を起動した。体内の真気の残滓をすべて丹田の最深部へと押し込め、ただの「呼吸の浅い、薬物で衰弱しきった腑抜けの司馬駿」の気配を作り出す。室内に漂う空気から、張り詰めた殺気や武人の覇気が完全に消え去り、代わりに本物の司馬駿が好む自堕落な香煙の臭いだけが強調された。
雪桜は扉の隙間から室内の気配を感じ取ろうと、自身の極寒の真気を微かに送り込んだ。だが、彼女の感知に引っかかったのは、ただの弱々しく、乱れた、凡庸な三流武人の呼吸音だけだった。
「……そう、本当にお休みになられているのね」
雪桜は瞳を微かに細め、探るような視線を暗闇の奥のベッドへと投げかけた。彼女の美しい顔には、納得したような、しかし同時に「何かが決定的に狂っている」という不気味な疑惑の影が、より深く刻まれていた。
「お蓮、若家督がお目覚めになられたら、お伝えして。――『あなたの本当の剣筋を、私は決して忘れない』と」
雪桜はそれだけを言い残し、静かに踵を返して去っていった。その足音が完全に消え去るまで、室内の緊張感は氷のように張り詰めていた。
お蓮が扉を閉め、再び閂を下ろした瞬間、新無赫はベッドから上半身を起こし、仮面のスリットから床を見つめた。床には、お蓮が拭き取りきれなかった、一滴の黒い血の残滓が、白大理石の微細な亀裂に染み込んで残っていた。
(……柳雪桜は、私を偽物だと確信している。そして司馬烈も、私の力を邪派の禁忌と疑い、監視を強めるだろう。この白麗城は、もう安全な鳥籠ではない)
新無赫は、拭き掃除を続けるお蓮の後ろ姿を冷酷に見つめながら、体内で静かに脈動し始めた清心丹の冷気を感じ取っていた。一族の監視を完全に引き離し、自身の地位を不動のものにするための「次なる一手」――白麗城の外部へ移動する『鉱山視察』の任務を利用する計画が、彼の脳裏で冷徹に描き出されようとしていた。
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