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演武場の宣戦布告

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部屋の隅に置かれた真鍮の香炉から、白檀の甘い香煙がゆったりと立ち上っている。それは昨夜、この床の上で繰り広げられた凄惨な暗殺劇の痕跡――肉と骨が溶け去った酸っぱい異臭を完全に覆い隠していた。


 白麗城の奥深くに位置する宗主正妻の居室。冷たい空気の満ちるその部屋で、お蓮(オレン)は硬い石床に額を擦り付け、身を縮めていた。彼女の右手には、痛々しい白い包帯が幾重にも巻き付けられている。


「……その手はどうした、お蓮」


 玉座に似た長椅子に腰掛け、豪華な紫の羽織を纏った柳夫人(リュウ・ブジン)が、冷艶な瞳を細めて問いかけた。その声音には、我が身の安全と一族内の権力維持に対する執念だけが冷たく宿っている。


「は……。若家督が昨夜、薬の効きが遅いと激昂されまして……。私の右手の指を無慈悲に踏み折られました。すべては、私の不手際でございます」


 お蓮の声は恐怖に小刻みに震えていた。それは半分は演技であり、半分は昨夜、鉄仮面の男――新無赫(シン・ムカク)から叩き込まれた本物の恐怖の残響だった。新無赫に命じられた通り、彼女は自身の怪我を「若家督の気まぐれな暴挙」として報告したのだ。


 柳夫人の口元に、冷酷な満足の笑みが浮かんだ。彼女は我が子である司馬駿(シバ・シュン)の退廃的で暴力的な性格を熟知している。薬物によって理性を失い、侍女に八つ当たりをするその姿こそ、彼女が望む「扱いやすい操り人形」そのものだった。


「ふん、相変わらずの腑抜けめ。お前が盛っている『軟香散(ナンコウサン)』は順調に奴の気脈を蝕んでいるようだな。そのまま奴を薬の霧の中に溺れさせておけ。余計な知恵を持たせるな」


「御意のままに……」


 お蓮は深く平伏した。彼女の心はすでに、柳夫人ではなく、あの暗闇で牙を剥いた鉄仮面の奴隷に完全に支配されていた。逆らえば一瞬で命を奪われる。その絶対的な支配関係が、彼女の口を完璧に封じていた。


 同じ頃、若家督の居室。新無赫はベッドの端に腰掛け、仮面の下で荒い呼吸を整えていた。昨夜、暗殺者・黒蜘蛛を仕留めるために放った『無影脚(ムエイキャク)』の反動が、彼の右脚の筋肉を激しく痙攣させている。さらに、強引に経絡を変形させて他派の真気を流したことで、体内の気脈には微細な亀裂が走り、熱い血が喉元までせり上がってきていた。


(――まだだ。ここで倒れるわけにはいかない)


 新無赫は懐から安価な外傷薬である『百草液(ヒャクソウエキ)』を取り出し、鉄仮面の額の傷口へと塗り込んだ。じくじくと焼けるような痛みが走るが、翌朝の点呼までに傷を塞がねば正体が露呈する。奴隷として培った強靭な肉体だけが、この過酷な自傷行為を支えていた。


 その時、居室の重厚な木扉が、何の前触れもなく激しく蹴り破られた。


 バァン、と凄まじい衝撃音と共に扉が左右に弾け飛び、部屋の中に冷たい風が吹き込む。新無赫は一瞬にして司馬駿の「傲慢かつ自堕落な佇まい」を作り出し、だらしなくベッドに背を預けた。


 現れたのは、金糸で豪華な装飾が施された青い長衣を纏う青年剣士――分家の嫡男であり、一族屈指の天才と名高い司馬勇(シバ_ユウ)だった。その端正な顔立ちには、隠しようのない傲慢な笑みと、鉄仮面の主君に対する深い軽蔑が刻まれている。彼の腰には、名匠が鍛え上げた細剣『青嵐(セイラン)』が不気味に光っていた。


 そして、その背後には、重厚な黒鉄の鎧を纏った副宗主・司馬厳(シバ・ゲン)が、巨大な重剣『破山(ハザン)』を背負って静かに佇んでいる。司馬厳の鋭い眼光が、居室の隅々、特に排水口の周囲を不自然に走った。


(……黒蜘蛛の痕跡を探しているな)


 新無赫は仮面のスリットの奥で、冷徹にその動きを観察していた。司馬厳は自身が放った一級の暗殺者が、音もなく失踪したことに焦りを抱いているのだ。だが、影三(エイゾウ)の『化屍散(かしさん)』によって死体は骨ごと完全に溶け去っており、部屋には白檀の甘い香煙しか残されていない。司馬厳の眉が、不審そうに微かに歪んだ。


「――おい、腑抜けの従弟よ。まだ生きていたか」


 司馬勇が不敵な足取りで部屋の中央へと歩み寄り、懐から一枚の重厚な木札を取り出した。それは、一族の掟において絶対的な効力を持つ、公式な決闘の挑戦状――宣戦布告の木札だった。


 司馬勇はそれを、新無赫の足元に向けて乱暴に投げ捨てた。木札が大理石の床の上を滑り、乾いた音を立てて新無赫の靴先に当たって止まる。


「明日、陽が昇ると同時に、白麗城・大演武場(ハクレイジョウ・ダイエンブジョウ)へ来い。お前がその天剣宗の家督にふさわしい資質を持っているか、一族の弟子全員の前で、この俺が直々に試してやる」


 司馬勇の声には、圧倒的な実力者としての自負が満ちていた。彼は二流武人の上位。同世代では敵なしと評され、その剣技『天剣九式・嵐撃』は嵐のような超高速の連撃を誇る。対する司馬駿(中身は新無赫)は、基礎すら怠った三流以下の腑抜け。公衆の面前での決闘は、若家督の無能を完全に晒し、家督継承権を実力で強奪するための分家の完璧な罠だった。


 新無赫は喉の筋肉を精密に収縮させ、司馬駿の傲慢で退廃的な声を響かせた。


「ふん……分家の野良犬が、随分と吠えるようになったものだな。この俺に剣を向けた代償がどれほどのものか、その身に教えてやろう。明日の朝、演武場で待っていろ」


 その挑発的な態度に、司馬勇の目が一瞬だけ鋭く光った。だが、彼はすぐに鼻で笑い、踵を返した。


「せいぜい、今夜のうちに遺言でも書いておくことだな。明日の演武場がお前の墓場になる」


 司馬厳は一言も発せぬまま、最後に新無赫を深く睨みつけ、息子と共に部屋を去っていった。扉が閉まった瞬間、新無赫は激しい咳き込みと共に、仮面の下で黒い血を吐き出した。ベッドのシーツに、赤黒い斑点が広がる。


(……今の私の経絡では、司馬勇の『天風剛気功』による超高速の剣技に耐えられない。百家模倣を起動した瞬間、私の気脈は内側から破裂する)


 新無赫は自身の肉体の限界を冷徹に分析していた。無名呼吸法による温かい真気は、未だ細い糸のようなものに過ぎない。天才剣士の嵐のような連撃に対抗し、かつ周囲の鑑定の目を欺くためには、一時的にでも爆発的な内力を得る「ハッタリ」が不可欠だった。


 彼が思い至ったのは、宗家の薬庫の最深部に秘匿されている禁忌の内功促進剤――『活血散(カッケツサン)』だった。


 血流を極限まで活性化させ、一時的に真気の循環速度を数倍に跳ね上げる赤い粉末。だが、それは自身の経絡を焼き焦がし、使用後には全身の経絡が完全に麻痺するという、命を削る禁薬だった。


 新無赫は窓の外の闇を見つめ、低い口笛を吹いた。しばらくすると、居室の窓から、痩せ細った奴隷の少年――小鉄(コテツ)が、音もなく滑り込んできた。彼の動きには、新無赫から密かに授けられた『無名歩法・泥滑り』の、滑らかで無駄のない気配が宿り始めていた。


「……兄貴、お呼びですか」


 小鉄の澄んだ瞳には、新無赫に対する狂信的なまでの忠誠心と敬意が輝いていた。新無赫は仮面のスリットから彼を見つめ、静かに命じた。


「小鉄。今夜、宗家の薬庫へ潜入し、赤い粉末の入った小瓶――『活血散』を盗み出せ。薬庫の衛兵は、三更(深夜子時)の点呼の直後、一瞬だけ巡回ルートに隙が生じる。そこを泥滑りの歩法で駆け抜けろ」


 小鉄は一瞬だけ息を呑んだ。宗家の薬庫への潜入。見つかれば、その場で五体を引き裂かれて処刑される、文字通りの自殺任務だった。しかし、少年の瞳に躊躇の色は一切なかった。彼は深く頷き、胸元の黒鉄の短剣を握り締めた。


「兄貴のためなら、地獄の底へでも行って盗んできます。明日の朝までに、必ず」


「死ぬなよ、小鉄。気配を消し、ただの風となれ」


 小鉄は音もなく窓から闇へと消え去っていった。新無赫は一人、暗い部屋で無名呼吸法を繰り返し、体内の僅かな真気を整えながら、少年の帰還を待ち続けた。一秒が、一年のように長く感じられる、極限の焦燥の夜が更けていく。


 夜明け前、東の空が白み始めた頃。窓枠が微かに揺れ、全身を泥と擦り傷で汚した小鉄が、息を切らしながら部屋へと滑り込んできた。彼の右手には、厳重に封印された小さな紙包みが握られていた。


「……兄貴、やりました。衛兵の影をすり抜けて、これを……」


 小鉄は力なく笑い、その場に崩れ落ちた。彼の衣服の隙間からは、侵入時に負ったであろう微細な裂傷から血が滲んでいた。新無赫は小鉄の体をやさしく抱き起こし、ベッドの脇に座らせた。そして、手渡された紙包みを開いた。


 中には、血のように真っ赤な、不気味に微光を放つ粉末――『活血散』が入っていた。


 新無赫はその赤い粉末をじっと見つめた。これを飲めば、数時間は一流達人並みの爆発的な内力を発揮できる。だが、その代償は、経絡の完全な麻痺と、毎夜の激痛を遥かに凌駕する肉体の崩壊だった。文字通り、自身の命を薪にして燃やす、禁忌の炎。


(――他人の顔を被り、他人のために命を削る。これが、大役(タイヤク)の宿命か)


 仮面の下で、新無赫は冷酷に微笑んだ。彼は赤い粉末を躊躇なく口に含み、一気に飲み込んだ。


 瞬間、彼の体内で、溶岩のような熱い真気が爆発的に沸き立った。経絡を引き裂き、血管を焼き焦がしながら、猛烈な勢いで内力が全身の隅々へと循環していく。鉄仮面の奥の瞳が、不気味な青白い光を放ち、周囲の空気が彼の放つ圧倒的な真気の圧力で激しく振動し始めた。一時的な「若家督級」のハッタリのオーラが、彼の細身の肉体を完全に包み込む。


 新無赫は、腰に帯びた天剣の鞘を静かに握り締めた。彼の身体は激痛で悲鳴を上げていたが、その一歩一歩は、白麗城の大演武場へと向けて、極めて堂々と、そして冷酷に踏み出された。


 運命の朝の光が、鉄仮面の冷たい表面を鋭く照らし出していた。

HẾT CHƯƠNG

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