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鉄面の刻印

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凍てつく闇と、腐臭。それが、新無赫(シン・ムカク)が十七年の人生で貪り食ってきた世界のすべてだった。


 天剣宗の最底辺に位置する地下牢。湿った石壁からは絶えず冷たい水滴が滴り落ち、泥と糞尿、そして息絶えた奴隷たちの死臭が混ざり合った悪臭が立ち込めている。新無赫の四肢を縛る重い鉄枷は錆び付き、動くたびに彼の痩せ細った、しかし過酷な労働と鞭打ちによって鋼のように引き締まった肉体を削り取っていた。彼の階級は「家奴級(カド・キュウ)」。人間としての尊厳など塵ほども与えられず、ただ一族の気まぐれな暴力に耐え、生き延びるためだけの泥臭い頑強さだけが、彼の唯一の財産だった。


 不意に、静寂を引き裂くように重い鉄扉が開き、松明の赤い炎が地下牢の湿った空気を揺らした。荒々しい靴音が近づいてくる。新無赫は仮面の下に覗く細い瞳孔を細め、殺気を含んだ光を見つめた。


「引きずり出せ。宗主の命令だ」


 冷酷な声が響き渡る。戒律堂(カイリツドウ)の牢番たちが、抗う力を持たない新無赫の髪を掴み、濡れた石畳の上を容赦なく引きずり始めた。摩擦で皮膚が裂け、鋭い痛みが走るが、新無赫は呻き声一つ上げなかった。彼の額には、かつて焼き付けられた屈辱の象徴――「奴」の烙印が、黒紫色の傷痕となって刻まれている。その烙印が、泥を擦り付けられて熱く疼いた。


 連行された先は、天剣宗の深部に隠された禁域――「鉄仮面鋳造室(テッカメンチュウゾウシツ)」だった。


 部屋の中央に鎮座する巨大な溶鉱炉が、摂氏数百度の熱風を吹き出している。赤黒い炎が壁面を不気味に照らし、空気は鉄の焼ける臭いと煤煙で満ちていた。その炉の前に、黒い長衣を纏った一人の老人が静かに佇んでいた。戒律堂の長老、司馬敬(シバ・ケイ)である。痩せこけ、深い皺が刻まれたその顔には、一切の慈悲が存在しない。彼の細められた瞳は、まるで実験台の家畜を見るかのように、新無赫の肉体を冷徹に観察していた。


「連れてまいりました、長老」


 牢番たちが新無赫を重い鉄の拘束台へと叩きつけ、四肢を太い万力で固定した。新無赫の肉体がきしみ、骨が悲鳴を上げる。しかし、彼の視線は、司馬敬の隣に置かれた奇妙な台の上に釘付けになっていた。


 そこには、炉の余熱を浴びて鈍く黒光りする、不気味な黒鉄の仮面が置かれていた。人間の表情を完全に遮断するその冷酷なデザイン。そしてその仮面の内側には、脳髄へと向かって突き刺さるように設計された、三本の極細の鋼針――起爆針が仕込まれていた。


 司馬敬がゆっくりと歩み寄り、新無赫の顎を乱暴に掴み上げて顔を左右に振らせた。


「ふむ……顔立ちは確かに、駿(シュン)に生き写しだな。泥と傷を洗い流せば、宗主の直系と言われても誰も疑うまい」


 司馬敬の声は、凍りついた沼の底のように冷たかった。新無赫は仮面を睨みつけ、かすれた声で問いかけた。


「……俺を、どうするつもりだ」


「光栄に思うがいい、家奴よ」司馬敬は薄く笑った。「天剣宗の正統なる跡継ぎ、若家督・司馬駿様が、一昨夜、薬物の過剰摂取によって昏睡状態に陥られた。一族の体裁を守り、分家どもの不穏な動きを牽制するため、お前が『駿』として表舞台に立つ。それがお前に与えられた『大役(身代わり)』だ」


「若家督の、身代わり……」


「そうだ。だが、家奴が主人の服を纏ったところで、その牙が主人に向かぬとは限らん。ゆえに、この『黒鉄の仮面(コクテツノ・カメン)』を被ってもらう」


 司馬敬が手にしたのは、複雑な歯車と魔気、そして真気が連動する起爆装置の鍵盤だった。彼は仮面の内側の起爆針を指し示し、新無赫に冷酷な現実を突きつけた。


「この仮面の内側に仕込まれた三本の針は、お前の首元と額の経絡に直接食い込む。私がこの鍵盤を叩くか、あるいはお前が一族を裏切り、この仮面を自力で外そうとすれば、針は一瞬でお前の脳を破壊し、肉体を廃人へと変える。逃亡は死、反逆も死だ。お前はただ、司馬駿という人形を守るための、物言わぬ盾として生きるのだ」


 新無赫の体内で、奴隷として長年蓄積されてきた天剣宗への底知れぬ憎悪が、怒濤となって荒れ狂った。丹田に微かな真気が渦巻こうとする。家奴級の彼にはまともな内力などないはずだったが、生き延びるための執念が、彼の肉体を限界を超えて突き動かした。彼は万力を引きちぎろうと、全身の筋肉を硬化させ、鉄枷を激しく鳴らした。


「おお、まだ抵抗する牙が残っていたか」


 司馬敬が冷酷に指先を動かした。彼の指から放たれた極寒の真気が、新無赫の首元の経絡を突いた。瞬間、新無赫の体内の真気循環が強制的に停止させられ、激しい衝撃が内臓を揺らした。新無赫は口から真っ黒い血を激しく吐き出し、鉄の台の上にへたり込んだ。肉体が鉛のように重く、指一本動かすこともできない。


「無駄な抵抗はよせ。お前は家畜だ。家畜が主人の意志に抗うことなどできん」


 司馬敬が合図を送ると、老鍛冶屋が巨大なペンチで、溶鉱炉から鈍い赤色に発熱した『黒鉄の仮面』を取り出した。仮面から放たれる圧倒的な熱風が、新無赫の顔面の皮膚を焼き、髪を焦がした。死の恐怖が、彼の脳髄を支配する。


「熱着を始めよ」


 司馬敬の冷酷な命令と共に、赤熱した鉄仮面が、新無赫の顔面へと近づけられた。


「いや……止めろ……!」


 新無赫は心の中で叫んだが、肉体は麻痺して動かない。次の瞬間、熱せられた黒鉄が、彼の皮膚に直接押し当てられた。


 ジィィィィ――ッという、肉の焦げる不気味な音が鋳造室に響き渡った。白煙が立ち上り、新無赫の顔面の皮膚が、熱鉄の縁と同化するように焼き焦げていく。髪が燃え、皮膚がただれ、脂肪が溶ける凄まじい激痛が、彼の精神を奈落の底へと突き落とした。


「ぎ、あ、あああああああああああああッ!!」


 喉が張り裂けんばかりの絶叫が、鉄仮面の内側で反響した。あまりの苦痛に、彼の意識は狂気の一歩手前まで揺らいだ。脳が熱で沸騰し、思考が白く染まっていく。


(ここで、死ぬのか……? 奴らの道具として、顔も名前も奪われて、泥のように死ぬのか……!?)


 いや、死ねない。ここで消え去ることなど、彼の生存本能が許さなかった。新無赫は激痛の嵐の中で、かつて地下牢のゴミ溜めで盲目の老人・灰庵から密かに教わった、基礎的な呼吸循環法――後の『無名呼吸法』の極意の断片を、必死に手繰り寄せた。


 吸う息を細く、長く。痛みを熱として丹田に落とし込み、心拍を無理やり抑え込む。彼の驚異的な動体視力と肉体操作能力が、この極限状態において覚醒し始めていた。彼は脳への血流を意図的に制限し、痛みの伝達を麻痺させることで、精神の完全な崩壊を防いだ。鉄仮面が顔面の骨格に完全に密着し、耳の下の皮膚に三本の細針が、カチリと音を立てて深く食い込んでいく。


「……完了いたしました、長老」


 鉄仮面が冷やされ、新無赫の顔面に完全に固定された。彼の素顔は、二度と外すことのできない黒鉄の牢獄へと閉じ込められたのだ。


 司馬敬は満足げに頷き、手元の起爆装置の鍵盤を軽く叩いた。


「起爆テストを行う。大役としての分を弁えよ、家奴」


 瞬間、新無赫の首元に食い込んだ細針から、不気味な真気の波動が脳神経へと直接放たれた。頭部が内側から爆発するかのような強烈な衝撃。脳の髄までが痺れ、視界が一瞬にして暗転した。新無赫は激しい吐血を伴い、鉄の台の上でのたうち回った。全身の神経が麻痺し、完全な絶望が彼を支配する。この仮面がある限り、彼は司馬敬の指先一つで、いつでも脳を破壊されて死ぬのだ。


「よし。駿様の衣服を着せ、若家督の居室へと運べ。明日から、お前は天剣宗の次期宗主、司馬駿だ。ボロを出せば、その場で脳を吹き飛ばしてやる」


 司馬敬の冷酷な声を最後に、新無赫の意識は深い闇へと沈んでいった。


 どれほどの時間が流れただろうか。


 新無赫が目を覚ました時、彼が横たわっていたのは、地下牢の冷たい石畳ではなく、シルクの寝具で覆われた、豪華絢爛なベッドの上だった。白麗城・若家督の居室。四方の壁には金糸の刺繍が施されたカーテンが揺れ、卓上には高価な調度品が並んでいる。しかし、顔を動かそうとした瞬間、顔面に食い込んだ鉄仮面の重さと、首元の皮膚が引き裂かれるような熱傷の痛みが、彼を冷酷な現実へと引き戻した。


 彼は上体を起こし、仮面のスリットから周囲を見回した。豪華な部屋。だが、この部屋の四方の壁には微細な覗き穴があり、常に柳夫人のスパイが彼を監視していることを、彼は本能的に察知していた。ここは「金の鳥籠」だ。一歩でも所作を誤れば、即座に偽物として処刑される、死と隣り合わせの日常が、今この瞬間から始まったのだ。


 新無赫はベッドの端に腰掛け、自身の震える手を見つめた。仮面の下の素顔は失われ、彼の名前も奪われた。しかし、彼の目の奥に宿る、天剣宗への底知れぬ憎悪の炎だけは、決して消えていなかった。


(待っていろ、司馬烈、司馬敬……お前たちの築いたこの欺瞞に満ちた一族を、俺のこの手で、必ず根底から叩き潰してやる)


 彼が冷酷な決意を固めたその時、居室の重い扉が、音もなくゆっくりと開き始めた。


 新無赫は本能的に身体を緊張させ、若家督としての傲慢な佇まいを取り繕おうとした。しかし、暗闇の隙間から部屋へと足を踏み入れたのは、彼を暗殺しにきた最初の刺客ではなかった。


 そこに立っていたのは、若家督の身の回りの世話と、そして彼を執拗に監視することを命じられている、柳夫人の最も冷酷な侍女――お蓮(オレン)の、すべてを見透かすような、鋭く冷たい瞳だった。

HẾT CHƯƠNG

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