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真鍮の迷宮、逆流する追跡

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「ガリ、ガリ、ギィ……ッ!」


湿った闇の中に、金属が不快に擦れ合う音が響いていた。ハルト・ウェルナーは、意識を失った妹のエリィを背中に強く縛り付け、地下排水路『真鍮の迷宮』の奥へと足を進めていた。


右足の真鍮製義足『バラスト・プロトタイプ』は、先ほどの警備隊長バルトルトの猛撃を受け、メインフレームに致命的な亀裂が入っている。一歩踏み出すたびに、真鍮の破片が肉に食い込み、焼けるような痛みが断端を襲った。


「はぁ、はぁ……耐えろ。まだ立ち止まるわけにはいかない……」


ハルトは荒い呼吸を押し殺した。懐には、命懸けで手に入れた『結晶花の蜜』が収められたシロップの瓶がある。だが、これを安全に精製し、エリィに投与するための場所も道具も、今の彼にはない。


背負ったエリィの身体は、恐ろしいほどの熱を帯びていた。右腕の真鍮結晶化は肘の上まで達し、皮膚の下で青い魔力光が不規則に明滅している。重力病中期の初期段階。一刻の猶予もなかった。


さらにハルト自身の左手の甲にも、針の先ほどの真鍮の幾何学模様が浮かび上がっている。結晶胞子を吸い込んだ代償が、じわじわと彼の肉体を蝕み始めていた。ハルトの右足の義足は、エネルギーが完全に底を突き、歩行するたびに「ガリガリ」と周囲に響くほどの不快な金属摩擦音を立てている。隠密行動を取るには最悪の物理的制約だった。


「ギィ……チク……タク……」


半壊した真鍮人形『ギヤマン』が、凹んだ身体をきしませながら、ハルトの影のように従っている。言葉は発しないが、その単眼のレンズは主を案じるように細かく震えていた。


『真鍮の迷宮』――アイゼンシュタットの地下に広がるこの巨大な排水網は、重力の乱れが最も顕著なエリアだった。ふと見上げれば、蒸気機関から排出された温かい廃水が、重力異常によって壁を這い上がり、天井に黒い鏡のような水流となって流れている。水滴が下ではなく、上に向かって落ちていく。物理法則が狂い果てた、薄暗い暗黒の底。


その時、ハルトの『重力共鳴(チクタク・センス)』が、不協和音を捉えた。


チク、タク、チク、タク……。


世界の歪みを刻む規則的な音の裏に、別の、獣じみた荒い鼓動が混ざり込んでいる。遠くの闇から、不気味な遠吠えが響いた。


「――グラビティ・ハウンド」


ハルトの表情が凍りつく。それは、帝国軍が不法技術者を追跡するために飼い慣らしている、重力波を感知する合成獣だった。ハウンドどもは、ハルトの破損した義足から漏れ出るエーテル・オイルの匂いと、ギヤがきしむ微小な振動を正確に嗅ぎ取っているのだ。


「追っ手か……。ハインリヒだな」


帝国徴税警備隊の副隊長、ハインリヒ・シュミット。執念深く陰湿な捜査官が、すでにこの地下へ猟犬を放ったのだ。足音が近づいてくる。ハウンドの鋭い爪が濡れた床を引っ掻く音が、急速に距離を縮めていく。


ハルトは身を隠そうと『重力迷彩(グラビティ・クローク)』を展開しようとした。しかし、外套の真鍮ボタンに魔力を通した瞬間、彼の耳に鋭いキィンという高音が突き刺さる。


「くっ……!」


ハウンドどもが放つ固有の重力探知波が、迷彩の空間歪みを強制的にスキャンし、その位置を看破してしまうのだ。魔力波の干渉により、迷彩は完全に無効化された。物理的な隠密は不可能。ハルトは唇を噛んだ。


闇の中から、赤い眼光を輝かせた巨大な黒い獣が姿を現した。その牙は対重力合金で補強され、一噛みでハルトの義足を噛み砕くだけの破壊力を持っている。ハウンドが咆哮とともに跳躍した。無重力化されたその巨体は、弾丸のような速度でハルトの胸元へと迫る。


「ギヤマン、下がれ!」


ハルトは瞬時に判断した。


「――『質量相殺(ゼロ・グラビティ)』!」


ハルトは義足の出力を調整し、自身と背負ったエリィの質量を一時的にほぼゼロにした。そして、手首の『蒸気駆動式高圧ワイヤー・ガン』のトリガーを引く。


シュウウッ!


放たれた真鍮フックが、天井を流れる水流の奥にある鉄パイプに突き刺さる。自重を失ったハルトの身体は、ワイヤーの巻き取り力によって羽毛のように舞い上がり、天井を流れる黒い水流の中へと飛び込んだ。


ザザッ、と温かい廃水がハルトの全身を包み込む。ハルトは天井の水流の中に身体を沈め、息を止めた。天井に張り付いた水の中を泳ぐという奇妙な感覚。だが、水の中に潜ることで、義足のオイルの匂いと微小振動は完全に遮断された。ハウンドどもはハルトを見失い、天井を見上げて不審そうに唸り声を上げる。


「どこへ消えた、不法技術者め」


冷酷な、そして確信に満ちた足音が近づいてきた。現れたのは、グレーの将校マントを羽織り、細い鞭を手にした男――ハインリヒ・シュミットだった。ハインリヒは手元に携えた『重力探知真鍮羅針盤』を見つめ、不気味な笑みを浮かべた。羅針盤の針は、天井の水流を指して激しく震えていた。


「なるほど。ネズミらしい、小賢しい逃げ方だ」


ハインリヒが懐から、先端に青い結晶が嵌め込まれた特殊な銃を取り出した。


「だが、帝国の法からは逃れられん」


ハインリヒが銃口を天井の水流へと向け、トリガーを引いた。放たれたのは『重力中和弾』だった。その弾丸が水流に接触した瞬間、天井の引力場が強制的に中和された。


「なっ……!?」


天井に留まっていた数トンの廃水が、一瞬にしてその浮力を失った。


ゴボォォォン!!!


天井の水流が巨大な滝となって崩壊し、ハルトとエリィは大量の濁流とともに、床に向かって真っ逆さまに自由落下を始めた。


「がはっ……!」


落下の衝撃。このまま地面の硬い石畳に叩きつけられれば、背負っているエリィの身体はひとたまりもない。ハルトの脳内で、歯車が火花を散らすように計算が実行される。


(落下速度、秒速九・八メートル。着地まで残り一・二秒。義足のエネルギーは空。質量相殺の再起動は間に合わない。ならば――)


ハルトは落下しながら、床の構造を目視した。ハインリヒが立っているのは、排水路の中央を走るメインドレンの真上、巨大な真鍮製の『鉄格子(アイアン・グレート)』の上だった。


ハルトは空中で右腕を伸ばし、『蒸気駆動式高圧ワイヤー・ガン』をハインリヒの足元の鉄格子に向けて射出した。


カツン!


真鍮のフックが鉄格子の隙間に完璧に噛み合う。just before hitting the ground, ハルトは義足の最終安全弁を強制的にロックし、残されたわずかな魔力をすべて右足へと注ぎ込んだ。


「――『慣性錨(イナーシャル・アンカー)』!!」


ハルト自身の質量が、瞬間的に数万倍へと膨れ上がる。


「何をする気だ!?」


ハインリヒが目を見開いたが、すでに遅い。


ドォォォン!!!


数トンに達したハルトの物理的な超重量が、ワイヤーを介してハインリヒの足元の鉄格子へと一気に伝わった。鉄格子を支えていたレンガの基礎が、ハルトの圧倒的な重量に耐えかねて一瞬で粉砕される。


「う、うおおおっ!?」


ハインリヒは足場を失い、悲鳴を上げながら、剥がれ落ちた鉄格子とともに、メインドレンを流れる激しい濁流の中へと引きずり落とされた。ドボォンという凄まじい水音とともに、ハインリヒと数匹のハウンドが激流の奥へと消えていく。


ハルトは落下直前に質量を元に戻し、床に着地した。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」


激しい衝撃が全身を駆け抜け、ハルトは膝をついた。右足の義足から「パキ、パキ」と不気味な音が響き、亀裂がさらに広がっていく。


「エリィ……エリィ、大丈夫か!?」


ハルトは背中のエリィを気遣い、彼女の顔を覗き込んだ。エリィはかろうじて息をしていたが、その呼吸はさらに浅くなっている。ハルトは慌てて革エプロンの内ポケットを探った。注射器シリンダーを取り出そうとしたその指先が、冷たいガラスの破片に触れた。


「……しまっ、た……!」


落下と着地の凄まじい衝撃により、シリンダーの横にあった『結晶花の蜜』の予備の薬瓶が、内部で粉々に砕け散っていたのだ。琥珀色の貴重な液体が、エプロンの革を濡らして失われていく。


残されたシロップは、注射器の中に収められた、わずか一回分にも満たない量だけだった。これではエリィの熱を完全に抑え込むことはできない。


「嘘だろ……これだけじゃ、エリィの命のぜんまいを繋ぎ止めることは……」


ハルトの指先が絶望に震える。だが、立ち止まっている時間はなかった。排水路の奥から、ハインリヒの部下たちの怒号と、新たなハウンドの吠え声が聞こえてくる。


「追っ手を引きずり下ろした。だが、ハインリヒはまだ生きているはずだ。すぐに全出口が封鎖される……」


ハルトは奥歯を噛み締め、壊れかけの義足を引きずりながら、再び走り出した。


ガリ、ガリ、ギィ……。暗闇の迷宮は、彼らの生存を拒むように、冷たく湿った蒸気を吐き出し続けている。


排水路の角を曲がった、その瞬間だった。ハルトは息を呑み、その場に立ち尽くした。


彼の目の前に立ち塞がったのは、天井から逆流し、壁を伝って床へと激しく激突する、廃水の巨大な滝だった。重力異常が極限に達したその場所は、完全に退路を塞いでいた。背後からは、残された探知犬の冷たい牙の気配と、ハインリヒの冷酷な足音が、暗闇の奥から確実に迫っていた。

HẾT CHƯƠNG

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