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裏切りの煙、奪われた天秤

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「ガリ、ガリ、ギィ……ッ!」


 アイゼンシュタットの煤けた路地裏を、ハルト・ウェルナーは狂ったように走っていた。空っぽの真鍮製義足が不快な摩擦音を立て、一歩踏み出すたびに、右足の切断面に焼きゴテを押し当てられたような激痛が走る。結晶化の森で負った熱傷がソケットに擦れ、じわりと血が滲み出していた。左肩の靭帯は引きちぎれんばかりに痛み、結晶胞子を吸い込んだ喉は焼けるように熱い。


 だが、そんな肉体の悲鳴など、ハルトの耳には届いていなかった。彼の感覚を支配していたのは、懐の革エプロンの内ポケットに収められた、冷たい『結晶花の蜜』の注射器の感触。そして、東側路地裏の夜空を赤黒く染め上げる、立ち上る炎と黒煙だった。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」


 角を曲がった瞬間、ハルトは息を止めた。網膜に焼き付いたのは、彼が生まれ育ち、妹のエリィとささやかな暮らしを営んできた『ウェルナー重力時計修理店』が、猛烈な炎に包まれている光景だった。


「あ、アニキ……!」


 火の粉が舞い散る路地で、顔を煤で汚したトビーが、瓦礫の陰から涙を流しながらハルトに駆け寄ってきた。その細い腕は恐怖で激しく震えている。


「トビー! エリィはどこだ!?」


「中だよ! 奥の部屋のベッドに寝かせたまま……でも、帝国の警備兵たちが突入して、工房をメチャクチャに壊し始めて……!」


「……警備兵だと?」


 ハルトの脳裏に、冷たい計算が走る。なぜこのタイミングで、管理局の目が自分の修理店に向けられたのか。その疑問の答えは、炎に照らされた路地の向こうに立つ、一人の男の姿によってもたらされた。


 小太りの体躯に、だらしなく着崩した外套。ハルトの義理の叔父、カール・ウェルナーが、帝国徴税警備兵の陰に隠れながら、下卑た笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「ひひっ、ざまぁみろ、ヨハンの出来損ないの倅が……! 化け物じみた不法デバイスを隠し持ちやがって。監察官殿に密告して正解だったぜ。これで俺には市民権と、たっぷりとした報奨金が手に入る!」


 カールのずる賢そうな細い目が、醜い欲望に歪んでいた。叔父はハルトの重力操作の力を逆恨みし、保身と金のために、ハルトの『無許可デバイス開発』と『隠し地下室の存在』を帝国に売り払ったのだ。


「カール……叔父さん……」


 ハルトの声から、一切の感情が消え失せた。その瞳の奥で、冷徹な時計技師の計算回路が、叔父に対する「排除」の数値を弾き出す。しかし、今は一秒の猶予もない。エリィの命のぜんまいは、高熱と結晶化の進行によって今にも止まりかけているのだ。


 ズシィィィン!!!


 炎上する工房の中から、地響きのような重低音が響き渡り、レンガ造りの外壁が大きく崩落した。煙を突き破って現れたのは、全身を黒い帝国軍の重装甲で固め、不気味な鉄仮面を装着した巨漢――警備隊長、バルトルト・カイザーだった。


「ハハハ! 下層のネズミの巣にしては、ずいぶんと面白い玩具が隠されていたな!」


 バルトルトは、自身の背丈ほどもある『巨大蒸気駆動メイス・グラビトン』を軽々と肩に担ぎ、凶悪な哄笑を上げた。彼の背後では、数人の重装甲歩兵が、意識を失ったエリィをベッドごと引きずり出そうと、炎の中で蠢いている。


「エリィ……!」


 ハルトは痛む右足を引きずり、燃え盛る工房の中へと飛び込んだ。


「待ちやがれ、不法技術者! 監察官殿の命令だ、その小娘は重力病の『実験体』として接収する!」


 バルトルトが容赦なくグラビトンを振り下ろした。猛烈な蒸気圧を伴った一撃が、工房を支える中央の木柱を物理的に粉砕する。天井が「メリメリ」と不気味な音を立てて傾き、燃え盛る巨大な梁がハルトの頭上へと落下してきた。


「――『地盤調律(テラ・チューニング)』!」


 ハルトは腰から『真鍮の調律ハンマー「クロード・モデル」』を抜き放ち、崩落する壁の基部に向けて渾身の力で叩きつけた。ハンマーの真鍮ヘッドから、同心円状の青い魔力波がレンガの隙間へと広がっていく。


 キィィィンという高音とともに、落下しかけていた梁と天井の瓦礫同士の引力が一時的に極限まで高まり、まるで目に見えない楔で固定されたかのように、中空でピタリと静止した。即席の安全な退路の構築。だが、ハルトの左手の甲に現れた微小な真鍮結晶が、魔力の消費に伴って「チリチリ」と鋭い痛みを訴える。


「邪魔をするな、帝国の犬ども!」


 ハルトの前に、二人の重装甲歩兵が中和槍を構えて立ち塞がった。ハルトの義足のエネルギーは空であり、通常の質量中和は使えない。彼は革エプロンのポケットから、調整用の頑強な真鍮ボルトを二本掴み出した。


 自身のわずかな残存魔力をボイラーの排気熱とともにボルトに込めて投擲する。弾丸のように放たれたボルトが兵士たちの胸甲に接触するその瞬間、ハルトは極限の集中力で叫んだ。


「――『質量増幅(ヘビー・インパクト)』!」


 ドゴォン!


 数グラムだった真鍮のボルトが、着弾の瞬間に『各三百キログラム』の超重量へと急膨張した。凄まじい衝撃波が重装甲歩兵を直撃し、彼らは鎧ごと吹き飛んで炎の中に倒れ込んだ。しかし、この強引な魔力行使により、ハルトの視界が激しく揺らぎ、喉から鉄の味が込み上げる。


「エリィ!」


 ハルトは炎の壁を突き破り、ベッドに横たわる妹のもとへと到達した。エリィの右腕はすでに肘の上まで冷たい真鍮の結晶に覆われ、息は絶え絶えだった。ギヤマンが自らの真鍮の体を盾にして、降り注ぐ火の粉から彼女を守っていたが、その背中にはバルトルトの部下に殴られたような深い凹みが刻まれていた。


「ギィ、ギィ……チク、タク……」


 ギヤマンはレンズをハルトに向け、忠実に頭を下げた。


「よく守ってくれた、ギヤマン。エリィを頼む」


 ハルトがエリィを抱き起こしたその時、背後から猛烈な熱気と、空気を押し潰すような質量圧が迫った。バルトルトがグラビトンを構え、ハルトの背後を完全に塞いでいたのだ。メイスの先端部で、高密度の重力石が青黒い光を放ちながら急速に回転している。


「逃がさんぞ、ネズミめ。その足、今度こそ根元から叩き潰してやる!」


 逃げ場はない。左右は燃え盛る壁。前方はバルトルトの圧倒的な破壊力。ハルトの脳内で、時計の歯車が高速で回転するように、戦術の計算が開始された。


(正面から戦えば、エリィが巻き込まれて死亡する確率は98.4%。義足のエネルギーはゼロ。ハンマーの金属疲労も限界に近い。残された手段は――)


 ハルトは冷徹に、自身の敗北を受け入れた。だが、それは「降伏」を意味しない。エリィを救うための、最も合理的な『一時撤退』の選択だった。


「――『慣性錨(イナーシャル・アンカー)』!」


 バルトルトがグラビトンを振り下ろした瞬間、ハルトは右足の義足を床の頑強な梁に踏み込み、自身の質量を瞬間的に数万倍に固定した。ドスン、と修理店の床が物理的な超重量に耐えかねて悲鳴を上げる。


 激突。グラビトンの超高圧打撃がハルトの義足のフレームを直撃した。凄まじい衝撃波が工房を満たし、床のレンガが粉々に砕け散る。ハルトの義足の真鍮フレームに「ピシッ」と不気味な亀裂が走り、切断面に激しい衝撃が逆流して、ハルトは激しく喀血した。


 しかし、ハルトの質量が一時的に無限大に近づいていたため、打撃の運動エネルギーはハルトの身体を吹き飛ばすことなく、すべて足元の床盤へと逃がされた。その結果、ハルトが立っていた床そのものが、衝撃の反動で一気に崩壊した。


「なにっ!?」


 バルトルトが驚愕の声を上げる。床が抜け、ハルトはエリィを抱きしめたまま、ギヤマンとともに崩落する瓦礫の隙間へと滑り落ちた。落下する一瞬、ハルトは質量をゼロに中和し、落下の衝撃を殺して地下の暗闇へと着地する。


 だが、その崩落の混乱の最中、バルトルトの巨大な手が、作業台の引き出しから飛び出していた、クロードが遺した最重要の秘宝『真鍮の重力天秤』を掴み取るのが見えた。


「ハハハ! この天秤は監察官殿への素晴らしい土産になる! 不法技術者ハルト、お前のすべてを奪ってやったぞ!」


 上空からバルトルトの勝ち誇ったような哄笑が響き、燃え盛る天井が完全に崩れ落ちて地下への口を塞いだ。


「……くっ、あぁ……っ!」


 ハルトは暗闇の中で、自身の右足の義足が激しく摩耗し、駆動ギアが半分噛み合わなくなっているのを感じた。先代クロードの形見であり、世界の質量バランスを記述する唯一の鍵である『真鍮の重力天秤』が、帝国の手に渡ってしまったのだ。


 燃え落ちる我が家の瓦礫の下で、ハルトは意識を失ったエリィを強く抱きしめた。彼の懐には、命懸けで採取した『結晶花の蜜』の注射器が、無傷で残されていた。エリィの命は、まだ繋ぎ止められる。


 しかし、彼らがアイゼンシュタットで築いてきた平穏な日々は、今、完全に灰となった。


 ハルトは暗闇の中から、崩れ落ちた天井の隙間から見える赤赤い炎を見上げた。彼の左手の甲の真鍮結晶が、冷たく、静かに輝いている。その瞳の奥に灯ったのは、絶望ではない。帝国の不条理な支配と、裏切り者カールに対する、底知れぬ怒りの冷たい火だった。


「……必ず、すべてを取り戻す」


 ハルトは静かに誓い、エリィを背負って、地下排水路の暗黒へと足を踏み入れた。

HẾT CHƯƠNG

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