結晶化の迷宮、静かなる採取
「ガリ、ガリ、ギィ……」
静まり返ったアイゼンシュタットの地下昇降機の中で、ハルト・ウェルナーの右足が不快な金属摩擦音を立てていた。内蔵された重力石のエネルギーは完全に空。今のこの足を動かしているのは、真鍮のシリンダー内に残されたわずかな蒸気圧と、ハルトが手動で巻き上げたゼンマイの物理的な復元力だけだった。
「くっ……」
一歩踏み出すたびに、右足の切断面に焼け付くような激痛が走る。数時間前に負った熱傷が、硬い真鍮のソケットに擦れて再び血を滲ませているのだ。左肩の靭帯も引きちぎれんばかりに痛む。だが、ハルトは煤けた茶髪の奥にある瞳を硬く見据え、決して歩みを止めなかった。
背後には、彼の手によって修理された自律型真鍮人形のギヤマンが、無言で追従している。ギヤマンの胸部にある小さなボイラーが、静かに「チク、タク」と時を刻むような排気音を響かせていた。
昇降機が地底千メートルに達し、重厚な鉄格子が軋みながら開く。目の前に広がっていたのは、下層の炭鉱夫たちすら恐れて近づかない、未開発の天然空洞――『結晶化の森』だった。
「これが、重力汚染の成れの果てか……」
ハルトは息を呑んだ。額に嵌めた『特製防塵ゴーグル』の位置を調整し、厚手の防塵マスクの紐を固く結び直す。
そこは、美しくも致命的な「死の世界」だった。地脈から漏れ出た無秩序な重力エネルギーの放射により、周囲の岩盤も、地底に自生する巨大なキノコやシダ植物も、すべてが真鍮やガラスのような硬い結晶へと変貌していた。天井からは、鋭利なガラスの鍾乳石が幾千も垂れ下がり、かすかな青い魔力光を放ちながら、不規則な引力の乱れによって宙に浮遊している。
空気中には、吸い込めば肺の内部を瞬時に石化させる、細かな結晶の胞子が蛍のように青く漂っていた。
「ツヴァイ、索敵を。質量センサーの出力を絞り、物理的な接触音だけに集中しろ」
ハルトが右足の格納スペースを軽く叩くと、手のひらサイズの真鍮製蜘蛛型機械『ツヴァイ』がチキチキと音を立てて這い出てきた。ツヴァイはハルトの指先から放たれる極小の重力振動を感知し、無音で結晶の地面を滑るように進んでいく。
ハルトはゴーグルの側面にある真鍮製ダイヤルを回し、固有技能『質量視覚(マス・ヴィジョン)』を起動した。魔力が枯渇しているため、視界をモノクロームに切り替えるだけでも脳をタガネで削られるような激痛が走る。しかし、レンズの魔導回路が補正する光の線によって、空気中に張り巡らされた「質量ベクトル」の流れが、立体的な青い光の帯として浮かび上がった。
「あそこか……」
質量視覚の糸が、森の最奥部で一際濃く収束している場所を捉えた。周囲の結晶樹の隙間に、淡く光る大輪の結晶花が静かに咲いている。その中央の蜜こそが、エリィの重力病の発熱を抑える唯一の特効薬――『結晶花の蜜』だった。
ハルトは慎重に歩みを進めた。質量視覚のレンズが、天井から今にも剥がれ落ちそうな、数トンに及ぶ結晶の刃の重心位置を示している。ハルトは自身の体重を支えながら、その「落下の軌道」を正確に避け、一歩一歩、足音を殺して進んだ。義足のエネルギーが空であるため、質量中和による無重力跳躍は使えない。ただ泥臭く、物理的な障害物を肉体の力だけで乗り越えていくしかなかった。
ようやく花の前に到達したハルトは、腰のベルトから真鍮製の注射器を取り出した。結晶の胞子が舞う中、防塵手袋をはめた手で、光る花の蕾へと針を慎重に突き刺す。
ゆっくりとピストンを引き上げると、琥珀色の、とろりとした輝きを放つ液体がシリンダーを満たしていった。
「……採れた」
エリィを救うための命の蜜。安堵の溜息がマスクを震わせた。だが、その瞬間、ハルトの喉に激しい灼熱感が走った。防塵マスクの古いフィルターの隙間から、極微量の結晶胞子を吸い込んでしまったのだ。
「ごほっ、うぐ……っ!」
激しく咳き込みそうになるのを、ハルトは自身の口を手で覆って必死に耐えた。しかし、毒素はすでに彼の肉体を蝕み始めていた。左手の甲を見つめると、皮膚の下に、針の先ほどの小さな真鍮の幾何学模様が浮かび上がっていた。重力病――彼自身の肉体にも、その代償が静かに刻まれ始めた瞬間だった。
感傷に浸る時間はなかった。突然、静寂に包まれていた結晶化の森に、地鳴りのような重低音が響き渡ったからだ。
「――グルゥゥゥ……」
ハルトの『重力共鳴(チクタク・センス)』が、地底の泥を震わせる巨大な質量反応を捉えた。それは、時計の秒針が不規則に狂うような、極めて攻撃的な不協和音だった。
「グラビティ・ハウンド……! 帝国の魔獣使いが、なぜこんな深部にまで」
暗闇の奥から現れたのは、全身が黒い重力石の装甲に覆われた、巨大な犬型の合成獣の群れだった。その瞳は血のように赤く光り、背中からは引力を歪めるための真鍮の突起が牙のように突き出している。帝国軍の魔獣使い、フランツ・オルセンが放った、不法侵入者を狩るための「猟犬」たちだ。
ハウンドの鋭い鼻先が、空気中の重力波の乱れを嗅ぎ分けるように不規則に動いている。ハルトの右足の義足が、歩くたびに出す微小な「チキ、チキ」という金属の軋み音が、彼らの標的となった。
「ガウッ!」
一頭のハウンドがハルトの存在を確信し、無重力化された結晶の岩を蹴って、弾丸のような速度で跳躍してきた。
「ツヴァイ、囮になれ!」
ハルトは即座に、右足の格納庫からツヴァイを反対方向の結晶壁に向けて勢いよく射出した。ツヴァイは壁に張り付くと同時に、内蔵された極小のボイラーの安全弁を開放し、激しい蒸気とともに「キィィィン」という高周波の重力ノイズを周囲に撒き散らした。
ハウンドの群れが一斉に首を巡らせ、ツヴァイが放つ偽の重力反応へと牙を剥いて突進していく。結晶の壁が、獣たちの体当たりによってガラスのように甲高い音を立てて粉々に砕け散った。
その隙に、ハルトは『重力迷彩(グラビティ・クローク)』を起動した。外套の真鍮ボタンに、残存するわずかな魔力を無理やり通す。ハルトの身体の輪郭が蜃気楼のように揺らめき、周囲の真鍮の結晶林と同化するように姿が消えていく。展開を維持するため、ハルトは肺を押し潰されるような圧迫感に耐え、呼吸を完全に止めた。
すぐ傍を、巨大なハウンドの影が通り過ぎていく。鋭い爪が結晶の床を削る「カリ、カリ」という音が、ハルトの耳元で響いた。ハウンドは不審そうに鼻を鳴らし、ハルトが立っているまさにその空間を嗅ぎ回る。ハルトの義足のフレームから、熱排気のかすかな熱が漏れ出そうとしていた。ハルトは義足の過負荷制御弁を指先で強く押さえつけ、蒸気の放出を物理的に封じ込めた。
心臓が破裂しそうなほどの沈黙の数秒。やがて、ハウンドはツヴァイが放つノイズの残渣を追って、暗闇の奥へと走り去っていった。
「ぷはっ……! はぁ、はぁ……」
迷彩を解除したハルトは、膝をついて激しく息を荒くした。喉の奥から鉄の味が込み上げる。結晶花の蜜が入ったシリンダーを革エプロンの懐に深くしまい込み、彼は傷ついた足を引きずりながら、昇降機へと向かって必死に走り出した。
なんとか魔獣の包囲網を突破し、地表へと繋がる昇降機の鉄格子を潜り抜けたハルト。彼は昇降機の窓から、ようやく見慣れたアイゼンシュタットの東側居住区の空を見上げた。
しかし、ハルトの視界の端で、彼が帰るべき自宅の方向から、真っ黒な蒸気と、夜空を赤く染める激しい炎が立ち上っているのが見えた。
「……まさか、エリィ……!」
ハルトの瞳に、絶望と底知れぬ怒りの火が灯った。
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