歪んだ血族と青い熱
ゲルハルト・フォン・クローネの白い手袋をはめた指先が、作業台の上に分解された真鍮の義足へと触れようとした、まさにその瞬間だった。
「――ごほっ、う、あ……!」
静まり返った工房の奥から、湿った、重苦しい咳が響き渡った。それは、棚の影の簡易ベッドに横たわっていたエリィのものだった。激しい咳き込みとともに、彼女の小さな身体がシーツの上で大きく跳ね、そのまま床へと転がり落ちる。
「エリィ!」
ハルトは心臓が凍りつくような衝撃を覚えた。右足のない身体を這わせ、床を滑るようにして妹のもとへと向かう。剥き出しの右足の切断面が床に擦れ、凄まじい激痛が走ったが、今のハルトにはそれを顧みる余裕などなかった。
エリィの細い身体は、異常なまでの熱を帯びていた。彼女の右腕に巻かれていた包帯の隙間から、不気味な青い光が漏れ出している。重力病――下層の民を蝕む不治の結晶化病。その進行を告げる「青い熱」が、彼女の小さな命を内側から焼き尽くそうとしていた。
「おのれ、不潔なバラストめ……!」
ゲルハルトは差し伸べていた手を急激に引き込み、嫌悪感も露わに顔をしかめた。白亜の官僚服が汚れるのを恐れるように、二歩、三歩と後退する。
「重力病(グラビティ・プラーグ)の末期発作か。おい、バルトルト! これ以上この煤けた病室に留まる必要はない。空気が汚染される前に撤退するぞ」
「はっ、監察官殿!」
鉄仮面の奥からバルトルトが不気味な声を上げ、巨大な蒸気メイスを肩に担ぎ直した。帝国兵たちもまた、伝染を恐れるように銃剣を下げ、慌ただしく工房の外へと退却していく。
「ウェルナーの小僧。今回は書類の不備がないため見逃してやるが、街の重力コア接収は予定通り進める。不審な動きを見せれば、その足ごと虚無へ叩き落とすと思え」
ゲルハルトは冷酷な捨て台詞を残し、黄金の杖を鳴らしながら去っていった。乱暴に閉められた扉の衝撃で、壁の古い振り子時計がガタガタと音を立てる。
嵐のような査察官たちが去った後、工房に残されたのは、荒い息を吐くエリィと、呆然と立ち尽くすトビー、そして静かに秒針を刻み続けるギヤマンだけだった。
「アニキ、エリィの様子が……!」
トビーが悲鳴のような声を上げた。ハルトは震える手でエリィの右腕の包帯を解いた。その瞬間、息を呑む。
結晶化が、手首を越えて肘のすぐ手前まで急速に侵食していた。皮膚は冷たく硬い真鍮の幾何学模様へと変色し、まるで精密な歯車が皮膚の下で蠢いているかのように、青い魔力光が不規則に明滅している。重力病初期の限界値を超え、中期へと移行しつつある決定的な証拠だった。
「熱が、高すぎる……。トビー、薬は!?」
「ないよ、アニキ! ヘルタさんからもらった『結晶花の蜜』のシロップは、昨日の夜に最後の一滴を使い切っちゃったんだ!」
トビーの言葉に、ハルトは奥歯を噛み締めた。薬を買うための鉄歯車貨は、先ほど警備兵への賄賂として全て消費してしまった。手元には一銭の蓄えもない。だが、この「青い熱」を今すぐ抑えなければ、エリィの心臓まで結晶化が達し、彼女は物言わぬ真鍮の彫像になってしまう。
「……俺が、結晶化の森へ行く」
「そんなの無理だよ! アニキの義足はまだ壊れたままだし、あそこは帝国の立ち入り禁止区域だ! 見つかったら本当に死刑にされる!」
「足なら、動くようにしてみせる」
ハルトは作業台へ這い戻り、トビーが持ってきたジャンクの歯車を手に取った。ヤスリを掴み、狂ったように真鍮の歯を削り始める。金属の粉が火花のように散り、ハルトの焦燥感を映し出すように、ヤスリの音が工房に不快に響き渡った。
その時、再び工房の扉が蹴り開けられた。だが、入ってきたのは帝国の兵士ではなかった。
「おいおい、大層な騒ぎだったじゃねえか、ハルト」
不作法な笑い声とともに現れたのは、酒の腐った臭いを漂わせた小太りの男――ハルトの義理の叔父、カール・ウェルナーだった。手入れのされていない無精髭に、ずる賢そうな細い目。彼は荒らされた工房を見回し、下卑た笑みを浮かべた。
「帝国軍の家宅捜索か? ヨハンの出来損ないの息子が、何かやらかしたと思ったぜ。おい、それより約束の金を払ってもらおうか。この土地の借地代と、俺が肩代わりしてやってる税金の分だ」
「カール叔父さん……。今はそれどころじゃない。エリィの病状が――」
「知るかよ、そんな病気!」
カールはハルトの言葉を遮り、乱暴に作業台の道具を払いのけた。
「死にかけのガキに使う薬代があるなら、俺に払うのが先だろ。おい、ヨハンの古い工具箱や、あの偏屈なクロードが遺した金目のものはどこだ? 借金のカタに持って行かせてもらうぜ」
カールの目は、ハルトの制止を無視して工房の奥へと向けられた。そして、エリィの枕元に置かれていた、美しい彫刻が施された小さな『真鍮のオルゴール』を見つけた。
「ほう、こいつはいい。上層の骨董屋に持っていけば、エーテリウス金貨の数枚にはなるだろうな」
カールがその汚れた手をオルゴールへと伸ばした。
「触るな……!」
ハルトの声が、地底の底から響くような冷たさを帯びた。だが、カールは鼻で笑い、オルゴールを掴み上げようとする。トビーが止めに入ったが、カールは「邪魔だ、ガキが!」と、トビーを容赦なく突き飛ばした。トビーは床の瓦礫に激しく身体を打ち付け、痛みに呻く。
ハルトの脳内で、何かが決定的に噛み合った。
彼は手元にあった未完成の義足を、右足の切断面へと強引に押し込んだ。固定用の真鍮ピンが肉に食い込み、激しい激痛が走るが、ハルトは声すら上げない。メインギヤは摩耗し、ボイラーの圧力も不安定なままだったが、彼はその「壊れかけの足」で、静かに立ち上がった。
「ガリ、ガリ、ギィ……」
不快な金属摩擦音を立てながら、ハルトは一歩、踏み出した。その煤けた茶髪の奥にある瞳は、完全に光を失い、絶対的な拒絶の色に染まっていた。
「なんだ、片足の不自由な時計屋が、俺に逆らうってのか?」
カールがせせら笑いながら振り返る。だが、その笑みは、ハルトが彼の眼前に到達した瞬間に凍りついた。
ハルトは無言で、カールの右首筋を、鉄の万力のような握力で掴み取ったのだ。
「がはっ……!? て、てめえ、離し――」
ハルトはカールの言葉を聞き入れず、右足の義足に眠る『最初の重力石』の端子へと、自身の極小の魔力を強制的に送り込んだ。魔力(エーテル)はほぼ枯渇していたが、彼には「調律士」としての精密な感覚が残っている。義足の内部ギヤを逆回転させ、カールの足元の重力ベクトルを局所的に「偏向」させた。
――ズシン。
カールの身体が、突如として何十倍もの質量に押し潰されたかのように、激しく沈み込んだ。彼の顔面が急速に赤黒く鬱血し、肺の中の空気が強制的に押し出される。足元の床板がメキメキと悲鳴を上げ、カールの膝は、まるで不可視の鉄槌で叩かれたかのように、床へと激しく叩きつけられた。
「あ、が……う、ぐぅぅ……!」
カールは呼吸すらできず、床に四肢を擦り付けながら、恐怖に目を見開いた。自分の身体が、地球の底に吸い込まれていくような、本能的な恐怖。目の前に立つ、片足の少年が、まるで世界の質量を支配する死神のように見えた。
ハルトはカールの耳元に顔を近づけ、感情の消えた声で囁いた。
「二度と、妹に触るな。次はない」
重力制御を瞬時に解除する。カールは弾かれたように呼吸を取り戻し、床に倒れ込んで激しく咳き込んだ。オルゴールはハルトの手によって静かに回収され、エリィの枕元へと戻された。
「ひ、ひぃぃ……! 化け物め、ヨハンの呪われた息子が……!」
カールは腰を抜かしたまま、這うようにして工房の出口へと逃げ出していく。その怯えきった瞳の奥には、恐怖とともに、ハルトが隠し持っている「異常な力」に対する、暗い復讐の火が灯っていた。彼はそのまま夜の闇の中へと消え去っていった。
「シューーーー……」
カールの退散と同時に、ハルトの右足の義足から、力ない白い蒸気が漏れ出た。内蔵された重力石のエネルギーが完全に空になり、義足はただの重い真鍮の塊へと戻る。ハルトは膝から崩れ落ちそうになったが、かろうじて作業台を掴んで身体を支えた。
「ハルト、お兄ちゃん……」
ベッドの上で、エリィがうわ言のようにハルトの名を呼ぶ。彼女の右腕の結晶は、微かに熱を帯びながら、さらにその面積を広げようとしていた。
猶予はない。夜が明ける前に、地下最深部の『結晶化の森』へ潜入し、蜜を持ち帰らなければならない。ハルトは壊れかけた義足を再び作業台に載せ、タガネとハンマーを握りしめた。彼の孤独な戦いが、今、暗闇の中で始まろうとしていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!