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暗黒の真空ポケット

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「十分。残された時間は、それだけだ」


 ハルト・ウェルナーは、軋む真鍮の義足に手を当てながら、冷徹に呟いた。声は湿った坑道の空気に吸い込まれ、重苦しく響くだけだった。


 アイゼンシュタット地下、第三採掘坑道の最奥部。ハルトと炭鉱夫のリーダー、ロルフ・アイヒャーが立ち尽くしている目の前には、不自然なほどに歪んだ空間が広がっていた。そこは、空気の光の屈折すら歪める透明な壁――『静寂の真空ポケット』を隔てる重力障壁だった。


 障壁の向こう側は、完全な無重力と真空が支配する死の領域だ。そこには、落盤事故の直後に救助へ向かい、そのまま閉じ込められた『炭鉱救助隊第一班』の四人の姿があった。彼らは宙に浮かび、喉を掻きむしりながら、息絶える寸前の苦悶に顔を歪めている。ヘルメットに装着された真鍮ランタンの頼りない光が、彼らの絶望的な影を岩壁に長く引き伸ばしていた。


「嘘だろ……野郎ども、息ができてねえ! ハルト、頼む、あの壁をぶち壊してくれ!」


 ロルフが巨体を震わせ、ハルトの革エプロンを掴んで揺さぶった。その逞しい腕には、焦りと無力感による震えが伝わっていた。


「落ち着け、ロルフ。力任せに叩けば、この空間の引力バランスが完全に崩壊して、中の連中ごと虚無の底へ圧殺される」


 ハルトはロルフの手を静かに払い、腰のベルトから『真鍮の調律ハンマー「クロード・モデル」』を引き抜いた。だが、ハンマーを構えた瞬間、ハルトの耳元で「チチチチ……」と、不快な高周波のきしみ音が響いた。義足に内蔵された重力石の欠片が、眼前の障壁が放つ強烈な斥力と共鳴し、異常な警告音を立てているのだ。


 右足の断端から伝わる熱は、じりじりと皮膚を焼き、骨の髄まで焦がすような痛みを放っている。先ほどエレベーターの落下を強引に止めた際の過負荷が、いまだに引いていない。これ以上の高出力稼働は、義足の物理的な大破だけでなく、自身の肉体をも破壊しかねない。だが、ハルトの目は諦めていなかった。


「チクタク、チクタク……不協和音がひどすぎる。帝国が上層で重力石を過剰に吸い上げているせいで、地脈が悲鳴を上げているんだ」


 ハルトは額の防塵ゴーグルの側面にある真鍮製ダイヤルを回し、固有技能『質量視覚(マス・ヴィジョン)』を発動した。視界が瞬時にモノクロームへと切り替わり、空気中に張り巡らされた重力の流れが、無数の光のベクトル線として浮かび上がる。


 真空ポケットを包む障壁は、単なる魔導の壁ではなかった。それは、過剰な採掘によって歪められた地盤が、周囲の空気を引き留めようとして生み出した、物理的な『超高圧の引力の壁』だった。


 ハルトはハンマーの真鍮ヘッドで、障壁の端を軽く叩いてみた。金属が「キィン」と鋭い悲鳴を上げ、ハルトの腕に激しい振動が跳ね返る。ハンマーの先端フレームに、微細な亀裂が走るのが見えた。


「くっ……! 静的な調律では、この規模の質量障壁は相殺しきれない。ハンマーが先に砕ける」


「じゃあ、どうすりゃいいんだよ! あいつらの命のぜんまいは、もう止まりかけてるんだぞ!」


 ロルフの叫び通り、障壁の向こうの坑夫たちの一人が、ゆっくりと目を閉じ、四肢の力を失いかけていた。肺の中の空気が引き抜かれ、意識を失う直前なのだ。タイムリミットは、あと五分もない。


「――荒技を試す」


 ハルトは決意を固め、右足の義足の側面にある『過負荷制御弁(エスケープ・バルブ)』を手動で締め付けた。バルブが完全にロックされ、義足の内部で蒸気圧と重力石のエネルギーが逃げ場を失い、臨界点に向けて蓄積され始める。


「シューーーー!」


 きしむ真鍮のギアの隙間から、真っ白な高圧蒸気が激しく噴き出し、ハルトの右足全体が青白い光に包まれた。義足の金属フレームが、限界以上の熱を帯びて「ヒィィィン」と甲高い共振音を奏でる。それはハルトの肉体をじわじわと蝕む『過負荷制御プロセス』の強制起動だった。切断面の火傷の激痛に、ハルトは奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。


「ロルフ、俺の身体を支えろ。一撃で決める」


「おうよ! お前が飛ぶなら、俺がその足場になってやる!」


 ハルトは手首の『蒸気駆動式高圧ワイヤー・ガン』のトリガーを引き、天井の頑強な岩盤に向けて真鍮のアンカーを射出した。ワイヤーがピンと張り詰め、ハルトの身体を中空へと吊り上げる。落下の加速度を得るための、物理的な振り子の構築だ。


 質量視覚のレンズ越しに、ハルトは障壁の最も引力が集中している『急所』――光の線が一本に収束する一点を見定めた。そこを物理的な超高圧で叩けば、障壁全体の質量バランスが一瞬で崩壊する。


「ハルト、行けぇ!」


 ロルフがハルトの腰を泥まみれの太い手で支え、全力で前方に押し出した。ハルトの身体が、ワイヤーの張力とロルフの怪力によって、弾丸のような速度で障壁の急所へと滑空していく。


 だが、衝突の直前、ハルトのエーテル回路が激しい摩耗により一瞬、悲鳴を上げた。視界が激しく揺らぎ、踏み込みのタイミングがずれかける。


「――逃がすか!」


 ハルトは自身の全魔力を右足の義足へと直接流し込んだ。メインギヤが火花を散らして回転し、義足の質量を瞬間的に数千倍に増幅させる。戦闘技能『バラスト・ストライク』。


 数グラムに中和されていたハルトの右足が、着地の瞬間に『三トン』の巨大な鉄塊へと変貌した。落下の加速度と、蓄積されたすべての蒸気圧が、その一点に集中する。


 ハルトの真鍮の義足が、障壁の急所に完璧に炸裂した。


 ――バリィィィィン!!!


 坑道全体を揺るがす、ガラスが粉々に砕け散るような大爆音。質量障壁が限界を超えて破断し、強烈な減圧風が吹き荒れた。真空だった空間へ、周囲の空気が凄まじい勢いで逆流し、猛烈な突風がハルトたちの身体を吹き飛ばそうとする。


「ぐあああっ!」


 ハルトはワイヤーを固く握り締め、ロルフはツルハシを地面に突き立てて、その激流に耐えた。逆流する空気が真空ポケットを満たし、新鮮な酸素が空洞の奥へと行き渡る。


 やがて風が収まり、静寂が戻った。


「ゴホッ、ゴホッ……! あ、頭が、割れそうだ……」


「生きてる……俺たち、息ができるぞ!」


 障壁の向こうに漂っていた炭鉱救助隊第一班の坑夫たちが、次々と床に崩れ落ちながらも、激しく咳き込み、肺いっぱいに空気を吸い込み始めた。彼らの青ざめていた顔に、みるみるうちに赤みが戻っていく。


「野郎ども……! 無事か!」


 ロルフが駆け寄り、部下たちを次々と抱き起こした。ベテラン坑夫たちは、涙を流しながらロルフの肩を叩き、そしてハルトの方を畏敬の念に満ちた目で見つめた。


「ロルフ、そいつは……?」


「ウェルナー時計店のハルトだ。こいつの『調律』がなけりゃ、お前らは今頃、虚無の塵になってたところだ。こいつは、俺たちの命の恩人だ!」


 坑夫たちが口々にハルトを「奇跡の調律士」と称え、感謝の言葉を述べる。ハルトは調律ハンマーを腰に戻し、ふらつく身体を壁に預けた。右足の義足からは、不快な金属摩擦音――「ガリガリ、ギィ」という、ギヤが一部焼き切れた鈍い音が響いていた。切断面の火傷は酷く、立つだけで意識が飛びそうな激痛が走る。だが、ハルトは職人としての誇りを込めて、静かに微笑んだ。


「動くな。まだ地盤が完全に安定したわけじゃない。全員、すぐにエレベーターの予備通路へ――」


 ハルトが指示を出そうとした、その瞬間だった。


 障壁が破壊されたことによって、崩落した岩盤の奥が大きく崩れ落ちた。ガラガラと音を立てて瓦礫が崩れ去ったその向こう側に、広大な空間がぽっかりと口を開けていた。


 その空間の中心で、不自然に揺らめく、眩いほどの青い光が放たれていた。ハルトの『重力共鳴(チクタク・センス)』が、これまで体験したことのない、天文学的な規模の質量振動を感知した。耳の奥で、巨大な振り子時計が時を刻むような、重厚な「チク、タク」という音が響き渡る。


「……何だ、あの光は……?」


 ロルフが息を呑んだ。壊れた岩盤の奥深く、地底の暗黒を照らし出していたのは、街の浮遊を支える超希少資源――純度A級重力石コア『マザー・コア』の、剥き出しになった心臓の輝きだった。

HẾT CHƯƠNG

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