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奈落の淵に打ち込め

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凍てつく虚無の風が、剥き出しの肌を容赦なく切り裂いていく。


 アイゼンシュタットの西端――「落涙の崖」の最果て。そこは重力異常によって地下からの湧き水が空へと逆流し、きらめく霧の滝となって天空へ吸い上げられる、美しくも呪われた奇景の地だった。だが今、その美しい滝は、地底の悲鳴とともに完全にねじ曲がっていた。


 ゴゴゴゴゴ……と、胃の腑を震わせるような重低音が響く。何万トンという大地の質量が、浮力を失ってゆっくりと、しかし抗いようのない速度で、遥か底の見えない暗黒――「虚無の谷(アビス)」へと滑り落ちようとしていた。引きちぎれた鉄のレールが、崖の淵から奈落に向かって無残に垂れ下がっている。


「ハ、ハルト! 足場がもたねえ! 貨車が傾いてやがるぞ!」


 吹き荒れる暴風の中、ロルフが裂けんばかりの声で叫んだ。彼とオットーは、停止した鉱山列車の平床貨車から、全長三メートルに及ぶ真鍮の巨大な楔――簡易重力アンカー『アイゼン・ボルト』を引きずり出そうと、命懸けで踏ん張っていた。だが、地盤の傾斜はすでに十五度を超えており、鋼鉄の車輪が悲鳴を上げて火花を散らしている。


「ロルフ……オットー……そこから、動くな……!」


 ハルト・ウェルナーは、歪んだ真鍮の義足を引きずりながら、一歩を踏み出した。


「ぐっ、あ、あああ……!」


 激痛が脳髄を灼く。右足の断端は、先ほどの列車暴走時にボイラーの排気熱を直接浴びたことで、重度の熱傷を負い、ソケットの中で皮膚が引きちぎれるように痛んだ。さらに、魔力の過駆動による「重力病中期」の侵食は容赦なく進んでおり、彼の左足は膝下から爪先まで冷たい真鍮の結晶と化していた。歩くたびに、肉と同化した真鍮の皮膚が「カチリ、カチリ」と時計の秒針のように不気味なきしみ音を立て、関節が硬直して思うように動かない。


 ハルトは額の『特製防塵ゴーグル』の真鍮製ダイヤルを指先で回した。ノイズの混じる視界の中で、固有技能『質量視覚(マス・ヴィジョン)』を強制起動する。


 世界から色彩が消え去り、濃淡の青い光で構築された「質量の流れ」が浮かび上がった。崖の先端部分、古代遺跡の接続端子となる最も強固な地盤の「ツボ」が、質量視覚の線によって、一際濃い青い光となって輝いている。あそこにアンカーを打ち込み、鉄道のレールと接続すれば、街の崩壊は一時的に繋ぎ止められる。ハルトは懐から『質量測定器(グラビティ・スケール)』を取り出し、竜頭を回した。内部の極小ギヤが狂ったように回転し、周囲の重力定数が「零点四G」まで急激に低下していることを示す。


 その瞬間、ハルトの『重力共鳴(チクタク・センス)』が、暴風の音を突き抜けて、極めて鋭い不協和音を捉えた。


 チキリ、と――空間が引き絞られるような、不可視の金属音。


「しまっ――」


 直感的に、ハルトは頭を下げた。一瞬遅れて、彼の耳朶をかすめるようにして、空気が爆発するような凄まじい風切り音が通り抜けた。背後の岩盤に何かが着弾した瞬間、轟音とともに直径一メートルものクレーターが穿たれ、粉砕された岩片がハルトの頬を切り裂いて虚無へと吸い上げられていく。


「曲射重力弾……!」


 ハルトは傷ついた右肩を押さえながら、質量視覚の視線を遥か高所の岩陰へと向けた。そこには、長い黒のマントを羽織り、片目に特殊な照準ゴーグルを装着した男――帝国軍の重力狙撃手、ヨハン・ヴァイスが潜んでいた。彼の手にする真鍮の長いライフルから、二発目の銃弾が放たれる。


 その弾道は、物理法則を無視して風を切り裂き、障害物を避けるように不自然な放物線を描いてハルトの右足――真鍮の義足を正確に狙い撃ちに来ていた。


「ハルト、避けろ!」


 オットーが叫ぶが、結晶化した左足が硬直して動かない。ハルトは『重力迷彩(グラビティ・クローク)』を展開して姿を隠そうとした。だが、崖の淵から吹き上げる猛烈な上昇気流と重力嵐が、迷彩を維持するための微弱な魔力場をズタズタに引き裂き、一瞬で彼の位置を再び露呈させてしまう。


 逃げ場はない。ハルトは覚悟を決め、右足の義足を地面に深く踏み込んだ。


「――『慣性錨(イナーシャル・アンカー)』!」


 義足内の重力石の引力軸を瞬間的に最大化し、自身の質量を一時的に「三トン」にまで跳ね上げる。突進してきた重力弾が、ハルトの義足のフレームを直撃した。キィィィン! と鼓膜を刺す金属音が響き、衝撃波が周囲の空気の塵を吹き飛ばす。無限大に近い慣性質量によって弾丸の運動エネルギーは物理的に完全に相殺されたが、その凄まじい衝撃波は、ハルトが立っていた脆い岩盤を直撃した。


 メリメリ、と足元の岩に巨大な亀裂が走る。


「足場が崩れる……!」


 ハルトの足元の岩盤が、彼の三トンの自重に耐えかねて、崩壊しながら虚無の谷へと傾いていく。ハルトの身体が、奈落の闇に向かって滑り落ち始めた。


「ハルト――っ!」


 ロルフが手を伸ばすが、届かない。落下していく視界の中で、ハルトは冷徹な時計技師の計算を止めていなかった。彼は宙に浮きながら、腰のベルトから『真鍮の調律ハンマー「クロード・モデル」』を抜き放ち、崩れゆく崖の岩肌に向かって渾身の力で叩きつけた。


「――『地盤調律(テラ・チューニング)』!」


 ハンマーが岩に触れた瞬間、同心円状の青いルーンが、バラバラに崩壊しつつあった岩石の隙間へと広がっていった。ルーンが刻まれた砂利や瓦礫が、お互いに強烈な引力で引き合い、一瞬にして一枚の頑強な「岩の壁」となって凝固する。ハルトはその即席の防護壁にワイヤー・ガンのフックを撃ち込み、身体を引き寄せ、崩落の淵から這い上がった。


 即席の岩壁が、ヨハンの放った三発目の重力弾を物理的に遮断する。バシィン! と激しい火花が散り、壁の向こうで弾丸が砕け散る音がした。ハルトはその一瞬の隙を見逃さず、ロルフたちが貨車から降ろした『アイゼン・ボルト』へと這い寄った。


「ロルフ、オットー、俺を支えろ! 一発で、あの地盤のツボに打ち込む!」


 ハルトはアンカーの巨大な真鍮ギヤに手をかけ、質量視覚で捉えた接続端子の「急所」を見据えた。左足の真鍮結晶がカチカチと狂ったように軋み、右足の義足からは過熱した白い蒸気が噴き出している。彼のぜんまいは、もう限界に達しようとしていた。だが、彼の瞳に宿る職人の炎は、消えてはいなかった。


 ハルトは調律ハンマーを高く振り上げた。この一撃で、アンカーのギヤを叩き、地脈の重力流と同調させる。街の運命を繋ぎ止めるための、最後の一振りが、今まさに下ろされようとしたその瞬間――。


 パシィィン! と、大気を引き裂く不気味な音が、再び高所から響き渡った。


 重力狙撃手ヨハンが放った、完璧に計算された最後の一発。それは、ハルトが築いた即席の岩壁を、物理的に大きく「迂回」するように急角度で曲がり、アンカーの最も脆弱な部分――『アイゼン・ボルト』の主ギヤの歯車に向かって、弾丸のような速度で迫りつつあった。


 そのギヤが破壊されれば、アンカーは二度と再起動しない。街は、虚無の底へ落ちる。


「……そこ、か!」


 ハルトの振り下ろすハンマーの軌道上に、死の弾丸が、真っ直ぐに交錯しようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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