傾ぐ大地と真鍮の楔
「ぐっ……、あ、ああ……!」
ハルト・ウェルナーは、オットーの鍛冶場の冷たい石床に片膝をついたまま、激しい喘息のような呼吸を繰り返していた。左足の爪先から足首にかけて、皮膚が冷酷な真鍮の幾何学模様へと変色している。重力病中期――それは過剰な重力負荷が肉体に蓄積した代償であり、動かすたびに、皮膚の下で無数の極小ギヤが無理やり噛み合うような、身を切る激痛が走った。右足の切断面もまた、先ほどの過負荷接続による熱傷で赤黒く腫れ上がり、包帯の上からでも容熱が伝わってくる。
「ハルト! 無理をするな、まだ歩ける状態じゃねえ!」
巨漢の炭鉱夫ロルフ・アイヒャーが、煤まみれの逞しい腕でハルトの肩を支えようとした。しかし、ハルトはその手を静かに、だが拒絶の意志を込めて押し戻した。
「……時間がない、ロルフ。街の東側が虚無に落ちるまで、あと三十分もないんだ。オットー、アンカーを……『アイゼン・ボルト』を列車に積むぞ」
ハルトの視線の先には、金敷の上で青く澄んだ光を放つ、全長三メートルに及ぶ真鍮の巨大な楔が横たわっていた。ハルトの『質量相殺鍛錬法』とオットーの神業的な鍛造技術によって完成した、世界にただ一本の簡易重力アンカー。これこそが、アイゼンシュタットを繋ぎ止める唯一の希望だった。
「若造、足元に気をつけろ。地盤の傾斜がさらにひどくなっていやがる」
老鍛冶職人オットーが、固く口を結びながら、重い鎖をアンカーの主ギヤに巻き付けた。彼の言葉通り、鍛冶場の床はすでに十度以上も傾いており、転がった鉄屑がカラカラと音を立てて東側の壁へと滑り落ちていく。壁の隙間からは、虚無の谷から吹き上げる不気味な風の音が、遠い獣の遠吠えのように響いていた。
ロルフと炭鉱夫たちは、数人がかりで『アイゼン・ボルト』を鉱山用の頑強な平床貨車へと運び込んだ。その背後に、ハルトは半壊した真鍮の人形『ギヤマン』を従え、きしむ左足を引きずりながら機関車の運転席へと這い上がった。ギヤマンは言葉を発しないが、その胸のゼンマイコアを「チク、タク」と悲痛なリズムで鳴らし、ハルトの右足の義足を支えるようにその真鍮の手を添えた。
「ヤコブ、第一幹線を走れるか?」
ハルトが運転席のベテラン機関士ヤコブ・ウェーバーに問いかける。ヤコブは煤けた帽子を深くかぶり直し、懐中時計を睨みつけた。
「レールが何箇所か歪んでやがる。脱線ギリギリの速度で行くしかねえな。ハルト、お前の『質量中和』がなけりゃ、最初のカーブで谷底へ真っ逆さまだぞ」
「分かっている。俺が列車全体の質量を制御する。ロルフ、オットー、アンカーを死守してくれ!」
「おうよ! 任せとけ!」
石炭が炉に投げ込まれ、高圧の蒸気がピストンを押し出す。鉱山鉄道の特別列車は、轟音とともにオットーの鍛冶場を後にし、傾き狂うアイゼンシュタットの暗黒のトンネルへと突入した。
◇
第一幹線のレールは、重力異常によって波打つように歪んでいた。列車が速度を上げるたびに、車体が激しく左右に揺れ、車輪が悲鳴のような金属音を立てる。ハルトは機関車の先頭に立ち、右足の『バラスト・プロトタイプ』を冷たい鉄のフレームに固く押し当てていた。義足の内部で、ヨハンの遺した重力石の破片が、地底からの巨大な地鳴りと共鳴し、ハルトの脳裏に「チクタクチクタク」と狂ったような秒針音を響かせる。
「ハルト! 前方のトンネルを抜けた先、鉄橋の手前に何かいるぞ!」
貨車の上からロルフが叫んだ。ハルトは防塵ゴーグルのダイヤルを回し、固有技能『質量視覚(マス・ヴィジョン)』を起動した。モノクロームに切り替わった視界の先、トンネルの出口を塞ぐように、青白い魔力の光が不気味に渦巻いているのが見えた。
「……特許商会のエージェント、ヴァルター・シュミット!」
ハルトの唇から、冷たい怒りの言葉が漏れた。トンネルを抜けた鉄橋のレール上に、仕立ての良い黒いスーツをまとったヴァルター・シュミットが、冷ややかな微笑を浮かべて立っていた。彼の手には、真鍮製の特許無効化デバイスが握られており、その周囲を、黒い対重力合金の鎧に身を包んだ帝国軍の精鋭「鉄の杭」部隊が、巨大な真鍮の盾を構えて一糸乱れぬ陣形で囲んでいる。
「そこまでだ、不法技術者ハルト・ウェルナー」
シュミットの声が、重力波を媒介にして列車の運転席へと直接響いた。
「お前たちが運んでいるアンカーは、我が特許商会の重力制御意匠を著しく侵害している。無認可の重力デバイスの輸送は、帝国法に基づき即座に接収、および破壊の対象となる。……止まれ」
シュミットが右手のデバイスを起動した。瞬間、灰色に濁った死の魔力波が、波動となって列車全体を襲った。特許商会の『特許デバイス強制停止』。列車の機関室に設置された帝国公認の蒸気レギュレーターが、その波動に触れた瞬間、青いスパークを散らして沈黙した。ピストンの動きが急速に衰え、列車の速度が落ち始める。
「クソッ、機関が死にやがった! ブレーキも効かねえ!」ヤコブが叫ぶ。
「慌てるな、ヤコブ!」
ハルトは義足のソケットから直接、自身の体内の魔力(エーテル)をレールの鉄線へと流し込んだ。商会の特許回路を迂回する、クロード直伝の『古代調律パターン』。それは、法的な制限を物理的にバイパスする、真鍮の不協和音だった。ハルトの調律ハンマーが機関車の制御盤を物理的に激しく叩くと、「キィィン」という高音とともにバイパス回路が起動し、蒸気機関が再び野生の獣のように吼え猛った。圧力計の針が急上昇する。
「何だと……!? 商会のロックを解除しただと?」
シュミットの微笑が驚愕へと凍りついた。しかし、彼の背後に控える「鉄の杭」部隊は、動じることなく巨大な盾を重ね合わせ、レール上に強固な「肉の壁」を形成した。盾の表面に展開された『鉄壁の盾陣(グラビティ・ウォール)』が、数万トンに匹敵する擬似的な引力の壁となって、向かってくる列車を正面から粉砕しようと待ち構える。
「正面衝突するぞ! アンカーが壊れちまう!」ロルフがツルハシを構えながら叫んだ。
「ロルフ、アンカーをしっかり固定しろ! ――質量を、ゼロにする!」
ハルトは自身の右足の義足を、機関車の連結器へと強く踏み込んだ。発動するのは『質量相殺(ゼロ・グラビティ)』。義足内の重力石の引力軸を上方向へと強制的に反転させ、その共鳴周波数を、列車全体の鉄フレームへと『歯車同調システム』を介して一瞬で伝導させる。
キィィィィン!
鼓膜を突き破るような超高音が響き、列車全体がかすかに青い光に包まれた。次の瞬間、数千トンあったはずの鋼鉄の列車が、まるで羽毛のようにその「自重」を失った。
列車はレールから数センチ浮き上がり、衝突の瞬間に、ハルトは義足の過負荷制御弁を限界まで開放した。噴き出した超高圧の蒸気が、列車の底面を押し上げる推進力となる。列車は「鉄の杭」部隊が展開する盾陣の頭上を、まるで水面を滑る平たい石のように、物理的な衝撃を一切受けることなく滑空し、飛び越えたのだ。
「ば、馬鹿な……! 列車が、浮いた……!?」
シュミットの絶叫が、遠ざかる風の中に消えていく。列車は彼らの頭上を完全に飛び越え、対岸のレールへと滑らかに着地した。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。極限の過駆動により、ハルトの右足の義足関節から「バチバチ」と激しい火花が散り、メインシャフトが物理的に歪んで白煙を上げた。接続部のソケットが異常発熱し、ハルトの右足の切断面を容赦なく焼き焦がす。
「う、ぐあああああ!」
ハルトは激痛に耐えかねて運転席の床に崩れ落ちた。左足の結晶化部分も、その衝撃で「カチリ」と不気味なきしみ音を立て、硬直がさらに膝の近くまで這い上がっていくのが分かった。立っていることすら奇跡に近い満身創痍の状態で、ハルトは必死に意識を保ち続けた。
列車はトンネルを抜け、ついに目的地の「落涙の崖」の近くへと滑り込んだ。
しかし、ヤコブが急ブレーキをかけ、列車が激しい火花を散らして停止したその瞬間、ハルトたちの目の前の光景が、さらなる絶望へと塗り替えられた。
メリメリ、メリメリ、メリメリ!
地底の底から響く不気味な破断音とともに、目指す「落涙の崖」の足場が、巨大な地割れによって真っ二つに裂け始めていた。数千トンの岩盤が、ゆっくりと、しかし確実に、遥か下方の「虚無の谷(アビス)」へと滑り落ちていく。アンカーを打ち込むべき大地の基盤そのものが、崩壊の巨大な渦に飲み込まれようとしていたのだ。
「おい、ハルト……! 崖が、崖が落ちやがるぞ!」
ロルフの悲痛な叫びが、虚無から吹き上げる突風にかき消されていく。ハルトは歪んだ義足を引きずりながら、崩れゆく奈落の淵を、ただ凝視するしかなかった。
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